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第1話

 好きな人だった。だが。 「狭山さん!」  大きなくりくりとした目がとにかく煩わしくて仕方ない。さらさらとしたキャラメルを思わせる茶髪を揺らしながら安永が近寄ってきた。ふと出掛けた時、狭山親子と出会ってしまった。 「お、狭山の坊っちゃん!元気してたか!」  息子の声に狭山の存在に気が付いたらしい隣の中年男の朗らかな声。耳が溶けるのではないかと思った。腰がずくりと疼く。40代前半ながらまだ30代後半には見える快活とした雰囲気と愛嬌のある顔立ちが、いっそうぱぁっと華を持つ。 「安永さん。こんにちは。揃ってお出掛けですか?」  狭山祈(さやまいのり)は軽やかに笑みを浮かべて答えた。17だったか18だったか興味がないため覚えてはいないがそれくらいの年頃だったはずの息子を連れた中年男・安永秀政(やすながひでまさ)がおお、と肯定をして破顔する。誰にでも振り撒く愛想が憎かった。そのようなことはおくびにも見せず狭山は行ってらっしゃいませ、と通りがかった親子を見送る。  一昔前の趣きを強く残した商店街は町興しとして利用されている。時代の面影に浪漫を求める者たちがよく訪れては写真を撮ったり、絵を描いたり、散策の動画を撮ったりしている。地域で保護された猫たちはよくそういった者たちを歓迎し、可愛がられている。狭山はこの商店街に1人で暮らしていた。両親はいない。祖父母の実家にそのまま住んでいた。幼い弟を連れて母は消えた。父もどこかで新しい家庭を持っているというのはいつの間にか知っていた。安永親子は狭山の住む商店街に同じく住んでいた。近所というほどでもないが、同じ区画に住居がある。時折玄関前を掃除していると安永親子に出会うことがある。秀政と、その息子の松太(しょうた)。その手に引かれる、松太の腰ほどの背丈の男児・(けん)。権は狭山を見るといつでも怯えた目を向ける。さらさらとした髪が、松太のつるつるの艶やかな明るい髪質と似ていない。秀政の男性的な髪ともまた違った。狭山は松太が煩わしかったし、権はもっと煩わしかった。玄関前の掃き掃除をしながら行き交う近所の人々に挨拶をする。親交の視線を浴びることもあれば好奇の視線を浴びることもあった。狭山が周りからどう見えているのかは知っていた。松太ほど鮮やかな色ではないが色素の薄い髪と艶やかな白い肌。細いが背丈はあり、ある程度の引き締まった筋肉もついている。優男だった。不敵な笑みを浮かべると時折その気の無い女性を愛する者たちからも揶揄とは思えない熱烈さで狭山を誘った。現代的なその風貌と妖艶さを秘めた雰囲気が、健やかで穏やかな人々が好む、時代の面影を強く残したままの商店街に似つかわしくなかった。都心の娯楽に耽った、移り変わりの早い鮮やかで華々しい眠らない街がよく似合う。松太は狭山のそのようなところに惹かれたのかも知れない。秀政の前でも躊躇わず向けられる飾らない、別の意味も別でない意味も含まれた好意を曝け出されると狭山は狼狽した。秀政にその姿がどう映り、秀政の中で開かれていなかった意識の扉に触れてしまうのを気にした。その扉の開いた先にある秀政の答えを知るのも、秀政がそれを自覚してしまうのも、胸がざわつくのだ。  松太は流行りの恋愛曲に酔ってでもいるのだろうか。好きだと自覚したらすぐに伝えなさいというようなエゴを剥き出し、相手の事情も聞き手の事情も考えない歌詞を狭山は嫌悪した。松太の好意を敢えて穿って捉え、ありがとう、と目を眇めて答えれば彼は言葉を失くした。それが恍惚なのか落胆なのかには興味がなかったが、まだ可愛げのある青春染みた甘酸っぱいものであるそれが劣情にまみれるのも時間の問題であり、それがもうすぐであるような気がして狭山は焦る。