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天つ風 6

「じゃあ、着てみるよ」 「うん、見せておくれ」  父さんが6年間着た黒い学ランに袖を通した。  少しのほつれも汚れもない学ランは、きちんとした印象の父さんそのものだ。  くんくんと匂いが嗅ぐが、汗臭さとかとは無縁だった。いやそれどことか、そこはかとなく清涼な香りが漂ってくる程だ。  それにしても流石、私立だな。生地がペラペラでなく厚みがあって上質だ。  オレ、今の高校の制服をこんなに綺麗に残せないだろうな。  3年で朽ち果てる気がする。  だってさ、既に袖が土で汚れているんだ。  朝、歩いているだけで、いろんな人に呼び止められる。 「あなた『伝説のR』に歩き方が似ているわ」 「へ?」 「懐かしいわ。そうだわ! しっかり貢がないと」 何故か「持ってけ持ってけ」と見知らぬおばあちゃんからいろんな野菜や果物をもらうんだ。土がついたままのじゃがいもとか朝採れトマトとか意味不明だ。この前はいきなり干物を差し出されてギョッとしたよ。あれは流石に受け取れなかったけど、今度は思い切ってもらってみようかな? 海岸で焼いたらいい昼飯になるかも。  ワクワクしてきた!  あれこれ考えながら、ボタンを留めていると…… 「あれ? 第二ボタンがないな。父さんやっぱりモテたんだな。まぁ当たり前か。でも誰にあげたんだろう?」  苦しいが一番上のボタンまでしっかり留めると、父さんの過去を背負った訳でもないのに、グッと気が引き締まった。 「いい感じ!」  まるでオレに誂えたかのように、サイズはぴったりだった。  当たり前だが大人にも子供時代があったんだなと、感慨深く思った。 「どうかな? ジャストサイズだったよ」  くるりと振り向くと、父さんと流さんが肩を組んで笑っていた。 「おぉ、もう今でぴったりか。薙はもっと大きくなりそうだな」 「うーん、悔しいけど、そのようだね」 「翠が息子を見上げる日が来るのは、確実だな」 「だねぇ」  洋さんも壁にもたれて。ゆったりと寛いだ笑顔を浮かべていた。 「薙くん、よく似合っているよ」  過去と今が交差しているような不思議な空気が、衣装部屋には漂っていた。  オレが来る前、きっと皆この学ランを通して、過去に想いを馳せたのだろう。その過去はけっして夢と希望の溢れた輝かしいものではなかったかもしれないが、その過去があって今がある。  父さんと流さん、そして洋さんがこんなにも魅力的な大人になれたのは、きっと忍耐と勇気を持ち続けたからだ。 「薙、どうした? 顔色が……」 「いや、その……父さんの歴史を背負ったみたいで」 「……そうか。僕が薙に贈る言葉はただ一つ。どんなことがあっても希望を持って生きて欲しい」 「翠さんの言う通りだ。薙くん、何があっても必ず未来に続く道はある」  父さんと洋さんからの言葉が、胸にドンと響く。  薙ぎ払おう、過去を。  解き放とう、今、自由に―― ****  衣装部屋で俺は二人の兄と肩を揺らし、心から笑い合った。  こんな風に男同士でじゃれ合う時間は、一人っ子の俺には縁遠いものだったので嬉しかった。  誘われるがままに、母屋で夕食も一緒に取った。  俺の居場所がある。  ひとりじゃないことが、嬉しい夜だった。 「洋、丈は当直なんだろ?」 「えぇ、明日の夜まで戻りません」 「じゃあ、こっちで一緒に眠ればいいじゃないか」 「いや、それは流石に」 「あ、そうか、丈とのラブコールがあるもんな」 「それは……」 「洋くん、では、これを持ってお行き」  まるでお土産のように丈の制服を翠さんに手渡されて、照れ臭くなった。 「丈ね、絶対に喜ぶと思うよ。洋くんに制服に沢山触れてもらいたいと強請りそうだ」 「す、翠さん」  なんて翠さんが言うから、俺は離れに戻ってからずっとそわそわして落ち着かない。  丈の制服を寝室のクローゼットにかけて、何回も眺めてしまった。  そっと触れてみる。  高校時代の丈……  俺と出会う前の丈がここにいる。  なぁ、お前はどんな男だった?  俺に巡り逢うまで、一人で何を考え、何をして過ごしていた?  過去は過去に過ぎないのに、愛しい人の高校の制服は厄介だ。  明日の夜まで待てそうもない。  羽織ってみれば、何か感じるだろうか。  俺は誘惑に負けてパジャマを脱ぎ、丈の制服を着てみた。    悔しいが、ダボダボだ。  悔しいが、俺には似合わない。  だが丈にまた一歩近づけたような、丈の中に一歩踏み込めたかのような不思議な心地になっていた。 「これは、まずいな」  気持ちを持って行かれそうになり、慌てて脱ごうとした所で、まさかの丈からのコール!    

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