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第2話

 先生。耳朶を口に含む。居間に押し倒された鰍沢の目は虚ろだった。雛への餌付けにも似た口付けだけで鰍沢の顔は真っ赤だった。 「愛糸…」 「聞きたくありません。いいえ、あなたの声はずっと聞いていたいですけれど」  潤んだ瞳が愛糸を捉える。誘っている。けれどきっと鰍沢は首を振る。 「俺の息子が、お前を、」 「…おれが記憶喪失だと、先生がそういうことにしておきたいのなら、分かりました。おれには記憶がありません。これでいいですか。これで先生は誰かから許される?許された気になる?」  荒れた手を舐める。縦線の入った爪、ささくれだった指先の背。棒キャンディに舌を這わすのと変わらない動きで鰍沢の冷たい手を舐め続ける。 「違…う、違う、そういうつもりじゃ…ッ」 「先生」  鰍沢に馬乗りになって愛糸は鰍沢の指を一本一本丁寧に舐めていく。鰍沢の眦が光る。鳶色の目が揺れている。その双眸も舐めたい。 「俺を許せないから、出てくるんだろう?」 「…あなたに会いたいからですよ」 「違う!俺が憎いだろう、俺を呪い殺したいだろう…!」  初めて抵抗らしい抵抗をする鰍沢は愛糸の身体の下から抜け出そうと藻掻いている。違う。誰と混同している?そこに自分の余地はないのか。愛糸は両腿に力を込めて鰍沢を逃す気など微塵もなかった。 「何があったかは知りません。興味はありますが…訊いてあげません」  鰍沢の着ているシャツのボタンを少しずつ外していく。乱暴な真似はしたくない。鰍沢はその身で男を受け入れたくせ、自分で愛糸を強姦したような口振りだった。誘ったのは確かに鰍沢で乗ったのは愛糸。断じて強姦ではない。そして愛糸も鰍沢に無理を強いたくはない。そういうつもりだった。結局は言い訳にもならない。愛糸の腕は鰍沢に掴まれ、拒否を示されてもその手を停めることは出来なかった。ゆっくりとシャツを開く。胸元を覆う毛。父にはなかった。祖父が薄く、(まば)らに生えているだけだった。初めて見る胸毛。不潔だとは思わなかった。髪と瞳と同じ赤みを帯びたブラウンの毛。あまりにも綺麗に生えている。色味も美しい。むくむくと下部から熱が生まれ、掌は汗ばんでいる。 「嫌になったか?汚いオヤジの身体なんて見て…」 「何をおっしゃるんです?最高ですよ。すごく…興奮してます」  湧き出た熱が喉を邪魔する。生唾を飲んで、無意識に鰍沢に触れている下半身が揺れた。 「責任取ってくださるんですか?おれ、もうあなたナシでは…」 「何でもする…お前に許されるなら…許されなくてもいい…お前の気が済むのなら…」 「何でも…?」  言質を取ったぞ、と半ば脅しも意を込めて確認する。撤回されるリスクが無いとは言えないけれど。片腕で目元を隠されてしまう。その腕を外してしまいたかったが、もうこれ以上は鰍沢の嫌がることはしたくなかった。鰍沢のいう相手に嫉妬した。その相手は鰍沢をきちんと扱えるだろうか。傷付けず、愛おしんで、繊細に触れられるのか。胸の草原に手を這わせる。色素の薄い赤い毛を撫で回し、掌で感触を楽しんで、それから淡い色の突起に触れた。大袈裟に跳ねる肉体。喉が引き攣れたような苦しそうな吐息が鰍沢の口から漏れている。 「どうして誘ったりなんてしたんです。こんな劣情、知りたくなかった!」  慎ましそうな肉粒を指の腹で好き放題捏ね回し、押し付けたり引っ張る。周りの粘膜も静かに撫でながら片方の胸は口で愛撫する。胸の中心から広がる薄い色の野原は2つの大輪の花が咲くところまではその根が張っていなかったらしい。年齢の割には綺麗な皮膚と粘膜を丹念に味わう。 「もしあなたがお探しになっている人が見つかったら、こうやって身体開くんですか?昨晩みたいに無理矢理のしかかって咥え込むんです?」  無性に苛立つ。この男は美しい。無自覚だ。そう思った。愛糸は指と口で育て、熟れた実に歯を立てる。すらすらと相手を辱める言葉が思い付く。王子だ貴公子だと言われ続け、優等生だイイ子だと言われ続け、陰口も言ったことがない。