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第1話

 男を背後から貫く。呻いている。苦しさに息を吐き、畳に立てられた爪は白い。鍛えているのか中年とは思えない引き締まった腰を力任せに掴み、固い臀部へと腰を打ち付ける。茂みが跳ね返り、皮膚を焦らす。  偶然だった。何かの偶然だ。でなければ運命の悪戯だった。だが現実的でないこと―科学的でないこと、理屈で説明のつかないことを信じたくない愛糸(あいと)にとって、これは偶然以外の何物でもない。今愛糸の目の前で直腸に同性の象徴をゴム越しに受け止めいている中年男に声を掛けられたのは。あまりにもいきなりだった。深夜に出歩く癖があっても、愛糸は職務質問を受けたことがない。本意不本意関係なく漂わせてしまう穏和な雰囲気のせいか、それとも小さい頃から言われ慣れてしまった「愛糸くんは綺麗だね」という第二次性徴で顕著になってゆくはずだった雄々しさよりもあどけなさを残してしまった顔立ちのせいか。真っ白いシャツに濃い緑のスラックスと黄土色ともゴールドともいえない色味のネクタイ。小綺麗な身なりをしていた。口元を覆う髭が不潔というわけではなかったがアンバランスで、職務質問を受けるべきはこの男だろうと思ったが、その正体は警察ではなかった。  色気の無い声が耳に届く。喉を潰してしまいそうな声だった。苦しいのなら止めたらいい、止めるように乞えばいい。抵抗をするのなら、相手が驚くほどあっさりと愛糸はこの行為を中断するつもりでいた。腰の動きを停めてしまうと中年男は愛糸を振り向いた。肩越しに口元は隠れてしまっていた。意思の強そうな黒目は大きく光を反射している。その上を走る太い眉は愛糸にはない精悍さがあった。男にしては長い髪が揺れる。自然なウェーブが毛先にかかっている。傷んでいるらしく赤茶が透けて見える。染めているわけではないようで白髪も数本見えた。 「おやめになりますか」   浅い息を繰り返す男は首を振る。横にだった。アルコールの匂いがした。この男が素面ではないことは声を掛けられたときから分かっていた。真っ赤になるどころか真っ白になっていく肌は、けれど男のものには変わりがない。おそらく愛糸よりも背は高いだろう。肩幅もある。おそらくは筋肉量も。半ば引き摺られるように連れ込まれた場所はおそらくこの男の家なのだろう。一昔前の時代の趣きを残した商店街の中にある木造2階建て。入った当初は畳や木の匂い、そしてそこに染みるタバコの苦味を含んだ匂いやコーヒーの芳ばしい香りを微かに感じ取ることが出来たが、今はこの男の不快とは違う男の匂いとアルコールの匂いが鼻腔を占める。  中途半端に背で翻ったシャツに顔を埋めてみる。中年男の脂や汗のような生理的嫌悪感を持ったものがするのだと、悪趣味な興味と怖いもの見たさ―嗅ぎたさがあったが、期待を裏切った爽やかな空気が鼻を通っていった。男の内部が愛糸を数度、力強く締め付ける。衣類の匂いを通して体臭まで嗅ぎ取ろうとしたことは単に恥ずかしかったのかも知れない。もしくは鼻を近付けた際の衣擦れが擽ったかったのか。男の内部は愛糸の根本付近を輪状に締め上げては、そこから先端部まで熱くうねりながら包み込み、引き絞っていく。段々と受け入れているらしい様相になっていくと、ただ物理的に生温かっただけでなく、時に痛いほど締め上げてきた男のそこは愛糸を快感へと誘いはじめていた。  裏校舎は日が当たらず周りには松の樹もぽつぽつと生えているため暗い印象を与えた。資料室はその裏校舎の最上階西の果てにある。鰍沢(かじかざわ)は授業で使った資料を資料室へ戻そうと裏校舎を歩いていた。昔のように暇そうな生徒を見つけて頼んでしまえばよかったのだが鰍沢(かじかざわ)は生徒へ頼むことが苦手になっていた。授業で使われているらしい理科の射影室から説明する教師の声と扉の隙間から漏れ聞こえるビデオのナレーションの音声はかえって人気(ひとけ)のない廊下の静かさを引き立たせた。