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第2話

 おずおずと伸ばされた松太の舌が狭山の白く肌理(きめ)細かい足に触れる。足の甲、指、足の裏。本物の犬のように思え狭山は髪を撫でた。さらりとしている。触れた瞬間に松太が鼻にかかった声を上げる。 「狭山さん…」  足を舐めているだけだ。だが松太の顔は上気している。熱い息が爪先に当たる。 足の甲を再び舐め、足首まで身体を前屈みにして舐め上げる。脹脛で狭山のボトムスの裾は留まる。これ以上捲れないことが分かると駄犬は身を起こして、狭山のボトムスに手を掛ける。狭山が無言で制止したが松太も無言で首を振る。そのため狭山が引けば、松太は狭山のボトムスを下ろす。  喉が乾いた犬の給水だ。その対象が自分の性器というのが複雑で狭山は目を逸らす。実を結んだ秀政の子種が今目の前で跪き自身の片割れを頬張っている。性器に絡み付いた唾液には秀政から受け継いだ遺伝子にまみれている。だがその半分は。  ずぞぞぞ、と下品な音とともに先端を吸われ狭山は息を吐く。がむしゃらな舌遣いで上手いとはいえなかったが物理的な刺激で狭山のものは猛りを見せている。ソファの背凭れに身体を預けて、懸命に舐め上げ、吸い、絡める。全てが狭山に好きだと訴えている。 「そんなんじゃ、イけないよ?」  狭山が思っているよりもずっと甘く浮ついた声が出た。すると松太は唇を窄めて口内に押し込んだ。見ているだけでも苦しそうで、秀政を脳内から引き摺り出す双眸に水の膜が張っている。両頬が窄んだ姿は間が抜けていたが、必死に頬肉を肉幹に擦り合わせる姿は感動を覚える。 「っふ、んっく、ぅっ」  松太の声が漏れる。小さい頃から見てきた歳下の男が知らない間に性を知り、それを目の前で晒している。 「出すよ。飲む?」  松太は頷く。上顎の奥に先端が当たる。ぐぷ、とわずかな空気を飲み込んだ音がすした。口に入りきらない根本を松太は気を利かせて指で擦った。狭山は前のめりになって、松太の後頭部を抱き込んだ。 「っ、」 「ふ、っんん、っぅぐ、くっ…!」  抵抗も見せず松太の口内に白濁を撒き散らす。松太が苦しさに喘いで、喉が動いた。 「っ…、狭山さん…」 「松太くん」  見つめ合ってキスされそうになったのを偶然を装って躱す。 「オレのこと、嫌いにならないでくれる…?」  白濁が微量、口の端から溢れているのを手の甲で拭って松太は狭山を見上げる。 「松太くん、それ、抜くとこおれに見せてくれる?」  若さか一度出しておきながらまた勢いを持っている膨らみを目線で指す。 「え…、」 「見ててあげるよ、情けなくイっちゃうところ。臭いザーメン噴き出すところ」  信じられない、と松太はゆっくり首を振る。あれだけはしたない姿を見せておいて今更何を嫌がっているのだろう。狭山は松太の前に屈む。無意識か松太は身を引いてしまう。 「そっか、松太くんの言うなんでもするってそんなもんなんだ。残念だな、おれってそんな好かれてないのかな」  狭山は優しい声音を使って松太を突き放す。立ち上がって背を向ける。放置しておけば勝手に帰るだろう。さすがに秀政に話したりはしないはずだ。 「やる…やるから、狭山さん…」  狭山は冷たく振り返る。中が先程放った粘液で汚れたボトムスを下ろす。外気に露わになった松太の肌。薄い毛の下で控えめに主張する秀政の息子の半身。面白い考えが浮かんでしまい狭山の口には冷笑が浮かんだ。 「やっぱ立って。おいで」  ボトムスを履き直そうとするのを構わず狭山は松太を無理矢理立たせ、風呂場へ連れて行く。脱衣もさせず松太にシャワーヘッドを向けた。服を着たままの2人を温かいシャワーが容赦なく濡らす。上部に設置された金属にシャワーヘッドを留める。タイルを叩く音、耳や肌を叩く音、シャワーの噴出口を擦る音、排水口に流れる音。一番大きいのは心臓の音だ。 「な、何する、の…?」  松太に剃刀を見せると蒼褪めて震える。寒いのかい?と揶揄った。