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天つ風 31

 リレーの順番を待っていると、心が研ぎ澄まされてきた。  走るのは、昔から好きだった。  小さい頃、父さんによくグラウンドのある公園に連れて行ってもらったよな。 …… 「わぁ、ひろい!」 「薙、走っておいで」 「うん!」 「薙は自由だ。自由自在にこの世界を走っていいんだよ!」 「……うん、みていてね」 「さぁ、いっておいで! そして、またここに戻っておいで」 「わーい!」 ……  父さんに背中を優しく押されると、ゆっくりと世界が動き出した。  走り出すと、世界が瞬く間に飛んでいった。  あの頃は父さんの言葉の真意は分からなかったが、今考えると寺の跡取り、長男として己を律し過ぎて雁字搦めになっていた父さんにとって、オレは自由の翼だったのかもしれない。  オレは父さんの前で走るのが好きだった。  1周走って元の場所に戻ってくると、父さんが両手を広げて抱きしめてくれたから。  だが父さんと母さんが離婚して、オレは走るのをぴたりとやめた。  走っても、もう父さんはいない。  オレを見てくれない。  そのくせ、夢の中ではいつも走っていた。  走って走って、父さんを探していた。 「とうさん、どこ? どこなの? どうしていなくなっちゃったの?」  答えは返ってこなかった。  高校に入学し体育祭があると聞いて、父さんに無性に今のオレの走りを見て欲しくなった。  中学生の時は微塵も思わなかったのに、どういう心境の変化だろう。  月影寺に来た当初は父さんと上手くいってなかった。だから中学生活に気合いも入らず体育祭も適当に流した。  だがあの事件を経て、父さんが身を呈して守ってくれたオレ自身を大事にしたいと思った。それは父さんを大事にすることにも繋がるから。  父さんが見たかった光景を見せてあげたい。  今のオレが自由なのは、父さんのおかげだ。 「わぁぁ―― 赤が先頭です。黄色も追い上げています!」  歓声によって、はっと現実に引き戻された。 「薙、そろそろ準備しろ」 「OK」  2位でバトンがまわってきた。  絶妙のタイミングでバトンを受け取り一気に加速していく。  光のように世界を走り抜けて、カーブも巧に曲がりついに先頭を捉えた。  抜ける!  抜いてみせる!  その瞬間、勢い余って相手の足にぶつかりそうになった。  このままだと巻き込んでしまう。  一瞬怯んだら、俺の視界は一気にひっくり返った。 「痛っ」  転んだと気付いたのは、白線が見えなくなったから。  どうして青空が見える? 「くそっ」  とにかくバトンを繋がないと、チームメンバーに迷惑をかけてしまう。  急いで立とうとしたが、足首にとんでもない激痛が走った。 「あぁっ!」  思わず悲鳴を上げてその場に疼くまった。  なんだ……この痛み?    金槌で足首を勢いよく叩かれてるようだ。  よりよってリレーの最中に転ぶなんて格好悪い。  悔しい。  感情がごちゃまぜになって、頭の中が灰色に濁っていく。  今すぐ立って、この場から去りたいのに、足が痛すぎて無理だ。 「あ……誰か……、先生」  こんな時は保健の先生が担架と共に駆けつけるはずなのに、振り向くと、他の生徒の介護をしていた。 「まじかよ?」  一刻も早く消えてしまいたい。    俯いて視界を閉ざすと、力強い声がした。 「薙、大丈夫か!」 「え、流さんがどうして?」 「先生は他の生徒にかかりきりだから、俺が医務室まで連れて行ってやる」 「そんなの、いいよ!」  オレは素直になれず、流さんを突き飛ばした。  実際には流さんは微動だもせず、オレの背中をさすってくれていた。  気恥ずかしさから悪態をつき、悔しさから拳を地面に打ち付けた。 「くそっ! 転ぶなんて最悪だ!」 「薙、お前は全力を出していた。格好悪くなんかないぞ。さぁ行くぞ」  ぐらりと視界がまた反転した。 「えっ?」 「よし、まだ抱っこできるな」 「抱っこ? ええっ、流さん下ろしてよ! こんなの恥ずかしいよ!」  ドンドンと背中を叩くがビクともしない。 「本当にここで下ろしていいのか」 「あ……」 「素直になれ、どこへ行きたかった?」 「……ゴールまで走りたかった」 「御意! しっかり掴まってろ」  流さんにしがみつくと、景色がぶっ飛んだ。 「は、速い!」 「俺もまだまだ現役のようだ」 「流さん、ありがとう」 「足、ずいぶん腫れてきたな。すぐに病院で診てもらおう」 「うん」  素直になろう。  助けてくれる人がいるのなら、甘えてみよう。  保健室で流さんが応急処置をしてくれ、先生にも話をつけてくれた。  そこに父さんと洋さんもやってくる。 「薙くん、丈の病院が受け入れてくれるから、すぐに行こう。手筈は整えた」 「よし、薙、おんぶしてやるから行くぞ」 「薙、頑張ったね。格好よかったよ」  オレって、こんなに大事にされてんだな。  父さん、流さん、洋さん、ありがとう。  タクシーに乗ると、足がまたズキズキと痛くなってきた。    この位……耐えて見せろ!  バカ、泣くなっ  そう思うのに、父さんがあまりに優しく抱きしめてくれたので少し泣いてしまった。 「薙、あぁ……痛かったね」 「父さん……父さん、痛いよ……すげぇ痛いっ」    こんな風に甘えて弱音を吐くのはいつぶりだ?  父さんだから、父さんにだから……見せてもいいと思ったんだ。      

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