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第3話

 鰍沢がくしゃみをした。 「大丈夫ですか」  実家では咳ひとつ、くしゃみひとつで母親が大袈裟なほど心配した。まだ実家が本当に実家だった頃やたまの帰省でそうだった記憶は無いため、それが息子を突然亡くした親の、死んだ息子と瓜二つの息子と面と向かわなければならない親の傷なのだろう。だが両親や祖父母は、愛糸とその兄の見分けを難なくやってのけている。無意識の領域で。 「ああ、すまん。寒かったか」 「いいえ、おれは寒くないですけど」  わずかに重みが抜けたような軽やかさが伺える。それだけでも十分だった。すぐに拭えないだろう、家族の死は。控えめだった母親の過保護さ、丁寧な父親の構いたがり、厳しかった祖母の猫撫で声。すでにいないが巫山戯(ふざけ)た祖父。全て兄が遺していったものだ。 「若いものな」 「そんな。先生だってお若いでしょう」 「どの口が言うんだ。もう46だ」 「おれの父親よりは若いです。53ですから」  逆算する。今の愛糸と同じくらいの時に子を授かったことになる。 「父親と比べられてもな、」 「あまり近くに興味の対象となる男性がいなかったんですよ。気を悪くしたら、申し訳ないです」  首を振った、僅かに見えた口元は緩んでいた。ずっとそうしていたらいい。けれど他の人には見せないでほしい。だがこの人はとても素敵な人なのだとこの商店街の中心で叫びたい。 「愛糸、」  心地良い声。鼓膜が甘ったるい匂いを放ってチョコレートのように溶けていく不安。 「ありがとうな」  眼球が軋む。眼窩から転がり落ちるくらいに目を見開いてしまった。窓の奥の明るい曇天に鰍沢が攫われていきそうだった。頭が真っ白になる。何か言わなければ。取り繕わなければ。この男が立ち上がれなくなってしまうのではないかと。だが気の利いた言葉が出ない。真っ白い底無しの渦に全て呑まれていく。 「愛糸…」  好きだと、告白されたのかと思った。それだけの真摯な色を孕んでいた。 「先生、おれは」  どういう意味か、問い質す勇気も背負う強さもなかった。この男の前では自身の全てが情けなく、醜い。けれどそれでも、この男から離れたいとは思わなかった。 「おれは…」  続かない。何を言っていいのか分からない。言葉さえ浮かばない。 「大切にしてもらった。お前に。ありがとうな」  鰍沢の姿が目の前にある。厚い掌が髪の上にのった。さらりと音がした。温かい温度が伝わる。鰍沢は困った笑みを浮かべていた。泣きそうになってしまった。愛糸は唇を噛んで、俯く。感謝の言葉の裏にある意味を、鰍沢自身が換えてしまった気がした。それは愛糸の負い目故の深読みに過ぎないのか。 「大切にするに、決まってます。これからも、ずっと…」  未来を示唆する言葉を使わずにいられない。鰍沢の心を、酒に溺れるその身を救いたくて仕方がなかった。だがそうすればあっさりと鰍沢は目の前から消えてしまうだろう。そしてもう現れることはないかも知れない。繋ぎ止めたい。離れたくない。 「だが俺は、お前を大切に出来ない。きっと。いつかお前を傷付けるだろう。それは明日かも知れない。もしかしたら今日かも知れない。もしかしたら今かも」  鰍沢の厚い掌が首を包む。温かい指が絡む。愛糸の首が細いのか、それとも鰍沢の手が大きいのか。 「ナオヅミが死んで、恨んだ。誰でもない…お前を。あいつが自分で死ぬなんて思わなかった。お前が巻き込んだんだろう、唆したんだろうと、…」  鰍沢の眼差しが網膜を刺す。鰍沢が見ているのは本当に自分なのか。真っ黒い2つの鏡に写るのは、愛糸なのか、それとも。喉仏に親指が重なる。本能的な嫌悪感が襲う。だが悲しい表情をする鰍沢の腕を振り払うことが出来なかった。