なるべく物音を立てないようにと大きな資料を抱え直す。資料室へと伸びる廊下の先は窓から入る光で真っ白く反射していた。開きっ放しの多目的室を通った時だった。ベランダに人が見える。多目的室は扉の鍵を紛失したため、開け放しになっている。扉を閉めなければ使用は自由だった。誰かがいても不思議ではない。この時間でなければ。授業のあるはずの生徒でなければ。 「何をしているんだ」  声を掛けずにはいられなかった。舌打ちをしてそれから無視してどこかへ行ってしまうのだろう。高を括っていた。だが相手はきょとんとし、悪びれる様子もなければ反抗的な態度でもなかった。 「ああ、先生。こんにちは。忘れ物を見つけているんです」  鰍沢は目を瞠った。この高校ではあまり見ない好青年といった風な面持ち。大きな瞳がきらきらとし、少し薄い明るい茶色が間近でなくても確認できる。過剰ともいえた校則に反した甘めのチョコレートを思わせるブラウンの髪色も地毛なのだろう。 「今は授業中だ。今でなくてはならんのか」  美少女と見紛う目元とアプリコットとほぼ同じ色をした形の良い唇。鰍沢より背がわずかに低いだけで体格も骨格も男だ。シルエットが華奢ではあるが小麦色の肌が健康に見える。 「え?」  綺麗な声をしていた。見た目より少し低いような気もした。鰍沢は首を傾げる目の前の生徒の挙動を見つめる。何かを探している様子はない。咄嗟に出た言い訳なのだろうか。慌てる様子もなく言い放っていた。用意されたものか。どちらにせよ鰍沢は注意はしたのだと自身を納得させる。 「クラスは?」  問題児のようには思えなかった。だがそういったマークもされないような生徒こそが要注意なのだ。鰍沢は訊ねる。担任の教師に言っておく必要があるのかも知れない。熱血教師になるつもりはないが、素行不良の生徒より、優秀で尚且つ素行優良な生徒より、名前もきちんと思い出せないような生徒こそ見ておかねばならない。 「クラスは」  答えが返ってこなかった問いをもう一度投げる。目の前の生徒は宙を見上げた。しらを切るつもりか。鰍沢は生徒を逃がさんとばかりに見つめる。 「それが…、覚えていないんです」  鰍沢は訝しんだ目を向ける。生徒は綺麗な肌に眉間の皺を刻みながらそう言った。大きな目がきょろきょろと彷徨っている。 「ふざけているのか」  生徒は鰍沢の目を視線で捉えた。それから誘導するように、ゆっくり流れていく。 「本当に覚えていないんですよ。隣の部屋が理科室ってことくらいしか覚えてないんです」  鰍沢は生徒を見つめ続ける。生徒はただ鰍沢を見上げている。訳の分かっていない子ども、いや、ただ飼い主の奇行を見つめる猫や犬のような無垢さで。本気で言っているのかも知れない。どこかで頭を打ったのか、もしくはそういった鰍沢は知らない類の病など。 「名前は」  生徒は首を振る。鰍沢は生徒の額に掌を当てる。生徒の方は抵抗の様子はなく黙っている。女生徒ならばやらなかった。 「熱は、無さそうだが。具合は」 「いたって良好です」  変なやつだな、と思ったことが口に出てしまう。 「どうしたものか」 「何がですか?」  額を押さえる。関わらなければよかったと、見ない振りをしていればよかったと後悔の念が押し寄せている。この生徒の言い分が事実にせよ嘘にせよ、面倒だ。声をかけ、お互いに存在を認識してしまった以上ここでさようなら、と放って置くわけにはいかない。いられない。自身の性分を鰍沢は恨んだ。 「とりあえず来なさい」 「ええ、はい。それならお持ちいたします」  とりあえずは両手を塞ぐ資料の片付けをしないことにはどうにもならない。この生徒が嘘を言っているのならどこまでそれを貫き通すのだろう。本当ならこのまま放って置けない。早く嘘だったのだと告白しないものか、内心焦れた。だが生徒は鰍沢の胸と両腕で支えられている大きく長い世界地図の巻物と人数分の資料集を少し受け取る。