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天つ風 29
「張矢先生、お疲れ様です。ちゃんと水分補給をして下さいね」
「あぁ、ありがとう」
「うーん、でも張矢先生って手術中にあまり汗をかきませんよね」
「それは、日頃から鍛えているからな」
「流石です! まさに医者の鏡ですね」
「……まぁな」
午後一番の手術が終わり、シャワーを頭から浴びた。
なるほど……汗をかかないか。
確かに一般的に執刀医は手術中、緊張や精神的興奮状態、そして滅菌された手術着に手袋もしているため、首から上に大量に汗をかくことが多い。だが私は夜な夜な洋を抱き汗だくになっているので、手術の時はさほど出ないようだ。
シャワールームの鏡に映る、洋を抱くことによって鍛え上げられた腹筋と二の腕に、思わずニヤリと微笑んでしまった。
流兄さんには負けられない。
昔から4歳上の翠兄さんは別格の尊い存在で、2歳差の流兄さんには闘志を燃やしていた。
と言っても、いがみ合うのではなく、実は密かに憧れていたのだ。
感情をストレートに表現できること。
大らかな明るい性格。
人を魅了するリーダーシップ。
そして何よりどんどん成長していく男らしい体格。
気付けば翠兄さんをすっぽりと包み込める程の体格差になっていった。
流兄さんが持っている中で私が勝負出来そうなのは、男らしい体格だと目をつけた。持って生まれた気質を変えるのは難しいからな。
中学で実家を離れ、千葉の学生寮で生活した。
この性格だから友人は簡単には出来ず、休日はやることもなかったので、勉強の合間に自分の身体を鍛えることに夢中になった。
いつか出逢う人のためにも、体力だけはしっかり身につけておきたい。
それは何故か遠い遠い昔からの切なる希望のようにも感じた。
シャワーを止め、濡れた髪を掻き上げ目を閉じると、美しい恋人の顔がくっきりと浮かんだ。
笑顔だ。
洋は出会った事はいつも辛そうな顔ばかり浮かべていたが、最近はよく笑うようになった。
驚いた事に流兄さんの高度な下ネタにも軽々と応じ、逆に流兄さんを言い負かすことも多くて、見ていて小気味良い程だ。
私の愛しい洋は、まだまだ進化する男だ。
ただ夜空に浮かぶ月のように姿を変えても、いつも私を照らしてくれる安心感がある。
夜な夜な洋を抱くのは私の方だと思っていたが、洋も私を抱いているのかもしれないな。
漆黒の空を受けとめる月のように、私を抱いてくれる。
「ふっ」
柄にもなく思い出し笑いをしてしまった。
今朝、洋を抱き潰したつもりが私の方が潰れていたのか、冷たい水をいきなり差し出されたな。
……
「丈、身体がガビガビだぞ」
「おいおい、洋は美しい顔なのに口が悪いぞ。ガビガビとは」
「……昨日は暑かったから汗だくだったし、一晩であんなに何回もするなんて、高校生じゃあるまいし……全く」
洋はしなやかな身体に白いバスローブだけを纏い、ベッドに腰掛けペットボルトの水をゴクゴクと飲んでいた。
「……洋は潤ったか」
「……まぁね」
「私は確かにガビガビだ」
「分けてやるよ」
洋はフッと微笑み、それから躊躇いもせずに口移しで水を飲ませてくれた。
「ん……どうした? 積極的だな」
「丈は自分の身体に無頓着だから」
「……そうか、悪かった。気をつけよう」
「潤いはこうやって補いあっていけばいい」
「そうだな」
乱れたバスローブから洋の滑らかな太腿がちらついて見える。
また洋をベッドに押し倒しそうになったが、必死に自制した。
「しないのか」
「これ以上ガビガビになったら困る」
「俺を愛し抜いた証だから、悪くない。自慢したい位だ」
「おいおい、流兄さんには言うなよ。騒ぐから」
「ふっ、さぁどうだか」
……
あんなことを言っていたが、今頃ネタに使っているのでは?
と言うのも、先程スマホに洋から何故か翠兄さんと冷茶を飲んでいる写真が届いていたからだ。
この場を整えたのは、もちろん流兄さんだよな?
てっきり薙の体育祭に行ったと思ったのに、一体どこにいるのか。
首を傾げてしまったが、洋が幸せそうに笑っていたのでよしとしよう。
洋は一瞬冷たい印象を受けるが、実が懐の深い心の優しい人間なのだ。
だからいつも写真をまめに送ってくれ、帰宅したら1日にあったことを教えてくれる。
今はこれでいい。
だが由比ヶ浜で開業したら……
もう写真ではなく、洋の見る光景は、私と同じになる。
私たちは……離れていた時間が長いから、この世では心揃えて身体も揃えて生きて行きたい。
それが、二人の共通の願いだ――
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