胸の痛みが治まらない。 「でもあいつが自分で死ぬ理由なんていくらでもあった。お前に巻き込まれたんじゃあなかった。分かってる、俺のバカ息子がお前を死に追いやった!でも、でもな、俺は夢に出てくるお前を、また、きっと…、」 「きっとおれをまた恨んで、傷付けるんですか?でも構わないです。あなたがそれで一時でもあなた自身を責めないのであれば、おれには誇りです」  わずかに力が込められる。苦しいだろう、おそらく胸の痛みとは違う、もっと肉体的で現実的で物理的な、生体反応として。この人には絶対に見せたくはなかったという姿を晒すだろう。 「殺すかも、知れない…!」 「窓、閉めてくださいね。この商店街が穏やかでなくなってしまうのが少し、心残りですが」  この男はやはり天使だったのだろう。鏡の奥の別個体が死んだ時に、もしかしたら自身もすでにこの世を去っていたのかも知れない。庶民的で昔懐かしいイメージとは違った天国。そこに住まう、想像よりも大きく思っていたより素晴らしい天使。それとも、刷り込みを裏切った麗しく儚い閻魔大王。 「君は、ナオヅミの唯一の友人だったんだろう。君は人望溢れる学級委員で、部長も務めて、生徒会だったそうだな。俺も知らなかった。裏方で真面目に働いて、難関大学に向けて勉学に励んでいたと聞く…」  力なく鰍沢の腕が落ちる。愛糸を見ていられないとばかりに、背を向けた。それが引き裂かれるように痛い。揺らぐ。嫌だ。鰍沢の静かな首筋。痛んだ毛先。混じる白髪。輪郭に消える髭。背景に透けた睫毛。しっかりしているくせ触れたら崩れそうな肩。決壊する。涙腺も意志も。弱いなぁ、と聞こえた。それはおそらく自身の声だ。 「ナオヅミは君にとって、足枷だったか?聖人君子のような生徒だったと、聞いている。俺も思った、時代に似合わない快男児だと…。あるはずがないな、ナオヅミが彼を自殺に巻き込んでも、彼がナオヅミを自殺に巻き込むなど…」 「先生、」  鰍沢は見向きもしない。情けない声が漏れた。震えて、舌ったらずで、幼い。 「おれは違うんです、おれは、あいつの-!」  感情的になって手が出るやつは馬鹿だ。そう思っていた節がある。誰にでも好かれ、誰にでも分け隔てなく接していたつもりで、内心は慢心でいっぱいだった。鰍沢の肩を、崩れそうだと思っていてもこちらを向かせずにはいられなかった。滲んでまともに機能していない視界が真っ暗になる。温かい。ふわりと馴染んだ香り。森を思わせる深い匂い。背に回る力強い腕。首ではなく上体を絞め殺す気になったのか。温かい。窓は開けっ放しだ。けれど商店街の人々には生垣やブロック塀を通して見えない、はずだ。 「君は俺の贖罪に付き合ってくれた、それだけだ。何の罪もない。君は被害者だ」 「ごめ、なさい…、でもおれは嫌で、嫌で…おれはおれです、他の誰でもない…」 「すまない」  愛糸は首を振る。違う、そうではない。私欲のために嘘を成立させようとした。そこから積み重なってしまう罪悪感も不満も自己否定感も背負う覚悟を決めたはずだった。 「謝るのはおれです、大変な嘘を吐きました…!おれはぁ、っ」  どう転んでもこの男とは縁がないのか。出会えたのは、運命の悪戯などという生易しいものではない。人生という拷問を与えられた。今までの人生で、何かを不満に思ったことはない。全てを揃えて与えられていた。 「君の優しさを無下に扱った。腑抜けた俺の戯言に付き合ってくれた。そんな君を責めて、そんな顔をさせて」  心地良い、背を叩くリズム。親子ほども違う年齢の差を感じずにいられなかった。 「彼は亡くなっていた。彼は亡くなっていたんだな。すまない」  鏡が割れる。鏡ではなかったかもしれない。ただ、何かが割れた。頭を撫でられる。