松太の泣きそうに歪む顔が胸の内側をどんどんと叩く不明な感情を助長する。 「やだ…やだ…ぁ、」  シェービングクリームを松太の小規模な草叢に塗り込める。派手な茶髪は地毛だったらしく、その髪色のワントーン暗い色の毛を焦らしながら剃る。ぴくん、ぴくん、と意思を持ったように跳ねる股に棲む小犬。 「はぁ、ぁあ、いやぁ…、いやあ」  とうとう松太は泣き出した。子どものようだった。権でもこのようには泣かない。その顔で、その声で秀政の気を引いたのか。父を恐れ母を頼れず祖父母に遠慮して声を殺さなければならず1人泣いたことがこの男にはあるのだろうか。秀政の前妻、松太の実母が亡くなった時も秀政は泣き崩れる松太の肩を抱いて、自分は泣くのを堪えていた。それがやるせなかった。自分なら、秀政を泣かせ、喪に服してやれたのだ!。狭山は松太の皮膚を傷付けないように注意した。不意にではなく、故意に。 「ぃやだ、狭山さん!狭山さん!」 「暴れないでくれないかな。輪切りになっちゃうよ?」  毛と泡の絡んだ剃刀を松太の目の前に翳した。シャワーで濡れた顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。黙った松太がやはり気に入らず、縮こまった性器を乱暴に扱く。まだ剃りきれていない。 「狭山さん、狭山さぁっ、はぁン」  松太のそれの先端を指の腹で抉る。半端に残った草叢を刈り取っていく。シャワーとは違うぬるついた液体が先端の小さな窪みに浮いている。そこをシャワーの湯を使って洗うと大袈裟に腰が跳ねた。 「松太くんてドMなの?普通こんなことされたら怒るよ?」  いつの間にか狭山の気付かないうちに松太はシャツを捲り上げていた。狭山が剃りやすいように。胸まで見えている。 「だって狭山さんのこと、ああンっ」  聞きたくない。肉幹を強く握る。痛いはずのそれも、松太は快感として受け取ったらしい。 「ほら、剃れたから自分で擦って」  松太の皮膚に纏わりつくウェーブした毛をシャワーで流す。換毛期の犬のようだ。艶のある毛だ。秀政の下生えはどのような質なのだろう。量は。規模は。想像ではきっと剛毛だ。量も多く広く生え渡っているだろう。陰毛が弧を描くのは匂いを閉じ込めるからだと聞いたことがあったが、出来ることなら肺いっぱい秀政の体臭を吸い込みたい。親父の生臭さ、人間的な臭さ、秀政の香り。余すことなく秀政を。 「やだ…も、許して…」 「許してるよ?嫌ならやらなければいい。じゃあね。タオルと着替え、おれのだけど置いておくから」  松太の抵抗をあっさりと受け容れて狭山は松太から身を放す。 「待って、狭山さん、待って、やる…やるから、ここに…いて…」  松太が狭山の腕を掴む。抵抗すればいいのだ。腕力でなら敵わないのだから。男同士ならある程度の相手の力量など見て分かる。  狭山は松太の前に屈む。膝に肘を乗せ頬杖をつきながら。 「ん…っ」  おそるおそる手が動く。あまりにもゆっくりだ。肉幹の上で亀が競争でもしているのか。亀の頭はすでに頂上にいるというのに。もどかしすぎはしないだろうか。緊張かそれとも狭山の気分が変わるのを待っているのか。他人の自慰のやり方などどうでもよいことのはずであったが苛々として狭山は松太の手の上に己の手を重ねる。何か時間的に追い込まれているわけではない。 「あ、っそんな、やだっ、狭山っさ、激しっ」 「別にフツーだよ。随分生温いオナニーだね」  狭山の口から出された単語に松太の目が快感の中でも見開いていた。落胆でもしたのだろうか。幻滅されて付き纏ってこなくなるのもまた狭山の中では是だった。 「や、ん、狭山さんにされたら、そんな、ああ…っ」  よく喋るやつだな、と思った。狭山が手を離しても松太は狭山のリズムのまま手を上下に動かす。近所のおばさん曰くかわいい顔には似合わない大きさの犬が腹の下、両脚の間に姿を現わす。だが狭山のリズムで動く手に全貌は捕らえきれない。ぐちゃぐちゃと音を立てて、シャワー室であるのにシャワーの音よりも大きい。