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天つ風 30
「そろそろ行くか」
「流、ひとときの涼をありがとう」
「どういたしまして」
二人の兄の間を行き交う優しい情。
互いを慈しみ労り合っているのが、しっかりと俺にも伝わってくる。
この二人も長い、長い苦難の道を歩んできた。
道が険しく苦しかったのは、俺だけではない。
翠さんの苦悩も、相当なものだった。
「洋くん、行こう」
「はい、兄さん」
だからこそ、彼等に歩み寄りたい。
痛みを知る二人の兄の幸せを願う弟して生きて行きたい。
今の俺には大切な家族がいる。
暖かい家はある。
最愛の丈、そして凜々しく逞しい二人の兄さんとカッコいい甥っ子。
一緒には住んでいないが、慈悲深く俺を可愛がってくれる優美な祖母と、幼い頃から無条件に慕ってくれる可愛い従兄弟もいる。
声をかけてもらった時は薙くんの晴れ舞台、高校の体育祭に、俺なんかが顔を出すなんて分不相応だと決めつけていたが、それは勝手な思い込みだった。
もう俺なんかと自分を卑下するのはやめよう。
小森くんの言う通り、思いきって来てみて良かった。
自分から動くと、こんな風に手応えがあるんだな。
ここでは背伸びは不要、殻に閉じこもることも不要だ。
自分の手の平をじっと見つめると、答えが見つかった気がした。
今の俺でいい。
今の俺が出来ることを丁寧にしていけばいい。
****
「いよいよ色別リレーが始まるぞ」
今日最後の薙の出番が近づいていた。
「流に似て、薙は足が速いようだね」
「俺もいつもリレーの選手だったからな」
「うん、そうだったね」
さぁ黄色いハチマキの薙はどこだろう?
リレーの出る生徒の集団の中で、キリッと集中している姿が見えた。
「次はいよいよ最後の競技。色別リレーです。応援お願いします」
アナウンスの後、ピストル音と共に第一走者が走り出した。
大声援の中、黄組は2位をキープし続けていた。
接戦のまま、ついに薙にバトンが渡った。
「頑張れー!」
「がんばれ!」
皆、興奮して大歓声だ。
薙の走りはとても綺麗だった。
白線のカーブも颯爽と駆け抜けて、先頭を走る赤組の背中が見えてきた。
「頑張れー 薙!」
僕も流も洋くんも、夢中で叫んでいた。
「薙が抜かすぞ!」
「本当だ!」
薙が歯を食いしばり、加速する。
「よし! 抜かした」
「あっ」
ところが次の瞬間、薙の姿が視界から突然消えてしまった。
「え?」
「あっ、転んじまったな」
「えぇっ!」
慌てて視線を戻すとコースから外れた場所で、薙が足を押さえて蹲っていた。
顔をしかめて、これは、かなり痛そうだ。
せっかく追いついたのに、赤組が1位でゴールしてしまった。
でも結果なんかより、薙が心配だ。
今すぐ駆けつけたいが、ぐっと堪えた。
もう薙は小さな子供じゃない。
高校生だ。
親が出ていく場面じゃない。
学校に任せないと。
ところが、先生がなかなかやってこない。
慌てて周囲を見渡すと、薙に夢中で気付かなかったが、薙より手前で生徒同士の衝突があったようで、そちらに保健の先生が駆けつけていた。担架に乗せようと必死になっている。
「なんてことだ」
「くそっ、埒が明かないな。俺が見てくるよ」
「頼む!」
流がヒョイと垣根を跳び越え、薙の元に駆けつけてくれた。
少し会話をした後、薙は悔しそうにグランウドを拳で叩いた。
流が肩を貸そうとするが、薙は拒んでしまう。
思わず僕も走り出しそうになったが、洋くんに手首を掴まれた。
「兄さん、落ち着いて下さい。薙くんは流さんに任せましょう。それより捻挫か骨折か……早く病院に行った方がいいです」
「あ、あぁ、洋くんの言う通りだ」
そこに再び大歓声が聞こえてきた。
何事かと振り返ると、流が薙を軽々と抱えて全速力でグランウドを走っていた。
そしてゴールまで走った後は、そのまま保健室に駆け込んだ。
一瞬の出来事だったが、流の背中に『R』と描かれていたので、生徒たちが大騒ぎだ。
「困った時に颯爽と現れたな、流石『伝説のR』だ!」
流はまだまだ現役だ。
僕と洋くんも荷物をまとめて保健室へ向かった。
流の時代も、体育祭では毎年一人、二人が松葉杖になったが、まさか薙が……
心配だったが、流と洋くんがいてくれるので冷静になれた。
「兄さん、丈の病院に連れて行きましょう」
「そうだね、それが安心だ」
「俺、丈に連絡します」
「ありがとう」
僕には、頼もしい弟がもう一人出来た。
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