面と向かって人間関係に軋轢(あつれき)が生まれそうなことも、したことがなければ言ったこともない。日頃の鬱憤か、生まれてこの方一切人前で口にしたことはない下品な会話。 「違う…ッ、違う、あい、と…」  掴むというよりもただ引っ掛かっていただけの鰍沢の手に力が籠る。言葉では言えない否定をしているようだった。 「何が違うんです」  上体をわずかに伸ばして首筋に噛み付く。あぁ、と痛がっているのか惜しんでいるのか微妙な悲鳴を上げ、びくびくと震えた身体が可愛らしくて胸が痛くなる。鰍沢の香りが鼻腔を包む。媚薬と大差ない芳烈(ほうれつ)。下半身の熱はすでに後戻りができない。風呂場で嗅いだ人工的な桃の香りが混じった鰍沢の持つ、森を思わせる香気に思考力が奪われていく。 「何が、違うんです。おれを弄んで…」 「すまなッ―あふっ」  鰍沢の口に指を入れる。指の背をに歯が擦れていく。生温かい口内を掻き回して舌を柔らかく指と指に挟んで遊ぶ。唇を噛み締める姿が気に入らなかった。頸動脈の近くに鬱血痕をつけ、またその上から唇を落とす。脳味噌がどこかへ消えたのではないかと疑った。頭が軽い。熱く甘い磬香(けいこう)が鼻のずっと奥に残っている。鰍沢の口に突っ込んだ指でそのまま色の悪い唇をなぞる。ローションのような粘り気のある唾液が塗り込められる。上体を起こすと既に芯を持っている様子の自身に、布を通して熱が当たる。お互いにボトムスを身に付けたまま劣情の(さなぎ)が押し付けられ合った。上がったままの体温が内部からまた上がっていく。暑さに汗が背に滲む。風呂を出たからかベルトを締めていなかった。今日は、世間的に休日だが家でもきちんと身形は整えているらしい。シャツを律儀にしまっているスラックスをずり下げる。この男は嘆息するほどスタイルがいい。すらりとした脚も出来るなら嘗めてその形を辿ってみたいものだった。臍から下腹部へと道を作り下着に潜り込んでいく毛も胸の箱庭と同じように色が薄い。 「そこは、あっ、」 「感じてくださっているようで…嬉しいです」  鰍沢の上から退く。燻りを繊維の上から優しく撫で付ける。鰍沢の両手が畳に爪を立て、眉をハの字に下げ快感を堪えているようだった。 「声を聞かせてください」  愛糸の要求とは裏腹に鰍沢は下唇を噛み締める。 「素敵です」  要求は通らなかったが鰍沢の一挙手一投足に惚れ惚れする。 ――愛糸さんにプレゼントを買ったんです  プレゼントって、もしかしてこの人か。だがそのようなわけあるまいと自嘲した。数年前に言われた何気ない兄の一言だった。そういえば誕生日だった。愛糸は忘れて何も用意はしなかった。双子だから、誕生日は同じ日だ。特に出産に於いて問題は無かったようだったから、ほんの数秒或いは数分くらいの差でしかない。たったその差で兄か弟が決められた。決められた、と愛糸は思ったが、相談して2人で決めるわけにもいかない。兄か弟かを決めねばならないとも思わなかったが、同じから腹から出てきた別個体のくせ兄でも弟でもないのだとしたらアイデンティティが飲み込まれてしまいそうだ。顔も趣味も嗜好も生活リズムも多少の差異はあれど全てが同じだった。兄でありながら弟に敬語を使っていた。敬称も忘れず。親子間でも常に敬語だった。あれは本当に兄なのか、今でも愛糸は疑問に思う。別個体なのか、疑わしくて仕方がない。自分の幻影だったのかも知れない。両親と祖父母の教育方針であまり長い間一緒に暮らしていなかったこともそう思ってしまうひとつの原因だろう。 「先生、どうしてほしい?」  下着も下ろして、露わになった下腹部。自然光を浴びたシナモン色の赤毛は神々しく目に映る。宗教画に描かれる、真っ白い両翼を携えた美しいヒトの形をした者の風に揺れる髪によく似た叢。神聖な丘と見紛う、甘勃の半身。ここまできておいてどうしてほしいかなどと訊くのは野暮だ。分かっていながら問わずにはいられない。口にしてほしい。求められたい。綺麗だ、美しい、可愛いと飽くほど散々言われても揺るがない雄の自覚が燃え上がっている。鰍沢が望むのなら、誰でもなく愛糸を求めるのなら、忘れられなくなるほど甘やかすつもりでいた。 