限界が近いようだった。 「またイっちゃ…、っ」 「だぁめ」  茎を擦る手を掴む。惜しむ声が漏れた。 「おねだりして」  松太はハリのあり柔らかかった唇を小さく噛んだ。 「イかせて…イかせてください…」  松太の掠れた甘い声。どうしようかな、と目を眇めて見つめ合っていると、眉根を下げて松太が睫毛を伏せる。 「狭山さん、に見られたら、も、イく、」  我慢出来ない、と零されると狭山の双眸を淫靡な目が穿って、触ってもいなかった陰茎が大きく波打ち、小さな果実は爆ぜた。 「松太くん、正気?」 「ごめっ、ごめっなさ…っふぅッ」  羞恥からかまた泣き出す松太にうんざりしながら狭山は松太の頭を撫でた。拾ってきた犬が突然人間になってしまった、そのような認識で。服も腹も精液で汚れている。シャワーの死角にいたせいだ。 「お風呂沸かすから落ち着いて入るんだよ?」  松太が乱雑に目元を拭うのをやめさせて、両腕を持って、下から言い聞かせる。相手は歳下とは幼子ではない。だが子どもにそうするように。 「返事は?松太くん、いくつになったの?」 「20歳ッ…」  はたから見たらあまりにも恥ずかしいやり取りだ。そして松太が成人していることにも半ば驚く。 「じゃあ出来るよね?」  10歳になったばかりではない。その2倍だ。本当に狭山は松太が人間になった犬だとでも思っているのか。松太はこくこくと頷く。健気で大きな幼児だ。  狭山はシャワー室から出て、着替えとタオルを用意した。狭山さんの匂いがするなどと盛(さか)られるのも癪で真新しいスウェットの上下を出す。  これからどうしようか、と居間のソファに身を預けて考える。この街から出て行こうか。だがその前に成さなければならないことがある。あまり現実的でない方法で金は余るほどある。運も良かった。才もあった。それでもここに留まる理由。生まれ育ったこの商店街と実家を捨てられない、そのような殊勝なものではない。秀政だ。だがその秀政も再婚するという。ここでひっそりと社会と交流を持つだけのアルバイトをしながら新しい安永家を見て生きていくのか、それとも新しい土地へ松太も連れて出て行こうか。祖父母はおそらく施設から出られないだろう。来年まで生きていられるかも怪しい。身体を壊した父から経済的援助と介護を求められたが応えるつもりはない。狭山の知っている父そのまま新しい家庭を持ったのだろう。妻にも子にも見放されているようだった。不思議と情は湧かない。狭山の中の父親は秀政か、若しくは祖父なのだから。父親に抱くには苦々しく甘美な感情を伴ってしまってはいるけれど。 「狭山さん、お風呂、ありがとう…」  スウェット姿の松太は幼く見えた。20歳らしいが狭山はずっと17とか18くらいかと思っていた。高校には行っていないものなのだと思っていた。 「サイズが合ってよかった」  松太の前に立って狭山は松太の頬に触れる。松太は目を瞑って、すっと顎を引いた。顔が赤い。 「狭山、さん…」  松太はただか細く狭山を呼ぶ。 「泊まっていくかい?ひどい顔してる」  自分がそうさせておいて狭山は秀政の息子の赤く腫れた目元を優しく撫でる。肌に吸い付く滑らかな肌だ。 撫でている指の背が気持ち良いくらいだ。 「でも、」 「何か不安なのかい?」  松太は首を振る。犬としてならば、非常に愛らしい。素直に甘えないくせ素直に応えるところが。しかしそこに秀政へ抱く煌めいた感覚はない。体格も顔も声も似ていない。目元と、背丈と香りが近いくらいだ。 「狭山さん…」  松太に用はない。だが秀政との(かすがい)になり得る。権ではいけない。 「ッンふ、」  それならキスのひとつやふたつは安いものだ。背伸びは必要なかった。松太の唇を奪う。松太が狭山の胸元を軟く掴む。触れるだけのキスのつもりだった。だが狭山の口の中の餌を欲しがるかのように松太は飢えをみせる。 「狭山さん、狭山さん、」  冷たくなった透明な糸は容赦なく切られる。温和な目の奥で獰猛さを窺わせはじめた松太に狭山は拒否の声を上げようとしたが間に合わず壁に強く打ち付けられた。