小さい頃、祖父にされたようながさつさと乱雑さだった。犬と間違われているような。兄は死んでいたのだ。兄は死んでいた。兄は…。鰍沢の胸に置いた手が震えた。声よりも震えていた。膝の力が抜けた。強い腕が引き留めて、ゆっくりと床に近付いていく。 「兄は、死んでるんです、兄は、死んだんです、兄は…っ」  いい、と鰍沢は言った。この男を守らなければいけない。強そうで逞しくも儚いこの男を守らなければ。だが、いい、言わなくていい、と強く抱き締めるこの男に守られている。息子を失ったこの男に。 「君は愛糸だ。すまなかった」 「鰍沢さん…」  涙が止まらなかった。兄は死んでいたのだ。分かっていたはずだ。きちんと訃報は来ていた。電話の奥の祖父の声が震えていた。祖父も死んだ。祖父はもういないのだと、もう会えないのだと、もう声は聞けないのだと、悲しくなって寂しくなった。けれど兄は…。 「竹雀、たけすで合ってるんだよな」  ベランダでぼうっとしている美青年がふわりと笑って振り返った。桜吹雪のような雰囲気を持っている。吹雪というには繊細さがあるが。どうせまた暫くして飛び降りてしまう。 「はい」  花のような少年だった。 「弟は愛糸というんだな。お前は?」 「いやだな、鰍沢先生」  くすくすと笑う姿はあどけない。落ち着きのない幼女のような雰囲気だ。 「おれは先生の中のおれですよ。先生が知らないこと、おれが知るわけないじゃないですか」 鰍沢はそうか、と言って愛糸にそっくりな少年を見つめる。 「じゃあ、手紙くれたのは、お前か。…いや、俺が勝手にそう認識しているだけだったんだな」  息子が空へ自由を掴みに行った前日、何も知る由がなかった鰍沢の机に置かれた手紙。このデジタル社会でそれは鰍沢の懐かしさを刺激する。綺麗な字は鰍沢が仕事上、多くは女生徒で目にした。1字1字しっかりとした文字。句読点、読点。恋文だった。差出人は不明。その後日に一生忘れることはない事件が起きて、忘れ去っていた。だが思い出した。 「…、成穂摘(なおづみ)くんに会いたいですか」 「どんな綺麗事を並べても、どれだけ賢い理屈を並べられても、会えない息子に会いたくない親などいないだろう」  ベランダの手すりに腕をつけて、愛糸に酷似した少年は空を見つめる。この者の姿を生身で遠くから目にしたことがある。写真でもだ。だが愛糸より幼いはずのその姿が、彼が虚像であることを裏付けていた。 「それが割り切れているならいいんです。おれはあなたの中で大きな存在になってしまった」 「大きな、存在…」 「はい」  愛糸に瓜二つの男が手を握る。虚像の体温が染み入ってくる。生前の彼を思い出す。深い関わりはなかった。何百人といる生徒の1人だった。名も顔も1人1人を覚える気などなかった。息子と、顔も名も結び付かない生徒が共に人生を終えるまでは。結局は誰だかも分からないまま、ただ一瞬、記憶の中で朧げにある写真。怒りに燃えて、息子が写っているにも関わらず、恨みには勝てなかったため、すでに灰となっているはずだ。 「どうして、俺を…」  訊ねるのを躊躇った。口にしてはいけないような気がした。 「さぁ?自分でどう思います?あなたの知らないこと、おれは分かりませんよ」  恋文には、真面目で誠実なところが挙げられていた。優しい、らしい。心当たりはなかった。何せ相手は顔も名前も分からないどころか差出人不明だったのだ。女生徒だろうと思っていた。それでもやはり見当はつかなかった。罰ゲームか新手の教師いびりの類だろうと、深く考えなかったことを今になって悔やむ。黙っているうちに愛糸の兄は消えかかっている。身体の奥が透けて見えた。飛び降りるのではないのか。鉄棒競技のように、手すりに座って後ろからダイブするのでは。 