大きな巻物がないだけで随分と楽になる。 「すまない、な」 「いいえ、とんでもないです」  大きく目を見開いて、生徒は心底驚いた顔をする。鰍沢はふと胸が絞られたような痛みを覚えた。脳裏に一瞬だけ浮かんだ随分と遠い過去のこと。明確に何年前でどこで見た光景なのかは思い出せはしなかった。 「どうかなさいましたか?重いですか?お持ちしましょうか?」  生徒は鰍沢の顔を覗き込む。鰍沢の持っている量のほうが多く、重い。だがこの生徒よりも背は高く筋肉もある。何より運びづらい大きな巻物まで持っている。重いのは事実だったが気を遣われるほどのことではない。 「よく、こうやっていたような気がします」 「どこか痛いとかはないのか。頭とか」 「頭は打っていないと思います。どこも痛くありませんし」   はきはきと生徒は答えた。どこか楽しそうにさえ思える。それは上手く騙せたという達成感や優越感なのだろうか。あまりにも清々しく爽やかだ。 「油断は出来んぞ。時間が経ってから痛むことだってある。病院に行こう」  怯むだろうか。嘘だったなら。横目で様子を伺う。 「どこか…悪いのでしょうか。先生となら思い出せそうなのですが…。お名前を伺ってもよろしいですか」 生徒には言われ慣れない言葉に鰍沢は戸惑った。高校生にしては落ち着いている。今時珍しい物腰の柔らかさ。 「鰍沢…だが」 「鰍沢先生…ですね。鰍沢…鰍沢先生…」  妙に擽ったい。連呼するな、と言うと笑みを浮かべられてしまった。 「カジカっていうと、カサゴでしたっけ、ドジョウでしたっけ。あれ、でも鰍沢って落語でありませんでしたっけ」 「詳しいな。落語にあった。旅人が女から逃げる話だったか」  名前もクラスも忘れたというくせ、そういった知識は記憶にあるようだった。記憶障害のある者と関わったことはない。どういった症状が出るのかは細かく知らない。やはり嘘なのだろうかと鰍沢は怪訝な表情をしていた。人懐こく人当たりの好さそうなこの生徒を疑いたくはないという思いもまた芽生えている。 「あ、そうです、そうです。でもなんで懐かしいんでしょう」  呟かれた生徒の憂いを秘めた顔は鰍沢には見えなかった。項垂れ気味の生徒へ大丈夫か?と声をかけるとさらさらとした髪を揺らしながら頭を上げて微笑みかけられる。そういうのは女にせんか、と思ったが口にはしない。 「鰍沢先生は何の担任なんですか?」 「社会科全般だ。地理と歴史、公民…」 「社会科かぁ…おれ結構苦手でした。地理は好きでしたけど、歴史と公民が」  困ったように笑う姿は幼かったが、だがそのほうが、高校生らしい。 「暗記モノは苦手か」 「ええ、多分。数学と英語は結構よく出来たと、思いま…す?」  少しずつ語尾が不安定になり、結局は疑問形になる。自信がないのか、それとも記憶が曖昧なのか。優しそうな、見た目よりも低いが耳に心地よい声。この生徒が嘘を吐いているのでは、と疑うのは心苦しいほど穏やかだった。 「まだ名前は思い出せんか」 「はい…」  沈んだ顔を見ていたくなかった。額がつきり、と錯覚とも思えた痛みが走る。 「でも、鰍沢先生」  鰍沢が開けた扉の音で生徒の声は掻き消される。入るよう促せば一礼して先へ進む。埃っぽく古い木棚がある。新しく追加したらしい棚もすでにVHSでいっぱいだ。きっとこの生徒はVHSなど知らない世代だろう。 「そこに置いておいてくれるか。すまなかった。助かったぞ」 「お役に立てたなら幸いです」  嫌味のない爽やかさ。調子が狂う。生徒が置いた分の資料集を片付けようと棚から目を離す。誰もいない。視界に人はいない。 「おい」  逃げられたのだろうか。嘘だと発覚する前に。何の物音もせず、ほんの数秒で。 「おい…」  名前を呼ぼうとした。けれど続かなかった。  彼の姿はなかった。校舎にも校庭にも。探していたわけではない。目に入らなかっただけなのかも知れない。