くそがき、と内心毒づく。若すぎはしないか。下世話な会話を躊躇いなく話した友人らの中でも最高は1日4回だった。狭山も1日1回あるかないかで1週間で3回あれば多いと思っていた。秀政に会えば回数は圧倒的に増えるけれど。脚に当てられた昂りに狭山は身を竦める。 「狭山さんとのキス、きもちいい…」  躾を間違えたかも知れない。 「狭山さんのこと、見ると、痛いんだ…」  擦り付けられる。着替えたばかりだろう。何を考えているのか。上擦ったつらそうな声で迫られる。 「いい…?」  どちらだろう。狭山はゲイではない。同性愛者ではない。秀政が例外なだけだ。同性愛者の知り合いもない。知識も文化も習慣も歴史も知らない。狭山は秀政を抱きたい。だが松太はどちらだろう。抱きたいのか、抱かれたいのか。秀政が手に入るのなら抱かれることも視野には入っているが、松太に抱かれるというのは、背筋が凍る。キスも口淫も受け入れられるのは、あくまで松太が秀政の息子だからだ。妥協だ。だがセックスとなれば、出来そうにない。腹の奥から上がってくる渦を巻く渋みは拒否感以外になかった。 「松太くん、」 「じゃ、あ、ヌくだけ…、ヌくだけ…」  首筋に顔を埋められる。すん、と嗅がれる音。背筋がぞわぞわとした。総毛立つ。脚に力が入らない。松太のスウェットの下が下げられる。視線を下げればそこには変態的光景がある。穏やかで優しい性格を知らなければ、異性愛者どころか女と遊びまくって泣かせている雰囲気を醸し出している。偏見に過ぎなかったらしい。実際は華奢で色白な美男子とはいえ自身と同じくらいの背丈の歳上の近所の青年を前に(サカ)り、小さくはない駄犬を昂ぶらせている。 「狭山さん、いい…ッ、」  括れを撫で、狭山が教えたリズムで手が動く。妙な妄想に使われている。眇められた目と少し歪められた眉間が狭山を放さない。 「いい…っ、狭山さんっ、きもちぃ、い…!」  秀政と同じ屋根の下でこのようなことを言いながら致しているのだろうか。権の狭山嫌いが加速しそうだ。松太の上半身に阻まれ身動きはとれない。 「狭山さん、おねが…っ、擦って…」  嫌だ。本音は。だが泣きそうな目が、舌ったらずな喋り方が、歯が溶けそうな声が拒否の言葉の前に腕を動かす。止まった手を照れ隠しのように手をぶつけて冷たく払い、脈を打ち筋を張らせた筒を握る。狭山は猫派だ。商店街をうろうろしている猫を愛でるのが好きだ。だが目の前にいる捨て犬ではないはずだが捨て犬を気取る犬に屈した。狭山の望むものを持った捨て犬気取りの飼い犬に。あからさまに顔を顰めて狭山は手を動かす。はっ、はっ、と本当に犬になったのかと疑う息を上げて松太は自ら腰を揺らして狭山の手に擦り付ける。何が悲しくて男の性器を扱いているのか。秀政が再婚することか。それしかない。 「さ、やまさっ!は…あぁっ」  溢れる音が微かに聞こえる。指に当たる、意外にも温度のない体液。大きく下がる声。喉仏が沈み、浮き、沈み、浮く。射精後の気怠さに松太の身体がぐらりと傾く。狭山は松太を支えた。ごめんなさい、と弱く謝まられた。拾った犬の面倒は最後まで見なければならない。 「ソファ、座ってて。寝ててもいいけど」  松太を支えながらソファまで運ぶ。松太は3回の射精に疲れたのかソファに座ってからそのまま上半身を倒した。狭山は粘ついた白濁のついた手を居間に直接している台所で洗おうとしてやめた。洗面台に向かって洗う。居間に戻って、テレビを点けた。沈黙は松太が妙なことを言い出す隙を与えそうだった。  寝ちゃっていいよ。秀政さんにはおれから言っておくから」  ソファに座る。松太の頭側ではなく腰側に腰を下ろした。秀政に会う口実が増える。松太は言語かどうか怪しいことをふにゃふにゃと言って、そのうち寝息が聞こえはじめた。ソファの背凭れに畳んで掛けておいてあるブランケットを広げて大きな犬に重ねた。 「祈さん、好き…」  眠気に負けて、何を言っても赦されるとでも思っているのか。