今のところ秀政は松太が狭山に向けている者を憧れや親密さに属するものだと思っている様子らしいのが救いだ。ただそのたびに秀政の中の狭山の立ち位置を確信する。望んでも得られないものだと分かっていながら狭山は落胆する。そのたびにつきりつきりと針で浅く刺されているような痛みがある。  父がまともに父として機能していなかった狭山には同じ区画に住まう秀政は父親同然だった。理想の父親だった。時折秀政は幼い狭山の様子を見にきてくれた。口には出さないが秀政が狭山の父への軽蔑が含まれていたことを当時何となく、まだ確かな言葉や感情を知らないでも好くは思っていないことは十分察せられた。殴らず、よく笑い、息子や妻を泣かせず、酒にも暴力にも身を委ねず、子の喜びを尊重した。このずれていると認識しているくせ矯正しきれないまま蕾にまでなってしまった秀政への想いがまだ育まれる前から、彼と触れ合うたびに泣きそうになってしまうのだ。この時間が終わっしまうのだ、と思うと尚更。まだ幼い松太が憎かった。家に帰りたがり、父親を独占しようとする松太が憎くて憎くて仕方がなかった。家に帰れば母親がいるくせに。その松太が成長して、今では狭山を半ば独占しようとする。狭山が秀政に近付く隙も与えず。権はその点で松太の幼少期とは雰囲気も顔立ちも似ていなかった。  玄関前の掃除が終わる。会っただけでもうだめだった。目が合っただけで、忍耐力は無に帰す。声を聞いただけで身体の奥が疼く。名前でなくとも狭山を指す呼び方をされるだけで胸が熱くなる。清掃道具はどうにか片付け、だるさを帯びた身体を引き摺る。暑い。こうなってしまったらもう抑えは利かず、白濁した欲望を出さなければならなかった。身体に反して冷たい手がボトムスの中に入っていく。さきほど見たばかりの秀政の顔が脳裏に焼き付く。 「秀政さん…っ」  ずんぐりした身体を想像する。抱き心地が良さそうだ。中年太りで脂肪がたくさんのっているだろう。おそらくだらしなく膨れた腹と胸、それから臍の下は毛で覆われているだろう。その脂肪をこの手で撫で回したい。感度の悪そうな胸の頂を可愛がりたい。ずくずくと下半身が甘く痺れ、熱が集まっていく。  まだ中学生になったばかりの頃、狭山はよく体調を崩した。秀政とその嫁が面倒を看てくれた日があった。祖父母は町内会の旅行だか何だかに行っていて、母は新しい男のもとへ行ったきりなかなか帰ってこず、年の離れた弟では看病など出来るはずもなかった。秀政の頬や首に触れる他意のない、根っからの心配からくる慈愛に満ちた感覚に狭山は安らいで、穏やかになった。その気持ちが少しずつ育ってしまって、己だけの手では摘み取りきれないところまで来てしまっている。己の手では物理的に迫り寄ってくる妄想の官能の波、向けられる視線と声に誘き寄せられた興奮をその都度慰めることくらいしか出来ない。知らない。  肉幹に指を絡めて、控えめに動かす。性的な魅力はないはずの愛嬌のある顔、恰幅がいいせいで背が低く見えるがそれなりの背丈はある頼もしい父親。その姿を汚しそうで躊躇いがあったのは随分と前のことで、拭い去れない時期は長かった。大きな胸、括れた腰、白い肢体、ある程度の脂肪はあるくせ痩せた大きな目の小顔の女ではもう物足りないのだ。ただ性的対象の範囲内ではあって、実際にその対象にはならなかった。胸はあるだろうしその中身も同じく脂肪で、想像の中では手入れされていない毛が生い茂っているだろう。腹は出ていてここもおそらく毛が生い茂り、胸よりも出ているはずだ。大きな目は相変わらずで、髭が生えているせいだけでなく本当に顔は小顔で、俗にいうイケメンやハンサム、男前や美形とも違うが醜いともまた違う。