「愛糸を、」  赤く染まった顔と潤んだ瞳が愛糸を放さない。熱く浅い息は嬌声だ。 「愛糸を、気持ちよくし――」  卑怯だ。卑怯で愚かな質問を投げかけて、答えさせて、けれど我慢が利かない。自分は駄目な犬だと頭の片隅に書き留めて、すぐに消えていく。語尾は愛糸の舌に巻き込まれ消えた。湿った音を響かせながら相手の呼吸も奪う。愛糸の柔肌を刺す髭も天使の悪戯のような感触でしかない。口を離して覗き見ると、鰍沢と目が合う。そしてすぐに逸らされ、またちらりと見られ、また目が合う。湧き上がった微笑みを押さえられない。節くれだった細い指を穂先を(もた)げた鰍沢の半身に絡めて静かに包む。根元からなぞって、握っていく。焦らしながらゆっくりと少しずつ。鰍沢の腰が浮いて、擦り付けてきている。無自覚で無防備なその姿が情けない半分、いじらしく、胸に強く抱き締めたい。だが愛糸は生唾を飲んで男の弱みを攻めていく。 「ぅ、ぐ…っ」  勃ち上がらなければ光を向かない敏感な筋を刺激する。男の掠れがちな低い声は猛獣のような声をしているがか弱げだった。固くなっていく茎。美しい。同性のもので、珍しさはない。愛糸は温泉や銭湯を苦手としていたが、見慣れたものだ。一時期通っていたプールの脱衣所でも、トイレでも積極的にならずとも見る機会はあった。中学や高校の寮生活で頓着しないルーメイトや友人のものも幾度か目にしたことがある。様々な形状や質量、色味があるにせよ、大した興味は抱かなかった。後天的な事情や先天的に睾丸が2つ並んでいない者もいた。だがそれにも関心はなかった。だが、この美筒の前には目を離せない。天使の毛髪を根元に生やした、何かとても神々しいものに思えてならない。 「先生…素敵です…素敵です、先生…」  頭の回転は速いほうだと思っている。自評だけでなく、周りからも言われたことが多々ある。語彙力も多いと。日常会話で理解されないのでは意味がないから、手間だからと使わないだけで。けれどこの妖刀の前では語彙も知識も機転も冷静さも失くす。自分は待ての出来ない駄犬で、性的な物事へしか関心の無くなってしまった猿なのだという事実を叩き込まれる。仕込まれた芸も、慣らされた学習も全てを捨て去って。愛糸は浅い呼吸を繰り返す。主張をはじめ、下着の中で焦り、早とちりしそうな倅が内部から愛糸を支配し視界を揺らす。先端からの湧き水が、砂漠のオアシスのように指先という旅人を潤す。友人たちの鑑賞会で観たアダルトビデオで女優が舐めていた赤黒くグロテスクな棒が当時は逞しく思えたが、貧棒に違いなかった。目の前の聖域に咲くような蕾を乱暴に扱えるはずがない。苦しそうに天井を見据えた果実の甘汁を求めているが、身体が動かなくなってしまった。愛糸の美しい姿体に隠れた野獣の本性、その肉塊の欲望と蝶や小鳥が舞い幻獣が安らかに眠っていてもおかしくない聖域へ触れることへの恐れが(せめ)ぎ合っている。 「愛糸、」  身を震わせながら鰍沢が起き上がる。険しく(いか)めしい容貌をしていながら、男性がもつ不合理なグロテスクさや汚らわしさを纏っておきながらその中身を伴わない甘美さと麗しさを持った身体。見惚れてしまっていた。鰍沢は放心している愛糸の股座へ顔を埋め出す。 「あ、」  鰍沢から借りた柔らかい素材のジャージ。鰍沢の物にしては丈が短かった。ゴム部分へ指が引っ掛けられた。 「えっ、ちょ、待ってください…!」  鰍沢を諌めようと膝立ちになってしまうという隙を見せ、ジャージが一気に下される。下着もだ。触れもせず、ただ視覚と聴覚だけで鰍沢と同じくらい反応している。文字どおりの愚息だった。 「先生…っ!」  躊躇いもなく口腔へと入っていく。出来れば昨夜のように、下の口、口というよりは出口に、(ことわり)に逆らって入れてみたかった。上手いのか下手なのかは愛糸には分からない。片手の指で足りるほどなら女性と付き合ったことはあるが、プラトニックな交際に憧れを抱き過ぎていた。感じることが上手いのなら、鰍沢が口淫を自らやり出しているだけで感じてしまっている。よって上手いということになるのか。おそるおそる機嫌を伺うように茎を這う舌が官能を高める。生暖かい。蕩けて力が入らない。