「どうしてお前は死ななければ、ならなかったんだ」 「あなたのしらないこと、おれは―-」  手が温かくて、目が覚めた。 「鰍沢、さん」  愛糸は隣で眠っている男を呼ぶ。毛布が掛けられていた。愛糸の手を固く繋ぐ指がぴくりと動いた。掌が抱き締め合っているようで、離すに離せなかった。 「都合のいい夢を見ていた」  横から見るとシナモンによく似た色の瞳。 「都合のいい夢…?」 「でも少し、悲しい」  本当に、優しい笑みを浮かべる人だった。言葉の意味よりもその表情は明るく軽やかだった。愛糸の痛痒い目元が解れた。 「鰍沢さん、おれが傍にいます。夢の人ではなくて、現実のおれが」  まだ視界はぼやけている。瞼は軽くはない。睫毛もまた抱き締め合う相手を求めていた。ああ、と肯定されたのが、愛糸には意外だった。髪を撫でられる。猫であったなら喉を鳴らせた。そうしてこの飼い主へ安穏をもたらせるのに。 「ありがとう、ありがとう、愛糸」 「でも鰍沢さんがおれの姿をつらく思うなら…」 「馬鹿なことを言うな。君と彼は確かに似ている」 「双子です。たまに親も間違えるほどです。おれもずっと、他人とは思えなかったほどです」  そういえば、兄を亡くした後の初の帰省で、トマトを出された。愛糸はトマトがとにかく食べられなかった。母親の習慣だろう。愛糸の兄はトマトが大好きだった。そのことは薄々と覚えていて、そしてそれが愛糸がひとつ見つけられた兄と違う点だったように思う。もっと違うところを兄は見つけていただろうか。 「息子の唯一の友人の彼に感謝をするのを忘れていた。認められなかった、己の非を」 あなたは悪くないはずです、思ったけれど愛糸呑み込む。軽くなってしまいそうで怖かった。 「そういえば」  言葉を呑んで黙る愛糸の顔は俯き、暗くなる。だが鰍沢が言葉を続けたため顔を上げた。 「竹に雀…愛糸は伊達政宗を知っているか。いや、この訊き方は少し問題があるな。興味は…、無くても、聞いたことはあるかも知れないな、苗字柄」 「家紋ですか。うちの家紋は竹に雀ではありませんが、歴史好きの友人がいたものですから、話は聞いたことがあります」  脈絡のない問い。だが意識が自分に向いている。肯定的に。それだけで愛糸は満たされた。そうか、と微笑みをくれる。また涙が出そうだった。この優しい男をまた揺るがしたくはない。 「昔ラブレターを貰ったことがあってな。家紋のスタンプが押してあった。それを、思い出した」  握られた掌を愛糸からも強く握る。それが、死んだ息子の母親だろうか。それともまた他の人。聞きたくない。けれど彼の声が聞けるのなら。彼の気持ちが晴れるのなら。 「君に見覚えがあって、君を見つけたのは偶然だ。…成穂摘(なおづみ)は君のお兄さんが好きだったのかも知れないな…そういう意味で。写真がいっぱいあった。多分、隠し撮りもある」 「え?」 「気持ち悪いか?」  分からない。即答は出来なかった。己の身に降りかかった運命の出会いで変わってしまった。 「正直、分かりません。ただ少し前のおれだったら即答は出来ていたと思います」  意味ありげに鰍沢が一瞥した。 「ただ分からないことがある。何故、成穂摘(なおづみ)は君のお兄さんを巻き込んだのか」 「兄の名は恋糸(こいと)といいます、呼んでやってください」  父と母の価値観で付けられた名ではない。遊び心のある祖父が出した案だったと聞いている。厳格で堅く、保守的な祖母がよくその案を通したものだと愛糸の中では納得がいっていない。愛糸の中の男性図から繋がる名前ではなかったから。父母は特に名前に対しての強いこだわりが無かった。生命を贈ることが出来ない場合があるけれど、名前は贈ってあげられる。ただそこにどうしても親のエゴを押し付けてしまうから、と他の名で呼ばれたいのなら、将来他の名を名乗りたいのなら好きになさいと言われ続けていた。