不快感もないのは狭山の贔屓か、やはり澄んだ大きな目を中心とした愛嬌のある表情のせいか。明るいのだ。明るく楽しく健やかだ。多少の生活習慣病を懸念させる体格ではあるが。 「秀政さ…、」  根元から少しずつ焦らすのが好きだった。固さが安定してきている。一番感じやすい場所にはまだ手を付けない。 「…ッ」  抱きたい。想像の中では濃い草叢に覆われた、一輪の薔薇の雌蕊を暴きたい。  初めて会った時から、まだ人には言えないような趣味を抱いてしまうとは思わなかった。 命の恩人、実の両親から愛されなかった自身に情けをかけてくれた人、ただそれだけだった。母の実家に住まう父は家主の祖父母にも横柄で、その日は酒を飲みさらには不機嫌で祖父母は早々にどこかへ避難し母はパチンコに行っていた。弟は小学校の帰りにそのまま友人の家に行っていたらしく狭山だけが帰宅していた。雨の日だった。殴られ蹴られ首の後ろを掴み玄関から放り出され鍵を閉められた光景をよく覚えている。玄関の軒先で雨宿りをして、家族を待っていたのに誰も帰ってはこなかった。商店街に行き交う人々の視線に晒されながら雨音が止まない中でずっと待っていても祖父母も母も弟も帰っては来なかった。玄関の軒先から落ちる雨がアスファルトを濡らして、乾いた色が沈没していく。 「…ッ、あ」  孤独というものを初めて知った時だった。粘土の高いその泥沼から掬い上げたのは誰でもなく秀政だった。 『狭山のボウズ、どうした?鍵でも失くしたか?』  大きな目がさらに大きく見開かれて、その後にかりと笑った。愛くるしいクマのキャラクターに似ていた。冷たい雨の中温かさを知ったのだ。秀政に教わってしまった。 『そうか、そうかぁ。大変だったな。どうだ、うち来るか?』  訳を話すと秀政はどうやらコンビニエンスストアで買ったらしいビニール傘に狭山を入れたのだった。温かく分厚い身体に肉厚の手が狭山を引き寄せた時、何故自分はこの人を父に持てなかったのだろうと思った。だが今なら分かる。この人を愛するためなのだと。  裏筋を指の腹が撫でる。手が止まらない。秀政の様々な姿が脳裏でスライドショーされ、段々と早く画面が切り替わっていく。その速さは手の動きと比例していた。 「狭山さーん」  手が止まる。熱い体からどっと汗が浮かび上がった。松太の声だ。深く細い溜息を吐いて狭山は手を洗ってから玄関に向かう。 「狭山さん!やっぱりいた!よかったぁ!」  早く用件を言えと思ったが顔にも声にも出さず狭山は微笑みを浮かべたまま、軽く挨拶した。きらきらとした目が狭山だけを映している。手を引いている権が狭山に怯えていることにも気付いていない。今にもここから去りたいとばかりに権は狭山を嫌がっている。 「どうかしたのかい?」  早く用件を済ませろ、と内心に留めて狭山を無遠慮に見つめる松太に話を促す。 「これ!お父さんが狭山さんにって!」  仔犬を思わせる満面の笑み。秀政の面影を感じる。この笑顔には狭山も弱かった。口にはしていない言葉に罪悪感が芽生えてしまう。それを何度も何度も学ぶことなく松太と話すたびに繰り返すのだ。 「ありがとう」  松太が重量感のあるビニール袋を渡す。屋台などで焼きそばやたこ焼きが入っているような薄いプラスチックの容器が2つ入っている。 「お父さん、再婚するっぽくてさ!その相手の人のお土産なんだけど…うちじゃ食べきれないから。味は保証する!」  松太は何か長く喋っていた気がするが、一言めで狭山の情報はシャットアウトされた。他に必要な情報なら勝手に耳と脳が結託して拾っていただろう。だがどれも一言めには匹敵するほどのものではない。狭山は固まった。権が、もう帰る、と愚図っていることにも大した関心が向かないほど。 「再…婚…」 「そうそう。結構綺麗な人なんだけどね~。