時々当たる歯が痛いけれど、鰍沢の口の中なのだという状況に疼きへ変わってしまう。 「先生ぇ、」  脳味噌が溶ける。理性が蕩ける。性器が灼ける。甘えた声を上げて行き場をなくした両腕がウェーブした髪を撫でる。白髪混じりのシナモンのような色を自然光が透かす。宗教画に現れる天使が棲みついている雄々しい肉体。その持ち主は、皇帝を裏切ったとされ無数の矢を射られた殉教図に描かれた男によく似ていた。無茶な自決をした文学者は彼を性の糧にしたと記していた。愛糸が思い浮かべた画家の作品とは違ったが、今なら分かる。初めて愛糸が目にした時は、その文章の華美さに意味が分からないでいたが、今なら分かる。そしてその衝動も。ただそれが、嗜虐的に映るということを除いては。  腰が引けた。身体は受け付けられない快感を情けない懐剣が拒絶している。下品な音がする。残り少なくなったジュースを氷に邪魔されながらストローで啜った時の音がする。 「だめ、出ます、出ますから…っ」 「ん、んふっグ、うぅッ」  鰍沢の喉奥が遠くなった。引き抜かれると思った瞬間、深く咥え込まれる。喉の奥で空気が沈んでいく音。無理をしているのは一目瞭然だった。躊躇いがちにまた頭を引かれる。ぬるりとした上下の唇が愛糸の辛抱足らない倅を柔らかく抱き締めたままスライドする。ぎりぎりまで引き抜かれた時に愛糸は鰍沢の口から離させる。鰍沢の唾液なのか、愛糸自身の歓喜の涙なのか、鰍沢の唇と愛糸の顔に似合わない凶棒を繋ぐ、透明な意地。2回だけで自分で擦る。クチチ…と羽虫を潰したような音がして、鰍沢の顔に甘くもない練乳を放つ。片手の指で足りる元交際相手が欲しがっていた、青臭い粘液。タイミングによっては子であったかもしれない。艶を失った頬や通った鼻梁、赤みの強いブラウンの髭に滴る黄ばんだ愛糸の子種。ただの臭く汚い精液でしかないけれど、この人以外には触れさせたくない。 「すみません、調子乗りすぎました」  指の腹で鰍沢に飛び散った白い悦びを拭う。その手を奪われ、くちゅり、といやらしい音をさせ鰍沢に清められる。伏せられた睫毛もまた美しかった。肩で息をする鰍沢の目はとろんとしている。 「トイレに、行ってくる」  咳払いをしてから鰍沢は立ち上がろうとした。先程よりは萎えたがまだ勢いを失っていない聖槍が目に入る。トイレで白爆するつもりらしい。嫌である。愛糸は首を振る。上目遣いで、眉根に皺を寄せる。自分ではあまりいいものだと思わなかったが、こうすると大概の望みは叶った。鰍沢の目が一瞬だけ大きく開き、困ったような顔をした。とどめの一言。 「おれの手で出させてください」 「……っ、嫌じゃ、ないのか」 「何故です、嫌なわけない」  渋々なのか戸惑いや狼狽なのか、ぎこちなく膝を曲げ、愛糸の目の前に座る。愛糸は擦り寄ってわずかにできた空間を埋めた。逸らされたままの顔。だが躊躇いがちに黒目が愛糸へゆっくりと吸い寄せられては結局また畳へ戻ってしまう。 「おれでは不満ですか。年齢の割に経験不足の未熟者で…」 「ち、違う!そういうわけじゃあない!」  大きな声で否定される。赤い顔がさらに赤くなる。色付いた唇は官能を刺激する。愛糸は微笑んで首を傾げた。ふい、とまた視線を逸らされる。 「()すぎるんだ…()すぎて…」  顎を捉える。唇が触れ合うほど近付いた。 「それなら、良かった」  近付けたついでに合わせる。離れ際に下唇を()んで、戻っていく反動を愉しんだ。頬を緩めると鰍沢の堅そうな眉根も緩む。人間関係を円滑にし面倒事を避けるための笑みとは違う、相手が安心感得ているという感覚が何より欲しくて、自然と浮かんでしまう微笑。ゆっくりと腕を下ろして鰍沢の聖棒に再び触れる。今度は少し乱雑に扱いてみようという気になった。 「うっ、あ…」 「先生」  首筋を舐めながら、包み込む掌を上下させる。ぬるぬるとしていた。水音が微かに、けれど鮮明に耳に届く。プラムのような先端を指の腹で抉り、数度タップする。指先に絡んだ水飴を塗りたくる。 「恥ず、かしぃ…あぁ、」  消え入りそうな低く掠れた鈴の音。鎖骨を舐め上げて、皮膚の上から甘く噛む。やはり駄犬でいるのがお似合いだと思った。