また何かしらの理由を付けて授業に出ていないのではないかと思って、多目的室に様子を見に行ったりもした。だが姿はない。数学担任や英語担任にも全員ではないかある程度の特徴を挙げて訊ねてみるが思うようなものは得られなかった。該当する生徒が女子であったり、若しくは眼鏡であったり、坊主であったり。過剰な校則によって記憶を失くしたのだといっていたあの生徒はありふれた特徴をしていた。地毛のブラウンの髪を黒染めしていないことを除けば。上手くどうにかなったのだろう、彼は。そう思うことにした。あの生徒の掌に転がされてしまっていたようだが資料運びを手伝ってもらった。真面目そうで丁寧な言葉遣いのせいか嫌な気はしなかった。授業をサボタージュしている点については褒められたものではなかったが。 「鰍沢先生…?」  背後から声を掛けられる。聞き覚えのある声。鰍沢は振り返った。大きな栗の色の双眸に見下ろされている。ベランダと教室の境界の段差を利用して。 「お前は、」  誰もいなかったはずだ。鰍沢には理科室に入り浸る癖があった。自覚はある。変な癖だと。態々次に使う理科担任へ言い置いて鍵を借りて、昼休みは雑務を終えると理科室へ来る。そしてベランダからぼうっと外を眺める。楽しいものは何もない。だがずっと外を眺める癖が。扉を開く音はしなかった。誰もいなかったはずだ。鍵を開けたのは鰍沢でそれまでは誰も。ベランダは端から端まで繋がっているためベランダから来たのだとしたら何の不自然もないが、その場合は鰍沢がこの生徒を認識するはずだ。隣の教室のベランダから理科室のベランダへやって来て、鰍沢の真横を通り、理科室に入っていたらしい。それほどまでにぼうっとしていたのか。ばつが悪い。気の抜けた情けない姿を見られたかも知れないのだ。 「忘れ物だったか?探し物は見つかったのか」 「はい。何となくですが」  鰍沢は首を傾げる。何となく見つかる、忘れ物。考えてしまってから思い出す。この生徒に遊ばれているだけなのだと。 「鰍沢先生」  生徒の形も色も良い唇が緩く弧を描く。顔を上げた。鰍沢の血色の良くないガサガサとした唇を、柔らかく瑞々しい感触が触れる。目を見開いた。長い睫毛が伏せられているのだけが分かるが、鰍沢には近すぎて焦点が合わなかった。肌理の細かい皮膚が目の前にある。そして日光に透け、さらに薄い色の毛先。 「お、い…」  触れるだけの幼いキス。ふわりと笑う年下の男。何をされた。目の前にいる男は何だ。鰍沢が我に返った頃には、ベランダの手摺に座っていた。あまりにも危ない。先程のキスも、それに関して言いたいことも全てが真っ白になる。やめろ、という言葉たった3文字も声にならなかった。相手もそうだった。鰍沢の目を見つめて唇だけが動く。何と言ったのかを考える余地もなかった。後ろへ倒れていく。鉄棒競技のようだった。混乱と焦り。身体が拒否をする。見るなと。確認するなと。それでも目の前で起きた“事故”を見過ごすことは出来なかった。それは職務という面があったにせよ、鰍沢の中で破裂したのはそれではなかった。胃がひっくり返りそうな感覚を押さえ、手摺に縋り付きながらおそるおそる下を向く。ここは3階だが表校舎と裏校舎を挟んだ中庭はアスファルトで舗装されている。運良く花壇へ落ちていれば…。だが手摺の奥へ鰍沢の頭が越すことはなかった。息が遠くになっていった。視界がちかちかと白くなったり、また色を取り戻したりと忙しい。耳鳴りで外の音は遮断されていた。 ――父さん  瞼が重い。  目の前で男が眠っている。金色というにはどこか渋い色味のネクタイを外し、シャツのボタンは全て留めた。酒臭さが充満した部屋は窓を開けると寒かったため、すぐに閉めてしまうとまた酒臭さが室内を満たす。男の身だけ乱雑に清め、愛糸は壁に凭れながら眠った。数秒前のことのような気もするが、数分前のような気もする。あまり眠ったという感覚はない。苦しそうな悩ましそうな、穏やかではない寝顔を観察する。明るくなった窓の奥が騒々しい。