あ、でも…、」  狭山さんのほうが綺麗だよ、などと続くであろう言葉を松太は賢明にも飲み込んだらしい。 「そう…なんだ。おめでとうございます、と…いいえ、やはりこういったことは自分で」  狭山は珍しく口籠もった。狭山自身何を言っているのか分からなかった。最近テレビのコマーシャルでやたらと目にする自動車の自動運転。それを思わせる。口が勝手に無難な言葉を選ぶ。耳が拾って撤回する。松太は不思議そうに狭山を見ている。だがその中には爛々とした無自覚な欲が浮かんでいる。 「よかったね、権くん」  残酷な言葉を吐いたものだ。分かっていながら意識を権に向けて誤魔化すことしか出来なかった。いかに残酷な言葉かをきっと松太のめでたい頭が知ることはおそらくない。あったとしても近いうちではないだろう。権は松太の手をこれでもかというほど引っ張ったが松太は気にする様子もない。 「帰る、松太にいちゃん、もう帰る…!」 「権!」 「ちょっと怖い印象あるかな、うちは。権くん、ごめんね。また今度ゆっくり話そうか」  権と出来るだけ目線を近くするため屈む。それから松太の顔を覗き込んだ。松太の顔が一瞬固まって、それからぶわっと赤く染まった。狭山の家の造りは古く、どこか荘厳な雰囲気さえあるが子どもには分からないのだろう。そして何より和製ホラー映画でよくある家に似ていなくもない。 「もうお父さんと明美さん…あ、新しくお母さんになる人ね!ラッブラブでさ、居場所ないんだよね~?オレたち」  権に向いて同調を促す。聞きたくないことだった。だが松太はそれを知る由もない。知られても困るのだ。 「それならここに遊びに来たらいいよ。権くんも」  狭山は祖父母の持つアパート経営と週3のバーの夜勤アルバイトで生計を立てていた。心にもないが社交辞令としてそう言っておいた。松太から秀政について聞き出すのも悪くはない。とはいえ権がここへ来たがるとは到底思えなかったが。 「ホント?よかった!じゃあ今日は権がこんなだから…」  松太は困った様子で権を一瞥して適当な挨拶をして帰っていく。狭山は微笑んで手を振った。内心は笑ってなどいられる状況ではない。松太の衝撃的な、だが可能性として無くは無かったくせ思考の彼方に置いてきたことに身体の熱は収まってしまっていた。ただそこには解放感の望めなそうな解放を待つ器官が鎮座している。気分は晴れないが狭山はトイレへ向かって恋慕の糧にも何にもならなかった下心の残滓を真っ白い陶器に放った。  松太は狭山が思っていたより早く狭山の家を訪れた。 「どうしたんだい?」  雨の中放置された仔犬を彷彿させる松太の姿。雨は振っていない。どんよりした松太の表情。権は連れていない。 「オレ…オレ、もしかしたらここ離れるかも知れなくなって…」 「上がって、松太くん」  迂闊だと思った。松太の腕に引き寄せられる。ふわりと秀政と同じ匂いがした。秀政よりもわずかに甘ったるい気がする。背筋が強張ったがここで突き放すのは得策ではないような気がして狭山はされるがまま腕の中にいた。松太のほうが背が高いと思っていたが、あまり変わりがない。狭山のほうが高いような気さえした。だが松太の筋肉質な腕と胸、肩を身体で感じた。 「オレ…狭山さんと離れたくない…」 「権くんも?」  松太が首を振った。早く話せ、と思いながら狭山は松太に合わせてわずかに眉を下げる。 「お父さん、再婚するから…悪いなって思って…お父さんは絶対出て行けなんて言わないから…」  聞きたくない話で、嫌な単語だ。だが顔には出さない。たとえ松太に抱き竦められて顔が見えなくても。 「自分から譲歩したのかい?」  自分で蒔いた種か、と呆れながらも狭山は落ち着いた声で訊ねる。 「お父さんが再婚する気になって、嬉しいんだ。