気取ったつもりはない。八方美人でいたつもりもない。善者ぶっていたわけでもない。心無い中傷を無かったように装えても、何も感じないわけではなかった。ただ今の姿は性に溺れストップが利かない獣だ。まだ犬猫や猿の方が賢い。 「先生の中に入りたい…」  先生の身体の深いところを汚したい。臭い子種を撒き散らしたい。ずっと奥の奥まで包み込んで、離さないでほしい。内側から黄ばんだ劣情を受け止めてほしい。昨晩はそう出来なかった。よく知りもしない、しかも同性の中年相手の体内に射精したいなどとは思わなかった。性には淡白なはずだった。週に2、3回出せれば、満たされていた気になっていた。この興奮の坩堝を、思春期でも知らなかった。鰍沢は俯きながら頷いた。ゆっくりと膝を立て、腰を上げる。その間も愛糸は媚槍を磨き続ける。鰍沢の片手が背中へ消える。 「あぁ…、っ、」  びくっ、と大きく揺れた肩。体勢を崩して愛糸の方へ傾く。 「おれが慣らしますよ…?」  濡らしもせず、無理矢理蕾を咲かせようとしたらしい。倒れかけている鰍沢も後頭部へ手を回し、愛糸は肩の上へと導く。耳元で囁いた。誘い込むつもりが鰍沢の放つ色香に愛糸はふたたび誘い込まれかける。鰍沢は首を振った。自分でやる、ということらしい。 「はっ、ぅぐ、く…っ」  子をあやすように背を撫でる。苦痛だけにならないよう、前の精悍な茎を扱く。生々しい震えが愛糸の身体に伝わった。耳元で歯軋りの音が微かにする。 「出してください」  意地っ張りな大きな子どもに思えて、胸がきつく絞られるような甘い痺れに笑みが溢れてしまう。子どもは嫌いなはずだった。 「先生が出すところ、見たいな…先生の恥ずかしいところ、見せて…?」  白い爆発を促す。先端部の鈴を執拗に撫で、頂きの窪みを指の腹で抉り、埋めるように擦る。括れを揉み込み締める。立ち昇る植物の香り。男のものだ。ひと回りは上の男の。父親とそう変わらない男の。臭いはずだ。汚いはずだ。だが魅せられる。匂いにも、肉体にも、声にも。待ち望んでいた大輪の妖花が咲いた香り。 「ああ…ぃやだっ、見っ…るな、!あ、ああ、ぁあ…、」  脈動が指に伝わる。反射が腰を叩き、静かに愛糸の手の中で揺れる雄蕊(おしべ)。上下するリズムに逆らって、過剰な快感を送りつける。腰が大きく跳ねて、鰍沢の力が抜け、身を愛糸に委ねる。掌にかかった白濁が真珠のように思えた。柔らかい白をしている。何億もの遺伝子が籠った粘液。この人には子どもがいるのだ。何気ない発言が今になって蘇る。 「あぁ…、はっ、はぁ、ふ、」  快感の処理に頭がいっぱいのようで、蕾を愛でることは(おろそ)かになっている。 「可愛かったですよ」  開かれたシャツが鰍沢の呼吸の度にカーテンのように揺れる。愛糸の言葉に揶揄はない。鰍沢の息の音が沈黙の間に流れている。身を硬くしてぎこちない動きで背に回した腕が震えている。一度鰍沢の背を叩く。愛糸は立ち上がって鰍沢の背へと回った。潤んだ瞳が振り向く。安心してください、というつもりで愛糸は微笑みかけ、鰍沢の露出した果実を割り開く。畳へ両手をついた鰍沢は受け入れるつもりらしい。秘境の奥の薄い色をした窄まりへ愛糸は桜色の舌先を伸ばす。窄まりが遠ざかる。その分の距離を縮める。昨晩の無理矢理な行為で傷が付いているのではないかと思ったが、慎ましやかな粘膜に傷らしきものは見当たらない。 「汚…いだろ、う…!」  抗議の声が低く掠れて色っぽく投げられる。肩越しに濡れた宝石が愛糸を見つめている。彼に殺される。あまりにも幸せな死を迎えてしまう。この絶美ともいえる体躯を前に何も出来ないまま、甘く悶え殺さる。非業の死だ。豊潤な果汁を味わうつもりが、溺れてしまう。  汚いわけがないでしょう!という抗議を込めて引き締まった果肉を揉む。ただ老化によってしなびた固さではない。しなやかだ。愛糸の手をしっとりと受け入れ、絶妙な反動を伝える。一斤染め色の小さな花を円を描くように舐めてから舌先を尖らせて花裂に侵入していく。電流を通したかのように鰍沢の背が奇妙に振動した。舌が締め付けられる。柔らかく、強く引き締められ、放されたかと思うと、もっと奥へ連れ込まれそうになる。