命名権を握ってしまった祖父にこのことは黙っていた。 「恋糸(こいと)か。恋糸は何故、成穂摘と…」  鰍沢の声は消えていく。恋糸の遺品整理には一切関わっていない。幼少期に小学校に上がるまで習慣付けられていた日記を続けていそうな雰囲気はあるが、飽くまで愛糸のイメージだ。愛糸は書かなくなってしまったが。もしかしたら何か手掛かりはあるかも知れない。だが知ってどうするのだろう。裁判があるわけではない。ただこれからも生き続ける人々のために、日記を漁るのか。それでも鰍沢という男が何かを割り切れるのなら、愛糸は吝かではない。 「考えるのはよそう。あれこれ推測をするのもな。畢竟(ひっきょう)、遺されたものだけで推し測ってそれで納得しても納得できなくても、俺だけの問題だ」  愛糸の髪を撫でる手。この男の飼い猫になりたい。愛でられる立場で、いざという時は身体で愛でて癒したい。欲張りだろうか。一度剥いだ化けの皮がもう被れないでいる。 「あなたが望むなら、調べます。兄の遺品を。もしかしたら何か分かるかも知れませんから。双子のくせに、兄とは随分長い間一緒に暮らしてはいないんです」  すれ違うように実家暮らしになった。両親や祖父母の教育方針が変わったのだろう。子が1人、死んだから。 「妙な違和感を覚えていた。不思議には思っていたが、そうか」 「双子ですから、祖母があまり没個性になるのを嫌がったみたいで。すごく似ているみたいなんですけど」 「双子でなくても…たとえば片親が違う同胞(きょうだい)でも、とても似ていることがある。双子なら尚更似てしまうのは無理がないだろう」  鰍沢と解釈と論点が微妙にずれているような気がしたが、取るに足らないことだった。 「もう間違い探しみたいなものです」  鰍沢が愛糸を見つめる。愛糸は首を傾げる。 「笑い方が違う」 「笑い方、ですか」  鰍沢は恋糸見たことがあるのだろうか。見たことがなければ夢になど出てこないはずだ。鰍沢と見つめ合う。折れたのは鰍沢だった。 「恋糸のことをまだ恋糸とは認識してない頃だったが…ああ、そうだな。桜みたいに笑うんだ」  照れているらしい。鰍沢の見た目には似合わない詩的な表現だった。 「では、おれは…?」 「もう少しだけ…桜よりは図太そうに笑う…桃の花、か」  面と向かって言われると愛糸は息を忘れる。いずれは心臓を握り潰されるだろう、この男といたら。歯止めが利かない。鰍沢の中でひとつ整理が付いたのなら、今しかない。もう耐えられない。 「好きです、鰍沢さん。好きです」  握った手を引き寄せる。放さない。鰍沢の眉間が歪む。苦しい。吐き出してしまいたい。下半身の白い欲望よりも、ずっと苦しく胸を燻る色の無い濁った想い。淀んでいる。それはこの男に吐き出し、触れてもらうまで澄むことはないだろう。 「愛糸、それはどういう意味で」 「どういう意味で?もちろん、そういう意味で、です」  鰍沢は苦しそうな表情を崩さない。あえて鰍沢の言葉を引用した。つらそうな顔をされるとは思わなかった。喜ばれるとも思っていなかったが。 「…愛糸。よく聞いてくれ」  鰍沢が愛糸に引き寄せられたままの腕を引く。だが愛糸は放さない。どちらの体温か分からないが繋がれたままの2つの手、絡み合った10本の指は熱い。乱暴にはしたくないらしいが、それでも愛糸の手を引き離そうとしている。 「悪かった。俺が君を襲ってしまった。そしてそれは君の中で大きな傷になったことだろう。全て俺の弱さだ、本当に申し訳なく思う」 「傷なんかじゃないです。しっかりしたおれの意志です!」 「愛糸、俺は、さっきも言ったがおじさんだ。息子と同じくらいのお前を…そんな…」 「我儘を言ってはいけないことは百も承知しています。ですがあなたが欲しい」  強く強く握り潰すつもりで鰍沢の手を握る。