あんなことがあって…権はまだ小さいから家に残すしかないけど…」  秀政の前の妻は交通事故で亡くなった。綺麗な女だった。「美女と野獣」とからかいの声も聞いたことがある。狭山からしてみれば秀政は外見的に美しくもなければ女でもないため美女ではないが美獣くらいには思えた。外見的に秀でた部分は愛嬌のある表情くらいであったがそれでも獣というにはあまりにも愛らしい。狭山は目に入れても痛くないと思った。彼を入れて光を失うのならそれこそ本望なのだと。老衰や病でなく、彼で。すでに秀政という存在が狭山にとって、美女や或いは美男子などへの光を失わせてしまった。むしろ野獣的な部分を持っているとするなら秀政に愛された前妻だ。なによりも彼に外観的な美しさがないのは狭山にも痛いほど分かっている。美的感覚はまともなのだと。だからおそらくはこの恋慕は美しものへ必ずしも向くわけではないのだと狭山は知った。初めて好きになったままずるずると美しいと思うものに気が向くことなく、ずるずるずるずると。 「そうだったんだ。松太くんは父親想いのいい子だね」  全くだ。心にもないが強ち嘘でもない。秀政を狙う男を遠ざけ、無知ながらに牽制するほどなのだから。  狭山の背に回った掌に力がこもり、指が背を柔らかく掻く。 「狭山さん、キスしていい?」  本当に迂闊だと思った。是非に惑った時間はおそらく大した長さではないが、返事には十分すぎるほど間を空けてしまう。 「ごめん、狭山さん」  それが変なことを訊いてごめん、であるのなら「びっくりしたよ」だとか「寂しくなっちゃったんだね」だとかいくらでも瞬時に思い浮かべられただろう。まさか強行することへの謝罪とは思わなかった。 「っん、」  柔らかい。下唇から掬われるように塞がれ、不意に声が漏れた。唇を本当に食べ進めていくかのように何度も柔らかく食まれる。 「はっ、ぁ…」  松太の息が頬を掠める。狭山の唇を押し開けて松太の舌が入り込む。くらくらとした。技術はないが激しく求めてくる舌。若さに任せた勢い。背に回る手。いつまでも子どもだと思っていた。無視していた松太の気持ちは狭山が思っていたものよりずっと早く希求にまみれていた。だが松太はすでに思春期は過ぎていてまだ肉体的な成長の余地は残してはいるが、男としてはすでに形成されていたことを狭山は忘れていた。隣にいる秀政に夢中で。面影の中の秀政に夢中で。力強く後頭部を押さえ込む力も、狭山の胸に重なる筋肉ののった胸板も。玄関の壁に押し付けられて逃げらない。後頭部が痛くないのは松太の掌を壁との間に隔てているからだ。湿った音がする。小さな頃から見慣れた玄関が知らないところのようだった。 「ん、あ…狭山さんっ」  蕩けた顔で松太は唇を放した。惜しむような唾液の糸が狭山の口の端に滴った。浅い息をしてとろんとした秀政譲りの双眸が狭山を捕らえている。秀政もこういう顔をするのだろうかと狭山も松太から目が放せないでいた。口元を拭うのも忘れてしまった。接触の良すぎる豆電球が点灯する思い切りの良さで狭山は松太の二の腕を掴んだ。 「狭山さん…!」  居間に連れ込む。 「じゃあ、ここにいたらいいよ」  松太の顔が不安でいっぱいになっている。無言のまま、まるで抓るように掴んだ松太の腕を放して、狭山は声音を装うことなくそう言った。 「…え?」 「もっと喜んでくれるかと思ったんだけどな」  狭山は冷たい顔をしていた。いや、これが装わない自然体だった。 「さ、狭山さん…なんか怖い…」 「いやだな、無理矢理キスした相手にそんなこと言うの?」 「ご、ごめん…やっぱ怒ってる…?」 「安永さんを繋ぎとめておかなかったことには怒ってるかな」  松太の表情は強張っている。秀政によく似た目が泳ぐ。でも他はあの女譲りだ。どういう意味だか分からないという戸惑い。