狭山は聞かなかったふりをして安永家に向かう。 「お、狭山の坊ちゃん!」  松太を預かると連絡するのが1割、再婚相手の顔を拝みにいくのが2割、秀政の顔を見、声を聞くのが7割。電話よりも安永家へ来てしまった。 「うちのが世話になってんのか、悪ぃな!」  再婚相手が来ているというのに訪問した狭山を秀政はいつもの明るい調子と明るい笑顔で迎えた。それが狭山とは違い上っ面だけのものではないのが秀政だった。テンションが上がっているらしく、居間に通そうとしていた。言葉に素直に甘えようとしたが秀政の奥にいた権が大きく首を振るので狭山は断った。再婚相手の顔を見ようとは思ったが、権が嫌がっている。すると秀政は再婚相手を玄関に呼ぶ。権は狭山を複雑そうに見て視界から消えた。  秀政の後妻になる明美は狭山に挨拶した。生活感のある素朴な女性だった。前妻の少し派手な感じはない。 「狭山祈と申します。安永さんとは小さい頃からお世話になっていて」 「がはは、そんなこと言って。権の世話なんてたまに狭山の坊っちゃんにやってもらったりよ!」  秀政の手が明美の背を叩く。ちくりちくりと胸が痛い。まぁそうなの?と笑う明美の姿は可愛らしいと思った。松太とも上手くやっていけそうだと思った。だから松太は不本意な譲歩をしたのだろうか。 「安永さんにしてもらったお世話に比べれば大したことではないですよ」  秀政は、がはがは笑う。離れたくないと思った。秀政から離れたくない。 「はっはっは、口が上手いだろ?うちのバカ息子も坊っちゃんに似ればなぁ」  それなら今からでもあなたの息子になります、と内心では思った。親子にしては不適切な感情を抱きながら、それでも秀政の側にいたい。秀政に近寄る悪い虫を駆除しなければならない。秀政という甘美な花に群がる、勘違いしているくせ趣味は良いハエを追い払わなければならない。二度と生まれ変わってまた秀政の前に姿を現さないよう、叩き潰さなければならない。この知能はそのためにある。この身体は狡猾で乱暴、素行が悪く愚かな父の暴力に耐えるためにあるのではない。 「どうぞ、これからよろしくお願いします」 「いくら坊っちゃんがイケメンだからって俺放って惚れるなよ?」  秀政は楽しそうだった。あのバカ女のことなどもう忘れていいのだ。秀政はずっと笑っているべきなのだ。ずっと、ずっと…自分の前で… 「そんな、イケメンだなんて。松太くんのことですか?」  狭山が何を考えているのか知りもせず明美は微笑む。秀政も笑い声を上げていた。 「お父さん!」  奥で権が秀政を呼ぶ。秀政がちょっとすまん、と言って明美を狭山と2人にした。  良い気になるなよ、という言葉を飲み込む。 「秀政さんのどんなところに惹かれたんですか?」  温かいマイホームか?観光地染みた商店街か?お前も趣味だけは良い勘違いした虫なのか?狭山は熱くなる身体を抑える。 「優しくて明るいところかな」  ただ見下ろしていただけの明美の瞳が、狭山には優越感をたたえているような気がしてならなかった。秀政に相応しくない。秀政に相応しい女などこの世にいないのだ。男であったって、自分以外には相応しくない。 「そうなんですね、アツアツで羨ましい限りです」  秀政の隣に居られるというのは確かに羨ましい。だが秀政に相応しくないという点では哀れだ。狭山は奥歯を噛み締めてそう締めた。松太くんを待たせているのでここで失礼します、秀政さんにもよろしくお伝えください。明美ににこりと微笑んで(きびす)を返す。  自宅の居間では松太が静かに眠っていた。だが構うことなくソファに座る。軋み沈むソファに松太の意識が覚めたらしい。頭側に座ってしまったのだとその時気付き、面倒だな、と思った。 「狭山さん…泣いてるの?」  松太が上体を起こして狭山の顔を覗き込んだ。 「何を言ってるのかな?」  泣いてなどいない。怪訝な顔で松太を睨む。気が立っていた。 「悲しそうだったから…」  松太の冷たい手が狭山の頬に触れる。自慰したまま洗わず眠った手だ。だがすべすべとしていた。 