さらさらとしているがローションのように粘度のある唾液が愛糸の口から溢れ、滴っていく。銀のネックレスを垂らしているように光っていた。暫く舌で内部を慣らしていたが、温かい膜が迎え入れるくらいになると顔を放す。 「すごく綺麗です」  中指を差し込む。几帳面だとか神経質だというわけではなかったが常に爪は短く切り揃えていた。指の腹側から見た時、白い部分が見えるのが何故だか許せなかった。この人とこういうことをするのだと、運命付けられていたのかも知れない。この男の前では夢見る乙女になる。役割は乙女とは程遠く思えたが。 「もぅ、いい、いい…から…入れっ、」 「いけません。傷付けたくないんです」  濃密な甘蜜を孕んでいるであろう逞しい肉に唇を落とす。シミも傷もない、麗しい肌。人差し指も潜り込ませ直腸を擽る。昨晩に1度、先ほど1度解放されている劣情がまた芽吹いている。この男と融け合うことを催促する駄犬を一縷の理性で抑え込んだ。桃色の迷宮を広げる。丁寧に慎重に(ほぐ)しているのだと(かこつ)けて自らを焦らし、雄合することの我慢にさえわずかな快感を拾いはじめ、新たな性癖に目覚めそうだ。 「挿れます。上、向いてください」 「…っ、このままが、」 「だめです。先生の顔見ながらイきたい…」  畳の上で鰍沢の拳が握られたのが見えた。鰍沢は仰向けになった。チワワからグレートデーンと化した愚犬を数回擦りイングリッシュマスティフへ変貌を遂げさせる。鰍沢が諦めたように目を閉じる。 「あっ、が、ぅ、うう、っく…!」  腰を押し進めて躊躇った。 「あっ、すごい、です…!」  半分ほども入っていない。大きく息を吐く。いやらしいラヴィリンスが愛糸を強く引き込む。粘膜の招待を断って一度浅く引き抜く。その容貌に似合わない愛らしく幼い色をした自我がてらてらと卑猥に照る。アダルトビデオで観た凶暴さと貧相さを併せ持った赤黒さとは縁が遠い。その持ち主は健康的で尚且つ知的な雰囲気を漂わせた眉目清秀(びもくせいしゅう)な青年。ペールオレンジの唇が開き、熱い吐息が漏れた。 「あ、ああ、…っ、愛糸、」 「先生…」  ゆっくりと深くへ埋め込んでいく。鰍沢が喘ぐ。苦しそうな声がつらくなり、唇を塞ぐ。湿った息が頬を掠めた。腰を揺する。出たり入ったりを繰り返す。どこか滑稽な人間の交尾。粘膜できつく摩擦されると堪らなかった。直接的で物理的な営み。だが何よりこの男に受け入れてもらったのだという実感が土台にある気がした。 「先生、先生…、せんせ、」  動きが止まらない。何かに取り憑かれてしまったようだった。昨晩のあれは、セックスではなかった。あれは身勝手に人の身体を使ったセックス気取りのマスターベーションだったのだ。 「いい、か?」  鰍沢の頬に手を添える。柔らかく上がった口角。愛糸は感極まって、涙が溢れる。苦痛は鰍沢のほうが多いはずだ。だが愛糸は産卵するウミガメのように涙が瞳を煌めかせた。こくこくと愛糸は急いで頷く。最高です、最高です、と繰り返す。情けない姿だ。最も格好をつけたい時は同時に最も滑稽で情けなく愚かな姿を見せてしまうというのが人の理なのだろうか。 「は、あぁ、ん、ぐふ、」 「先生…っ!」  この人はどれくらいの人を抱いたのだろう。そしてどれくらいの人に抱かれたのだろう。どれくらいの人を好きになって、どれくらいの人に好かれたのだろう。その中で自分の立ち位置はどこにあるのか。肌と肌がぶつかる音が耳を叩く。視界が爆ぜた。気付いた時には下腹部が収縮し、鰍沢の直腸へ精を放っていた。 「ごめ、なさ…」 「…っ退いて、くれんか」  失態だった。何でも卒なく器用にこなしてきた。息苦しい。鰍沢は愛糸を見なかった。これもただのマスターベーションだったのだ。落ち着いてグレートデーンになっていた駄目犬は豆柴になっていた。起き上がろうとする鰍沢。愛糸は重苦しく身を引いた。 「申し訳ありません、先生…」 「…」  鰍沢は黙ったまま。畳の目に視線を落としたまま、顔を上げられなかった。飼い主の躾に従えなかった。 「謝るのは、俺のほうだ」  顔を上げてくれ、と手の甲を頭に当てられる。 