曇りガラスを開け放つ。愛糸の生まれる少し前の空気を残した商店街が賑わっているらしい。斜向かいの八百屋で柿を吟味している老婆。向かいの家は渋い青の暖簾が掛かっていた。漬物屋か、菓子屋か、食事処か。愛糸にはそう思えた。男が身じろぐ音がして愛糸の意識が背後へ移る。冷えた空気が頬を撫でたらしい。若く見積もっても30代後半、妥当なのは40代だろう。若い50代前半という線もある。まだ起きないようで愛糸は再び商店街を物珍しげに見つめた。現代の文明や文化に置いていかれらような、けれどきちんとテレビは液晶で道行く人々はタッチ式の端末を使っている。昨夜は今静かに寝息を立てている男に伸し掛られながら引き摺り込まれ、さらには深夜ということもありこの街並みを見ている余裕はなかった。変な寝方とその前の慣れない諸々の意味合いを含んだ運動のせいで身体が痛む。換気と新しい空気を吸い込んで愛糸は窓を閉めると男を向いた。男は目を開けていた。愛糸を怯えた目で見ていた。激怒している主人の機嫌を伺う犬のような眼差し。 「おはようございます」  笑いかけると男は顔ごと逸らした。油の切れたブリキの真似でもしているのか、ぎこちない動きで起き上がると胡座をかく。愛糸は対面に正座した。 「その…なんだ…」 「お名前を伺ってもよろしいですか」  愛糸は全くそう思わなかったが、男はこの空気が気不味そうであった。男の泳いだ目や顰められた表情に愛糸は話を促す。自分の父親ほどの年齢の男だが可愛いらしく思えた。懐かないが躾がなっていないわけではない大型犬に似ている。 「鰍沢だ…魚編に季節の秋で、カジカと読む…」 「…?」  聞き慣れない、珍しい姓だとは思った。顔に出ていたのだろうか。説明される。かわいいな、と思った。顔面が熱くなっていく。姓を訊いたが、字の説明までされるとは思わなかった。可愛すぎるだろ、と喉元まで思ったことが出かかって慌てて飲み込む。鰍沢は愛糸を見つめた。何かを求めているらしい。 「ああ。おれは竹雀(たけす)です。竹に雀。LOVEの愛に、芥川竜之介の蜘蛛の糸の糸です」  鰍沢に合わせて愛糸も漢字の説明をする。 「たけ、竹雀くん」 「愛糸で構いませんよ。父と同じくらいなので、どうも擽ったくて」  思案しているようだった。よく顔に出る男だ。父親と同じくらいの年齢だと言っておきながらその男を抱いた。ねだられるままに衝動と欲望に身を任せて多少の抑制はありながらも完全に鰍沢の意識が失われるまで行為は続いた。 「あ、愛糸くんは、」  照れている。 「愛糸でお願いします」 「…ッ、愛糸はいくつなんだ」 「ご安心ください成人はしています」  鰍沢は問うてきた通りに愛糸の年齢が知りたい訳ではないということはすぐに分かった。顔色が悪いのは二日酔いのせいか、それともこの状況か、その両方か。落ち着いていられないようで鰍沢は震えているように愛糸には思えた。真面目な人なのかも知れない。ただ溺れるほど酒を飲む癖もあるようだが。 「そうか」  一時の安堵。深い溜息。愛糸は笑みを浮かべたままだった。 「何をしていらっしゃる方なんですか」 「…教師だ」  言いたくないが仕方なく答える、といった感じで鰍沢は愛糸の目を見ない。普段は生徒を指導する立場なのだろう。酔い潰れて見ず知らずの男を部屋に連れ込むなどという失態を認めたくないのでは、と愛糸は鰍沢を舐め回すように眺めた。まるで品定めだ。実際に舐め回して検分するのもいいかも知れない。鰍沢は酔いのせいもあるのか快感を拾えている様子はなかったが、愛糸にはとてもヨカった。男相手は初めてだったが、段々と晒されていく男の痴態も汗を含んでいく香りも愛糸を煽り、追い詰めていった。男も雰囲気に中(あ)てられたのか僅かに前を反応させ、愛糸の手の中で果てていた。性には淡白な方だと思っていたが愛糸は中心部が再び熱を持ち始めるのを自覚すると鰍沢から目を放す。まだ取り返しのつく程度だ。他のこれくらいの歳の男は臭いだろう。