「好きな人にフられただけだよ」  松太は傷付いた顔をした。松太の気持ちは告げられる前から知っていた。その深さは見誤っていたが。 「好きな人…いたんだ…」  自嘲的に口元を吊り上げるがその"好きな人"によく似た目は潤んでいる。 「ずっと好きだったんだよ、ずっとね」  秀政を憎めるはずがない。だが鬱屈して傷付け合うささくれの矛先は秀政に距離も遺伝も近い松太に向く。 「…っ」  松太は唇を噛む。 「オレじゃ、ダメなの…?」  狭山は軽蔑の眼差しを向けたが松太は見てはいない。暗い顔をして狭山の胸や腹を見ている。視線が首まで上がって、そこから躊躇いがちに下降した。 「松太くんて、女の子だっけ?」  見れば分かる。男だ。実際その事実に触れた。極稀な例を除いては女にないはずの肉管から、おそらく女で出すとは学んだことのない白濁をこの手と足で導いたのだから。自分はヘテロセクシャルなのだと狭山は予防線を張る。ただ秀政という例外で唯一の恋が陰を落としているだけだ。松太とは違うのだ。松太の恋愛遍歴など知らないけれど。 「酷いよ、狭山さん…」 「酷い?他に好きな人がいたおれに無理矢理キスしておいて?レイプされた気分だ」  松太は怯えていた。嫌なら、怖いなら出ていけばいい。それをしないから松太は駄犬止まりなのだ。忠犬にはなれなさそうだ。躾ける気も起きない。  大きな衣擦れとソファの軋みと揺れ。狭山は肩を掴まれてソファに押し倒された。 「狭山さん!どうしてオレのものになってくれないの?女の子じゃないから?オレはこんなに好きなのに…!」  松太の反撃に狭山は冷静だった。何度か夢でみた。今の松太の立場にいる狭山と、今の狭山の立場にいる秀政。 「どれだけ思っても応えてもらえない恋ってあるだろう?松太くんには分からないかな」  お前の存在もそのひとつの要素なのだと言ってしまったらこの鈍い頭にも分かるだろうか。まさか自分の父親に好意を抱いているなどとは思わないだろうか。 「分からない!だって人好きになるの、初めてだから…ッ」  キスされる。ソファが軋む。感情は昂ぶってしまったようだが身体は落ち着いている。4度目に付き合うつもりはない。 「綺麗で、カッコよくて、頭良くて優しい狭山さんのことがずっと…好きだったんだ」 「じゃあこんなおれには幻滅したね。そういう理想を抱くのは勝手だけれど、押し付けがましいのは勘弁かな」 「勝手に決めんな!まだ好きだよ…狭山さんのこと…狭山さんのことまだ…」  ソファに両腕を縫い止められる。抱く気だろうか。 「おれにどうしてほしい?好きになってほしい?抱きたい?それともただ告白したかっただけ?君のものになって、おれにメリットある?好きでもないのに?」 「狭山さんに愛してほしい…」  ぷつり、と音がした。この男を心底好きになれないだろうと幼い頃の直感が現実になる。秀政に愛され、あのバカ女にも愛され、権にも兄として甘えられ、祖父母にも蝶よ花よと可愛がられ、近所の人々にもかわいいかっこいいと好かれ、狭山の祖父母や母にも明るく好い子だと褒められ、好きな人にもそれを欲する姿勢が、ひどく狭山を苛立たせた。 「おれに?おれに"も"だろう」  松太には意味が分からないらしく、え?と呟いた。その隙をついて狭山は松太の下から抜け出す。 「君に"女の子"になる覚悟がなきゃ、到底無理な話だな。到底無理な話だよ。軽々しく好きだの何だの言われても響かないな。恋に溺れていたいなら、相手を変えてくれないか」 「狭山さん…」 「君はこの町を出て行くんだろう?君の期待に添える答えでなくてすまないね」 「狭山さんの好きな人って、…誰…?」  松太に背を向けた狭山は振り返る。松太はしょぼんとしていた。 「知ってどうするの?」  殺す?おれみたいに。心の中でひた隠し狭山はほくそ笑んだ。 「ただ、知りたかっただけ…だよ…」  松太は目を伏せた。 「安永さんには泊まるって言ってあるから、嫌じゃないなら泊まっていくといいよ。買い物行ってくるけど、何か食べたい物は」  帰ってきた時、松太はいないかも知れない。