「そんな顔をするな」 「あの、中…大丈夫ですか…」  気に掛けると鰍沢の顔は真っ赤に染まる。 「すぐに出してくる」 「あの、おれが、」  頬を染めたまま睨まれる。何も言えなくなってしまった。二度目の風呂へ鰍沢は向かっていった。項垂れて、それから換気をするため窓を開け放つ。違う角度から見る商店街の景色も風情があった。醤油の匂いがした。それから呼び込みの声。高級住宅街にある、教会のような外観にペンションのような内装で生活感のないインテリアが揃った実家を思い出す。落ち着かない場所だ。兄を喪ってから両親と祖父母は愛糸が地元から出て行くのを嫌がった。祖父は2年前に死んだ。家を頼む、という遺言は呪いのようだ。得意の笑みで了承した。中身は伴わないけれど。実家のある土地の高い住宅街と今目の前にある行き交う人々の光景を興味深く観察していた。目に映る限りの人々の年齢層は高いが、クレープを片手に歩く若者や有名なコーヒーショップのロゴが入ったプラスチックのカップを持った若者もいた。スマートフォンを片手に孫や曾孫と思しき年齢差の子の手を引く化粧の濃い老婆もいた。愛糸が中学生の頃にはほぼ目にしなくなったシェルタイプの携帯電話独特の電子音が鳴り響いていたりもした。 「愛糸」  風呂場の扉が開く音がした。背後から呼ばれ愛糸は振り返る。 「先生…大丈夫でしたか」 「どうしたんだ」  一瞬、渋い顔をされた。怖い顔をしている。だがそれが照れであるのだと気付けるようになっていた。 「外を見ていたんです。いいところですね」 「時代に置いていかれた商店街がか」  言葉の割に、鰍沢の声音も表情も優しかった。 「せめて雰囲気だけでも戻れる場所があったほうがいいですから。おれは好きです」 「そうか」  鰍沢は嬉しそうだった。 「ここも何かしていたんですか」 「ラーメン屋を、親父がな」  懐かしむように鰍沢も窓の外を眺めていた。風呂場へ向かう途中に見えた、暖簾がかかった奥の部屋の様子は生活空間にしてはあまりにも片付き、不自然さがあった。ラーメン屋としてのスペースだったのだとしたらイメージが合致する。 「そうでしたか。ラーメン屋…」 「1人でこんなところ住んでいても仕方がないとは、思っているんだ。だがなかなか売り払えなくてな」  子の有無は明言され、配偶者の存在は何となく察したが、鰍沢の両親はここには住んでいないらしい。 「思い出とかですか?」  鰍沢は答えなかった。愛糸の問いは聞こえていないようだった。 「多分君には記憶がないだろうが、俺には、息子がいた」  鰍沢は愛糸の横に並んで、日常的に見慣れているだろう商店街とそこを行き交う人々を見ている。 「さっき何となく、話は」  詳しいことは省かれていたが聞いた。何でも、愛糸がその息子と飛び降りたという全く身に覚えがない話。そして訂正しなければならなかったのは、鰍沢の中では愛糸にじゃ記憶が無いことになっていること。 「生きていたら、君と同じくらいだな」  一緒に飛び降りたと言っておきながら、愛糸は生き残っている設定で、息子は死んだという。どういう状況なのか意味が分からないでいた。愛糸は九死に一生を得て、息子は死んだということか。それほどまでに危険な飛び降りはまさに記憶が無い。本当に記憶が無いのだろうか。だが小学時代、中学生時代、高校時代、大学のことは各々思い出せる。即席で脳が創り出した紛い物でないのなら。 「そう、なんですか、」  反応に困った。デリケートな問題のように思える。下手なことは言えない。 「俺は息子との関わり方を…そうだな、誤ったのかも知れん。苦手だった」 「苦手…、」 「親バカと言われればそれまでだが、頭は良かった。内気だが根はいいやつだった。親に甘えないやつでもあった」  近くの綺麗な横顔から目が離せなかった。 「真面目にこつこつ努力していればいい、いつか報われる、立派な大人になる。ずっとそう教えてきた。それが間違いだった。そんなことは、成功した奴等の台詞だったんだな」  教職に就いている親が言いそうなことだと思うのは愛糸の偏見だろうか。よくある教育方針だ。