生理的嫌悪感を抱かせる臭いがありそうだ。だが鰍沢は違った。フェロモンとはこういうものなのか。鰍沢が引き寄せたのは男で、愛糸は惹き寄せられた。 「それなら、鰍沢先生とお呼びしても?」  先生と生徒という立場ではないが、あまりにも関係が不明確だ。セックスフレンドになるのか、それとも行きずりの情人に当たるのか、はたまた赤の他人としてしまうのか。それならここで呼称に縋り付いて新しい関係性を提案する。 「いや…それは…」 「い、嫌ですよね!申し訳ありません。せめてプライベートくらい、仕事のことは―」  地雷を踏んでしまったか。愛糸は慌てて撤回しようとする。鰍沢の面子を潰してばかりのような気がしてならない。相性が悪いのか。だとしたら酷い話だ。初めて他人に個人的な興味を抱いたのだから。 「違う。違うんだ。そういうわけじゃない」  待つ。膝が痺れを訴えはじめているが姿勢を崩すことなく鰍沢の言葉を待つ。 「俺は先生と呼ばれるような男じゃない。だが教師である以上、そういうわけにもいかないだろう。飽くまで、記号だ。お前にそんな純真無垢な気持ちで先生と呼ばれる男じゃない」  自嘲的だが笑みを見せる。満たされない。答えにだろうか。いや、この笑みにだ。 「いいえ、鰍沢先生と呼ばせてください。呼ばせていただきます」 「マズいだろう、他の人に聞かれたら。妙な誤解を招く」 「妙な誤解、ですか。他の人に知れたらマズい妙な誤解…ですか…?」  お互いに快感を拾えないのなら、精神的に満たされないのなら身体を重ねてもセックスとはいえないのだろうか。鰍沢の身体を消費して。それなら愛糸は満たされなかった。鰍沢の身体を消費しているという点で満たされなかった。態とらしく鰍沢の言葉をそのまま引用して、訊ねるふりをして確認する。鰍沢の顔は真っ赤になっていた。 「すまなかった。本当に。嫌だっただろう…強姦と何ら変わらない。謝って許されるとも思っていない」  土下座がするつもりなのだと察して愛糸はすぐさま鰍沢の肩を掴む。大袈裟なほどの跳ねたその身を出来ることなら力尽くで胸に収めたい。だが同時に、そういうことではないのだと理性が叱りつける。 「やめてください。それならおれだって…。それに、嫌ではなかったです。むしろ…」  やめてくれ、やめてくれ、と鰍沢が耳を塞いで首を振る。消したいのだ、この男は。記憶から自身を消したいのだ。そう考えるとたちまち怒りに身が燃える。 「すまなかった、本当にすまなかった…!」 「嫌ですよ。嫌です。許しません」  鰍沢の顎を撫でる。それから乱暴に掴んで仰がせる。髭の感触は面白く、親指が顎のラインを何度も撫でる。浮き出た喉仏に齧り付きたい。喉笛に喰らいついて、声も上げさせず、啼かせてみたい。 「あい、と…」  血色の悪い荒れた唇にかぶりつく。やはり髭の感触が楽しかった。親指の腹だけでなく、口元で楽しむ。アルコールの匂いもこの男から発せられるものなら不快感は微塵もない。口角や唇を柔らかく食(は)む。がさがさと引っ掛かるような感覚も味わって、舌で舐めて潤す。はくはく、と微かに動いた唇の狭間から舌を挿し込む。酔う。甘さに酔ってしまう。この男に溺れそうだ。きっと溺れる。歯列をなぞって、上顎を撫でさする。逃げ惑う舌を絡めて追う。諦めて為すがままのそれを甘噛みする。何も考えられなかった。思考が掠め取られ、意識はただ舌先に触れ、それから大胆に絡まれていく舌に一直線だった。口の端が冷たいことも厭わず、男の口腔を貪る。唾液よりも次から次へと溢れて止まらない欲望。下唇を吸う。柔らかすぎない薄い唇。 「ん、は…ぁ、」  胸を叩かれる。苦しいらしい。口を放すと舌と舌を繋ぐ銀の糸がぷつりと垂れながら切れ、お互いの口元や顎を濡らす。2人の混ざった唾液を愛糸は拭った。まだ惚けている鰍沢の顎と髭にも手を伸ばし拭う。上気した頬が愛糸を挑発していた。血色の悪かった下唇が淡く色付いて光り、理性を試す。 