それはどこかで考えてはいけないパズルが解けかけていることへの拒否というよりは本当に意味が分からない、察せないという様子だった。無理もない。自身の実父が想い人の頭の中でめちゃくちゃに犯されているなどと、余程の想像力があっても口にするのも憚られる。考えるのもだ。狭山は自身の父を思い浮かべた段階で吐き気を催す。 「もしかして明美さんのこッ」  松太の胸を強く押してしまった。松太は狭山相手に油断していたのか、簡単に尻餅をついた。だんっ、と大きな音がして床が小さく揺れた。 「おれが知るわけないよね、君の新しいお母さんのことなんて」  男に恋している自分を差し置いて、"普通ならそうであろう"ことを言う松太が狭山は勝手だと分かっていながらも許せなかった。 「じゃあなんで…、さ、やまさ…っ」  松太が情けない声を上げる。何故か固くなっている松太の脚の間のテントに足を添えた。思い当たる節といえばさっきの深い接吻しかない。 「あ…、いやだ…あぁ…!」  土踏まずで捕らえたその柔らかくも芯のある見知った布の蛹。ゆるく足で撫で付ける。松太は高い声を上げて狭山の足を見つめている。逃げようと思えば逃げられる。だがそれをしない。逃げる、逃げられるという選択が松太の中に無いように思えた。 「本当に怖がっていたのかな?ここ固くして?それともおれのこと狙ってた?それこそ怖いなぁ」  肩を竦めておどける。その間も足の動きは止めない。松太の内股がぴくぴくと震えている。小さく嬌声を上げながら、だらしなく口からは唾液が漏れている。秀政に少しだけ似ていなければ、このようなことは出来ない。嫌悪感に背筋が凍ってしまうだろう。ただ面影と、その皮膚の下に流れているのが秀政の血の半分であるから。 「あァ、狭山さっ、だめっ、やだぁ…!」  松太の穿いていたボトムスの、狭山の足の下の部分は色を変えている。息の上がった松太の目元を狭山は見つめていた。 「あんなキスした相手にやられてるんだよ?もっとまともなこと言えないのかな?」  挑発する。聞いていないようだった。止めてしまおうかと思った。だが興味がある。秀政によく似た目元がどう快感に打ち震えるのか。子であり本人ではないのは百も承知で、だが秀政に似た目元が、気になって仕方ない。 「んぁあ、やだ、やめっ…ふぁ、あ!」 「1人でスる時もそんな声出すの?かわいいな…」 「ちが、ちがぁ、あん、いや、やらっ、ふぁ、ああ、ああ…ッ」  ボトムスに邪魔されて多少の痛みがあるのだろう。だがそれすらも快感に変わってしまっているらしい。自立せず腹に寝たままのそれをわずかに踏むように刺激する。 「も、だめ、やめっ、ああ、狭山さ、狭山さぁ、んん、ああ…待っ」 「違うよね?イイ、でしょ?キモチイイ、だよね?どうしたい?」  あっあっ、と喘ぐ松太を見下ろす。秀政に似た目元を睫毛が伏せっていく。秀政は睫毛が短かったが松太は長いようだ。 「イイっ、気持ちいい、っ出したい…出したいッ、狭山さ、ぁん、」 「おれに見られながら出したい?自分で出す?」  言語を理解しているのか、松太は頷いたり頭を振ったりしている。このままでいいか、と狭山の中で決めてそのまま足の動きを速くした。 「見て、祈さ、イくとこ見てッ、祈さァああああ…ッ!」  小刻みに松太の身体が震えている。足の裏に微かな脈動を感じ、生温さが広がった。眉根に寄った皺が色っぽい。秀政に似た目が潤んでいる。だがやはり狭山の中の秀政の像とは重ならなかった。それは妄想と現実というものよりかは、秀政と松太が親子でも別個体であるという違和感だ。はぁはぁと息を整えながら松太はそのまま居間の半端な場所で後ろに倒れていく。名前を呼ばれながら果てられるとは思わず、ばつの悪い粘着質な甘みが胸に絡み付いた気分だ。  松太を見下ろしていると目が合ってしまい、狭山は松太の視界から出ていった。