毎晩この手を繋いで眠りたい。 「愛糸…っ」  血色の悪い唇に吸い付きたい。今日だけでも2回は出した分からず屋の肉塊。ただ生暖かい肉感と交合いたいだけなのか。 「好きです。つらいんです。鰍沢さん、好きです」  見切りがつけられず悪鬼になってしまう。それよりも水辺を揺蕩(たゆた)うオフィーリアになってしまうのが先か。もしくは生霊となった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)になる可能性もなくはない。ハムレットも光源氏(ひかるげんじ)も厄介な女に好かれたものだと同情していた。半ば愛糸の現実の生活とリンクしていたから。何故飽きもせず何度も想いを告げてくるのか。何故フラれた者を追おうとするのか。柔和な笑顔と穏やかな態度の下で馬鹿にし見下し無禄に扱ってきた者たちの復讐とも思える、鰍沢への思慕。 「俺は息子が死んで、妻とも別れた。親父も死んで、お袋も後は施設で死を待つだけ。4人いた家族が、いつの間にか1人だ。この暮らしにももう慣れている」  だからそこに、愛糸は要らないということか。入る余地がない。もしかしたら、愛糸だからかも知れない。ただの他人ではない。ただ他人よりも立場は難しいのかも知れない。息子と心中した男に酷似しているのだから。 「は、い…」  遠回しに断られている。拒否されている。 「君はまだ若い。出会いだってある。俺とは世代も価値観も違う。仮に君とどうこうなったとして、もしまた別れることになったら俺はきっともう立ち上がれない」 「おれがあなたを捨てるなんてことがあるはずない」  鰍沢は笑う。子供を見るような目だと感じたのは愛糸の妄想だろうか。 「俺の妻ともそういう話をした。お前を離さない、一生大切にする。俺はそう言って、妻も頷いてくれたが結果はこれだ。恋愛ってのはずっと汚くて、生々しくて、…変わっていく。成長していくんだ」 「おれの気持ちは多分鰍沢さんが言うよりずっと汚いです。それでもおれは今、あなたが欲しい。人の気持ちに絶対が無いのは分かっています。それでもおれは今、あなたが欲しくて、あなたを大切にしたくて…」  前に論文で読んだことがある。脳に一定の条件を付けて電流を流すと勘違いを起こすと。その勘違いとしていた事象は段々と事実になっていく。だがその事実すらも。簡単に人の中身は操作されるのだと。けれどこの想いが錯覚だとは、思えない。 「物理的な1人はな、全然怖くないんだ。でもここでの暮らしはな、思い出がいっぱいある。それも別にどうということはない。だがな、孤独はつらい。孤独でないことを知った後の孤独は、ずっとずっとつらいんだ」 「おれがあなたを孤独にする前に、あなたがおれに飽きるかも知れないではないですか」  唇を甘く噛んで尖らせる。年の功か、それとも愛糸の経験不足か。口説かれたことはあっても口説いたことはない。何を言っても論破されそうになる。 「言うな?」 「この歳でまだ、誰かを抱いたことありませんでしたから」  過去形だ。 「じゃあ尚更…」 「やめてくださいね。性を知って、これから色々経験したいはずだ、みたいなこと言い出すのは。交際はしたことあります。この際ばっさり切ってください。諦められるよう、努めます」  今までの片手の指で足りるほどの交際相手はこういう気持ちだったのだろうか。生殺していたのだ。どういう経緯で交際に至ったのかも覚えていない。あれは交際でなかったのかも知れない。キスだってしたことはなかった。 「本当のことを言えば、君のことは好きだ。だがな…」 「…っ、何もオレを置いて、あなただけが歳を重ねていくわけではないです。年齢差ばかり気にして、それでは同年代は同年代と付き合え、結婚しろっていうんですか!