秀政に事の成り行きを話す可能性も無くはない。もしそうならば、この町を去るのは狭山もだ。再婚生活を見なければいけないのなら。秀政に避けられ生きるのなら。 「ない…」  小さく松太がそう答えた。  晩飯に肉じゃがを作った。鮭を焼いて、大根とワカメの味噌汁を作り、いつもは狭山の好みで麦飯にしていたが白米で炊いた。松太は大食いだったため多めに作ったが松太はあまり食べなかった。味が合わなかったわけではないと松太は言っていた。食事中も食後も沈黙が流れていた。風呂に先に入れ、その間に狭山は食器を洗っていた。狭山の寝間着に身を包んだ松太が居間に姿を現した。沈んだ顔で、黙ってソファに座った。狭山は気にせず食器を洗う。 「2階の寝室に布団敷くけど、もう寝る?おれが風呂入ってからでいい?」  松太は眠そうで、何度か目元を擦っていた。食器を全て洗い終えてエプロンを外す狭山に松太の目がカッと熱を帯びた。何かフェティシズムを刺激してしまったらしい。 「狭山さんの匂いでくらくらする」  喘ぐように松太は力無くソファの背凭れに身体を委ねて、するすると倒れ込む。 「布団敷くまでここで寝ていて構わないけれど、風邪引かないでね」  秀政に苦労をかけたくはない。秀政に、狭山の家に泊まって風邪を引いたなどとは申し訳が立たない。ソファに近寄ろうとすると、獲物を待ち伏せていた深海の営みよろしく松太は狭山に飛び付いた。 「狭山さん…諦めきれない…」  抱き締められ、狭山がよく使う洗剤と柔軟剤、シャンプー、ボディソープの香りに混じった秀政によく似た香りが鼻腔を擽る。腕が松太の背に回りかけて、落ちた。肉の厚さがない。だらしない腹の感覚はない。引き締まって狭山の身体を受け止め心地良く跳ね返す筋肉があるだけだ。 「…じゃあ、無理矢理犯す?」  耳元で囁く。吐息で松太の耳を食むように。挑発してどうなるのだろう。錯覚出来るならいいか、と半ば自棄になっている節もある。 「…そういう、つもりじゃ…っ」  どこまでも甘く、どこまでも愚かな男だと思った。好きな人を征服したいはずだ。無理矢理身体を暴いて刻み付けたいはずだ。肌にも、心にも、耳にも、強く強く。だがそういう男で助かった。 「風呂入ってくるから」  静かに言えば松太は名残惜しそうではあったが狭山を解放する。  いい加減な印象があったが風呂場は綺麗に片付けてあった。入浴剤も入れたようだ。男の汚い白濁とは違う、ミルクの香りが漂う乳白色の入浴剤だ。妙な体液が混じっていないか疑わしかったが、3回も出している。性欲旺盛な若さと肉付きだったが松太にそのような真似は出来なそうだ。  狭山は入浴にあまり時間を掛けない。逆上(のぼ)せやすいというのもある。洗うところを洗い終え、少し湯船に浸かればそれで満足だった。温泉や銭湯もあまり好まない。脱衣所で身体を拭いて着替える。いつもならタオルを巻いて自室で着替えるが今日は昔馴染みとはいえ客人が来ている。しかも肉欲の合わさった好意を抱かれている。肌は見せられない。自分の性別を一瞬疑った。湯気に包まれた脱衣所で着替えた寝間着が少し湿気る。ドアを開けて廊下を歩く。 「狭山さん?」  今度は何だと思いながら居間に向かう。目を泳がせる松太に狭山は首を傾げる。早く言え、もったいぶるなと無言の悪態を吐きながら。 「さっき電話あって…留守電、聞いちゃって…その…」  狭山の家の固定電話は出なければ受話器を取らなくても留守番電話が自動で再生される。松太はそれを聞いてしまったらしい。まさかとは、思うが。 「誰から?」  放送局や保健の案内や間違い電話、詐欺電話ならこのような空気を纏わせないだろう。ひょっとしたら祖父母のいる施設からかも知れない。だがそれより濃厚なのは他にある。 「狭山さんの、お父さん…」  タイミングが悪い。根っから、バイオリズムからして父とは相容れないらしかった。態々図ったかのように客人が来ている時に電話が掛かってくるとは狭山は思わなかった。