「愛糸…ッ」  睨まれる。けれど引く気はない。愛糸自身が思っていたよりも低い声が出た。脅迫するかのような。誰かを脅迫したことなどない。強く意思を示したこともない。常に温厚な笑みを浮かべ、柔和な態度を崩さなかった。この男が突然伸し掛かり、引き込み連れ込み、誘ってきた時さえ。 「無かったことになんて出来ませんよ。おれは昨夜あなたを抱いた。そこに嘘偽りはございません」 「やめてくれ…!」 「やめません。夢だなんて思わないください」  男の頭を両側から支える。毛先がウェーブした癖毛へ指を入れ、好きながら額に唇を落とす。小さく男は震えていた。神経質そうな、不機嫌そうな皺を眉間に深く刻み込んで。  鰍沢は風呂に入っていた。昨夜の負担で腰を痛がっていたが支えながら階段を下りた。嫌がられたが愛糸が無理矢理に我儘を言って鰍沢に触れた。客人として先に入るよう言われたが、身体的な汚れは鰍沢の方が多いのだからと鰍沢を優先したが、興味と欲負けて鰍沢のいる風呂場へ足を踏み入れた。鰍沢が生娘の如く恥じらっていたが素っ裸になった愛糸を追い出そうとはしなかった。身体を洗い終えて泡を流す鰍沢の肩に顔を寄せて歯を立てる。ボディソープの桃の香りがした。鰍沢は負い目でもあるのか強い拒絶はしない。愛糸は調子に乗ってしまう。 「いい匂いがします、先生…」  広くはない湯船で大の男が2人。自身より体格もよく背丈がある鰍沢を背後から包み込む。身体を洗い終わって湯船に入ろうとする愛糸に隙間を空けた鰍沢はそうされるのが自然かのような流れだった。居辛そうな、戸惑ったような表情を浮かべたのは無意識だったのかも知れない。 「愛糸、」  濡れた髪が貼り付く(うなじ)が動く。振り向いた。非難の目。けれど優しい。曇りガラスから差し込む光りと湯気が青白い鰍沢の肌を淡くぼかす。お湯を掌で鰍沢にかけながら触れるだけのキスをする。蛇口から流れ出る水が水面を叩く音と水が掻き混ざる音。困惑しているらしかった。もう一度キスしようとすると正面を向いてしまった。鍛えられた肉体を抱き締める。目前の身体が小さく震えていた。先に風呂を上がった鰍沢が朝食を作っていた。料理も出来もしないくせ、手伝うと強引に迫ったが卵の殻も綺麗には割れず、殻を取り除く手間がかかった。鰍沢が苦笑いで寛いでいるようにと促す。険しい顔立ちが一瞬だけ緩んでいた。不意なその表情に心臓を射抜かれて、愛糸は口も指ひとつ動かせなかった。  数年前に実兄が死んだ。電話を受け取って、低く沈んだ祖父の声を聞く。両親は話せる状態ではなかったのだろう。愛糸は高校の寮でその連絡を受けた。そうですか。何の感情も込められない返事をして、受話器を置いたところまでの記憶しかない。遠方の高校だった。葬式に参加はしなかった。大事な行事があった気がする。大会だったか、試験だったか、記憶が曖昧だ。冷めてはいたがやはり相当の衝撃はあったのかも知れない。誰にも何も言わず、担任の教師と学年主任は何度も確認した。最期の別れはいいのかと。愛糸はただ頷いただけだった。双子の兄はまだ生きているような気がしてならなかった。ここで。今。同じ顔をして同じ声をしているらしい。別個体とは思えなかった。小学生の時から兄は地元の私立の学校で祖父母と父親と、愛糸は遠方の学校で母親と中学生まで暮らし、引き離されていた。だから尚更、兄の姿を肉眼で確認したことはあったけれど兄は幻覚なのではないかとさえ思うことがある。兄が死んでも鏡の前に映る姿に現実感は湧かないのだ。兄が死んで間も無くの長い休みに入って同級生たちは実家へ帰ったりしたが愛糸は帰省出来そうになかった。兄の成長過程は見ていないが、おそらく同じ工程を辿っている。多少の誤差はあれどほぼ丸写し状態にDNAが書き込まれているはずだ。兄とはそういう同胞(はらから)であるから。 「愛糸は、兄弟は、いるか?」  色の悪い、けれど険しさの緩んだ顔が愛糸を見つめた。食後に熱い茶を出された。