それに正解不正解があるのか否かも分からないが、ありがちすぎてむしろ無難にさえ思う。それを悔いているかのような物言いだ。 「よくある話だ。いじめだな」  懺悔だ。そうですか、と気の抜けた返事をする。人に受け入れられ、常に人が周りに溢れ、異性同性から交際を迫られた愛糸にはワイドショーのネタでしか身近に感じたことがない。人の悪意にあまり触れたことがない、というよりはその悪意の矛先が自身に向いた経験がほぼなかった。 「同じ高校にいて、気付かなかった。莫迦な親だ…」 「それは、」  教師としての鰍沢を疎んだ輩の逆恨みか。鰍沢の勤めている高校は鰍沢の息子の通う高校ということらしい。親の勤務先と子の通学先が同じという状況は、無くはないとは聞いたことがあった。それなりの配慮はされるらしいと付け加えられて。 「何が原因なのかは結局分からなかった。俺の所為かも知れないな。いじめていた奴等とは何の接点もなかったが。面識もなかった。だがいつ人の恨みを買うかなんて分からん」  ブロック塀の奥は平和だった。だがひとりひとりを突き詰めた時、おそらくそれなりの闇や業が垣間見えるのだろう。 「息子の担任を責めたんだ、俺は。俺は俺の落ち度に気付けないまま、詰(なじ)った。結局まだ未来のある若い教師を辞めさせちまった。俺は手前の息子も守れなかったくせに、偉そうに」  自嘲的だった。険しい声が和らいでいる。 「息子がな、一緒に飛び降りた生徒ってのは、多分、君だ」  高校教師。高校生。飛び降り。心中。自分。おそらく無意識に拒否していた解が出る。キーワードから解かれていくことを拒絶していた。 「どうしてそう思うんです?」 「夢に何度も出てくる。いい加減顔も覚えた。息子が…ナオヅミが飛び降りた理科室の近くで、俺を待ってる」 「あなたを待っている"そいつが誰だか知りませんが"ただ、先生のことは待ちますよ、おれでも」  鰍沢が身体ごと愛糸に向く。相変わらず殉教図に描かれていそうな色気と儚さと肉体美だ。 「直接でなくても、俺は君を…だが生きていてくれて良かった。だが…本当に生きているのか」  泳ぐ視線。愛糸は面喰らった。 「俺に恨みがあって、出てくるのではないのかと…」 「生きてますよ。この通り」  両手を開く。胸に飛び込んでその逞しい腕で確かめても構わないと思ったが、鰍沢はつらそうに目を伏せる。愛糸の朗らかな笑みも吸い込まれた。 「先生、多分それは先生の内面的な問題だと思うんです。"おれは"生きていますし、記憶喪失ではないです。先生のことだって恨んではいません。むしろ…」  眉根に深い皺を刻んで鰍沢は両耳を塞ぐ。否定するように振られる頭。困ったように唇を窄めながら柔く噛む。困った時の癖だった。 「反動だろう。錯覚だ。君が俺に優しくするたびに、痛い。こんなこと言える立場じゃあないが、その裏返しは、」 「ひとつだけ許せないことがあるとすれば、おれの気持ちを軽く扱って自分を責めるところです」  鰍沢の唇に指を立てる。色の悪い唇と愛糸の小麦色の指が対比される。 「すま、ない…」 「謝らないでください。少しでもおれを…他の誰でもなくおれを顧みてくださるなら、それでいいんです」 「君にはつい、色々話してしまう。許されないだろう、許されなくて仕方ないと思っても、本当は許されたいんだ」  鰍沢の緊迫していた肩の力が抜けたようだった。 「謝ることより許すことのほうがずっと難しいとは云いますが、ずっと背負い続けて逃げずに謝ることもまた、難しいことだと思います。本当にあなたが求めている許しは、あなた自身なのではないのかとおれは思います。だっておれはもう許すとか許さないとかないですから」  別個体を騙って何を言っているのだろう。自らを嘲りながら、それをひた隠す。あれは幻だった。両親もそう思っているはずだ。脳の機能を失いはじめているらしい祖母にはもう孫の存在さえ分かっていないのではないか。愛糸にも、あれは幼い頃から共にいた幻なのだと疑えなくなってきていた。 「愛糸…」 「苦しいですね…」  勝手に口をついて出た。

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