嫌です!オレはあなたがいい」 「だが俺は男で、何より…」 「男なのは言われなくても分かってます!分かっていてそれでもあなたが好きなんですよ、何の葛藤もなかったくらい…躊躇いなんて惨敗しました。差別主義者と保守派は放っておけばいいんです!」  語気の強まる愛糸に怯んだのか鰍沢は驚いている。繋いだままの手を引き寄せていた力も抜けていた。愛糸の圧に負けて口が半開きになっている。保守派…?とおそらく鰍沢も無自覚な呟きが聞こえた。 「孤独孤独っていいますけど、なんでオレが捨てるとか死ぬとか前提なんですか!毎晩枕元に化けて出るので安心してください。昼間でもいいですけど。…オレがもし死んじゃっても、悔いの残らないくらい毎日あなたを愛します。あなたが思い出を糧に出来るくらい…あなたがオレを思い出さずにはいられないくらい…あなたがオレのために生き続けなければならないくらい、重荷になります」 「随分…随分と無責任で曖昧な約束だな」  やっと絞り出したらしい言葉はどこか呆れているようだったが、困ったように笑っている。 「それでもオレを好きになれない、認められないというのであれば、オレはオレなりに割り切ります」 「俺はてっきり、ずっと大切にしますと言う君の言葉を…、あれも告白だったのだな」  何か考え込むような様子を見せてから、鰍沢は言った。 「今更ですか…いいえ、鰍沢さんに覚えていただけていたなら光栄です…」 「あの時本当に殺される気だったのか」 「本当に鰍沢さんが殺す気だったのなら…多少の抵抗は反射なのでお許しいただきたいですが…」  突然真面目な表情をして問う鰍沢に愛糸は狼狽える。何か失礼があったのだろうか。 「そういうところが危なっかしい。今後はやめてくれ。それから泥酔して言い寄ってきた男にふらふらついていくのも…」 「天使が目の前にいたら、ついうっかり…っ!…え?」  鰍沢が照れた。鰍沢の言葉を反芻する。何と言ったのか。さりげない言葉。抱き締めたくなり、手錠を誤って2人に嵌めてしまったような構図だった手を放す。そして腕を開いた、つもりだった。だが放れてなどいない。鰍沢の手が愛糸の掌に絡み付いている。鰍沢の腕を振り回していた。鰍沢の真意が知りたい。 「かわいいな…、あ、…いや、愛糸、お前のことをそういう意味ではやはり…でも、俺を惚れさせてくれるか…?竹雀愛糸として…」 「~っ、元よりそのつもりですから!」  顔をずいと鰍沢の目の前に突き出す。恋糸よりも図太いと言われた笑顔を浮かべて。   「竹雀くんは、春生まれ?」 「いいえ?おれは夏生まれです。でもどうして?」  化学部は今日も飽きずに実験を繰り返す。薬品の反応が出るまでベランダの手摺りに腕を預け、風に当たっていた。桜が咲く時期までもう少しの寒い季節。 「何となく。桜っぽいイメージだったから」  所々薄汚れた制服を身に纏う小柄な同級生に、小麦色の肌が健やかな生徒が微笑みかける。隣の少年が頬を染める。 「桜っぽい…ですか?桜っぽいですかね…?」  熟れた杏に近い色をした形の良い唇から力が抜けた。ベランダのずっと遠くへ投げられた視線。 「君はそのまま秋のイメージが強いですね、字面のせいでしょうか」 「うん、オレ秋生まれだもん。父さんもだよ」  教科担任でも担任でもないが、この学校には小柄な生徒の父親が在籍している。 「確か父さんの名前が入っていましたよね」 「そう、穂って書いて、父さんは(みのる)って読むんだ」  赤香色の唇がまた緩んだ。 「いいですね、そういうの。一字だけ、でも一字だけ分、想いを託す感じが」  戻りましょうか、と言って、理科実験室に2人は戻った。 →後書き

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