桜の描かれた淡いピンクの湯呑みと鰍沢の外観はどうも似合わないが、そこがかえって可愛らしい。愛糸の頬は緩みっぱなしで、そのような時に降ってきた問い。 「…いいえ」  時間にしてほんの一瞬で様々な記憶が入り乱れた。説明が面倒だったこともある。何より鰍沢との間では重苦しい空気にしたくない。 これが正解だと思った。鰍沢は目を丸くする。純粋な興味からくる問いではないのか。確認のつもりだったのか。信じられないという表情。愛糸もまた鰍沢を凝視してしまう。 「あの…何か…?」 「いや、良かった」  独り言のように鰍沢はそう言った。相手に聞かせるつもりのないような小ささで、吐き出すように。失敗だったのだろうか。けれどこの様子は正解のはずだ。 「あ、いや。深い意味はないのだ。すまない」 「そう、ですか」  腑に落ちない。だが少し温なった茶と飲み込む。 「気を悪くしないで欲しいんだが、」 「はい」 「愛糸を…君を、夢で見た」  鰍沢が湯呑みを見つめている。おれを見つめてください、と言う代わりにまた、相槌を打つ。嫌な気などしない。するわけがない。 「平安時代の人々は、夢に出てきた人物は自分を好いていると思うことがあったとか」  そのようなことくらいは教師なら知っているかも知れない。固く張り詰めているらしい鰍沢の緊張は緩むことはないのか。躾のなっていない駄犬に妥協するように甘やかしてしまう飼い主同然の面を見せる無自覚で隙だらけの鰍沢に戻らないものか。待ての出来ない駄犬は鰍沢を物欲しそうに眺める。 「君が飛び降りるのだ、夢で。何度も、何度も」  これは告白に違いない。愛糸は額を押さえる。可愛い。鰍沢はいたって真剣に相談し告白している。だがこの告白のとどのつまり愛の告白に違いないのだと愛糸はいじらしさに目眩がした。 「すまなく思う、愛糸」 「要するに、どういうことなんです?」  鰍沢の口から聞きたい。物分かりの悪いふりをして、鰍沢の口から。誰も疑うことはない柔和な笑みを崩さず、落ち着いた声を振り絞る。 「君が一緒に飛び降りたのは、俺の息子だ」  頭を抱えて鰍沢は俯いた。 「…?ちょっと待ってください?」  突然のそれは愛糸が思い描いていたものとは程遠い。疑問符だけを浮かべて鰍沢の言葉を待つ。どういうことか、頭は記憶を辿り、愛糸は口を開けて情けない面をした。 「おれ、飛び降りてません。先生の息子さんのことも、皆目見当がつかないのですが」  沈黙に耐えられなかった。忠犬ではいられなかった。家の状況から家族がいたらしい形跡はあったがあまりにも中途半端で訊ねることは憚られた。離婚はこの時世、珍しいことではない。息子か娘かは測りかねたが子はいたのだろうということは伺えた。 「…だが、」 「どなたかと勘違いなされているのでは」  鰍沢は大きく息を吐いて苦しそうに目を伏せる。 「でも嫌ですよ。ここでお別れなんて。人違いでした、はいそうですか、なんておれは認めません」  その点は譲れない。たとえ誰かとの人違いであっても、この男を抱いたのは自分だ。 「お前は記憶がないと言った。忘れているのかも知れない。ずっと探し物をして、」 「先生」  混乱している。間違いないのだと思っているらしかった。先生、と呼ぶと深く傷付いた顔を向けられる。また何か地雷を踏んだのか。しかしもともとこの男は先生と呼ばれることを良しとしていなかった。それは愛糸と誰かを混同しているからなのだとここで気付く。 「許しませんよ」  膜を張った鰍沢の目がきらきらと光る。昨日すれ違ったセレブと思しき女の高そうな宝飾品よりも輝いて見える。何故宝石をああして身に付けるのか、欲しがるのか何となく分かったような気がする。 「すまない、すまない…!」 「あなたが勘違いなさっている相手が許せない」  かたかたと震えている。先生。もう一度呼んで、顔を向けさせる。

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