怒るだろうか。明るいが温和な優しい性格の松太が怒っているところは権に対してと幼少期以外は見たことがない。そういったところも秀政の教育の賜物なのだろうか。  浄水器を通した水を松太の近くにあるテーブルに置く。松太は起き上がったが何も言わない。だが立ち去ろうともしない。下着もボトムスも汚して気持ち悪いのだろうか。狭山の家から安永家は大した距離はないとはいえ人目はある。ある意味で観光スポットのような商店街だ。 「ごめんなさい、そんな怒るとは、思わなくて…」  しゅんとして松太は謝った。 「別に、もう怒ってないよ」  むしろ怒るのは松太だろう。狭山は髪を掻き乱す。調子が狂う。まさか家でもあのような声を出しているのでは、名を好き勝手呼んで脳内で弄んでいるのでは、それは松太の勝手ではあるが、秀政に聞こえていたらどうするのか。先程は狭山にはしたなく情けない声で絶頂を見てほしいと変態的な懇願したが、大体は誰にも聞かせず誰にも見せない行為だろう。男同士の猥談の発展にあるかないか。狭山の経験ではなかった。本気ともとれたが冗談としての扱いで、狭山を脳内で"使った"と言われたことはあったけれど。 「本当に、ごめんなさい。狭山さんのことは考えると、簡単に…トんじゃって…」  言わなくていいことだ。狭山は秀麗な顔を歪める。だが松太は狭山の顔を見られないらしく俯きがちに床を見つめている。秀政に対して自身がいかに浅はかで気色の悪いことをして、思っているのかその息子の松太を通して見せつけられるとは思わなかった。 「本当だよ。足、汚れちゃった」  恥ずかしそうに松太はちらりと狭山の足を見る。恥ずかしそうな姿は悪くない。 「ごめん…なさい…、なんでもするから…嫌いにならないで…」  こいつは可愛い犬なんかじゃない。狭山は思った。哀れで愚かで浅はかな男だ。秀政の息子のこのような姿は見たくなかった。 「なんでもする?本当に?甘いなぁ。変な人に騙されないでよ?安永さんが可哀想だ」  居間のソファに狭山は座った。テーブルを挟んで、松太の不安に満ち満ちた視線が狭山を絡める。だがどこか甘ったるい。マシュマロをナッツが混入したチョコで包み込んだ後にハチミツと層にしたお菓子、それによく似た執拗な甘ったるさ。 「嫌いにならないで、狭山さんのこと、オレ…」 「やめてくれないかな。おれたちはこの商店街で数少ない若者で、仲良いご近所さん同士。それでいいだろう?これからも。この関係、壊したいの?それも悪くないかな?」  狭山の代わりに威嚇しているのかソファが軋む。 「そんな…」 「おれは君の気持ちを忖度して、出来るだけ応えた。それがあれだ。だから答えは分かるよね?」  松太は泣きそうだった。秀政に似たその瞳はどう泣くのだろう。 「…ッ」 「どうだい。失恋するって、どんな気持ち?おれにも教えてよ。君の気持ちは分かっていた。まさか発情されるとは思ってなかったけど」  松太の顔が逸らされる。愉快な半分、根を張るような不快な痛みが胸を走る。 「諦められない…、それでも狭山さんのことがっ…」 「松太くん」  落ちた視線がまた狭山を向く。おいで、と優しく、松太がよく知り松太が好きな狭山祈の声で呼ぶ。ふわりとした潤んだ目が操り人形となって狭山の元に来る。隣に座らず足元に座った。本当は人間を装った情けない犬なのではないかと疑ってしまう。 「なんでもするの?」  優しく問えば松太はこくこくと頷く。 「じゃあ君が汚したとこ、舐めて綺麗にしてくれる?」  松太は内容を理解しているのか、軽々しく頷いて、脚を組んでいたため鼻の先にある足へ松太は舌を伸ばした。

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