父はそのようなことを知るはずもないのだからたちが悪い。内容は聞かずとも分かる。松太に訊くことも留守番電話を再生することもしない。松太はそれを奇異の目で見る。 「お父さん、大変なんじゃないの?」 「そうみたいだね」 「そうみたいだねって…」  松太の声が感情的になっている。他人の家の事情に踏み入ることに何の躊躇いもない様子だ。 「お父さんのこと助けようとか思わないの?」  握られた拳。返答次第では凶器に変えるつもりなのだろうか。 「父親だと思ってないから」  冷静に返した。燻りだす嫌なじくじくとした膿んだ感覚は蓋をしていた父への怒りか、松太への苛立ちか分からない。そのうち沸騰してぐらぐらと蓋を揺らし、熱湯をかぶせる先は今、松太しかいない。 「お父さんなんだよ?なんでそんなこと言うんだ!」  やめろ、やめろと思う気持ちは口にしていないため松太には届かない。体内に溜まった熱をゆっくり細く深く吐き出す。暑い。寝間着と皮膚の間の空気も湿気を帯びて暑い。触れたら手を切る鋭い弦に、松太は無邪気に指を伸ばす。 「家族がいるって、それだけでありがたいんだよ?」  急上昇した体温が急激に下がる。ガラスなら割れていた。狭山の中の理性には亀裂が入った。 「秀政さんは機嫌で君や権くんを殴ったりしないんだろうね。秀政さんはきちんとお風呂入れてくれるでしょ?秀政さんは君が泣いたら慰めてくれるよね?」  4つ5つほど下の男というのはここまで幼く想像力が欠如し、独り善がりな価値観しか持ち得ないものなのだろうか。 「女を孕ませて腹から出して、それでもう父親なら確かに父親だね、あの人は。じゃあ秀政さんもそうだったワケ?」  寒くて震えた。湯冷めには早い。だが寒い。穏やかで優しく明るく陽だまりのよく似合う人懐こい仔犬を装った氷なのだ、この男は。液体窒素なのだ、この男の心は。火傷する。ぶるぶると手が震えた。ぞわぞわと腹の奥で渦巻く不快な緊張。 「狭山さ…っ」 「秀政さんが父さんならそんな素敵な世界を見せてくれたの?それともあのアバズレか?」  低い声は掠れた。声帯の許容を越えていた。 「何を、言って…ッ」  目を見開いて戸惑っている。怯えている。ここでなければ、温かい毛布に包んでくれる人がいるのだろう。 「最悪な父親だった…なんで秀政さんと比べるかな…」  自分が何をしているのか狭山には分からなかった。手が出る。松太へ。拳を握っていたのは松太だったはずだ。返答次第で殴りかかってくるのは松太のはずで、暴力に訴えてくるのも松太のはずだった。 「ほんっとにお前、ムカつくんだよ」  間の抜けた口の開きっ放しの顔。大きな目がさらに開く。潤んだ。眉根に皺が寄る。 「秀政さんはあの人から守ってくれたのに!最悪だな、君は!秀政さんと同じ目をして、消えろ!」  松太が狭山に遠慮しているのか簡単に狭山の力で押し倒せてしまう。それが余計に癪に障る。惚れた弱みとは物理か。好きだなんだとほざいていたが、ここでそれがいかに腑抜けた絵空事なのか己の手で証明したらよいのだ。  狭山の拳の雨が降る。華奢で色白な美男子とはいえ平均身長はあり、ある程度引き締まった筋肉のある男の力だ。秀政の紛い物だというだけでそこにさらに力が加わる。 「あのバカ女か!あの女か!」  交通事故で世を去った毒婦。権の母親。その女が秀政の種を腐らせたのか。  頭の中がぐちゃぐちゃになった。精神的にも物理的にも飢えて廃れて寒い狭山の心を開いたのは秀政だ。父を選んだくせふらふらと遊びに行く母、娘が連れてきた鬼から逃げる祖父母。何も出来ないくせ可愛がられ連れ回される弟。残された土地と金だけが、贖罪なのだと信じて、ただ虚しいだけだ。自分が一番不幸だとは思わなかった。土地もあり金もあり、祖父母は施設に入れ介護はせずに済み、複数人の男を漁り倒し貢がせられる容姿と狡猾さを持った母から受け継いだ外見、ずっと気付かなかったが父の遺伝らしき怒りに任せて叩き伏せるだけの粗雑さと暴力性。気付きたくなかった。 「こうやって殴るんだよ、あの人!」  テーブルの上の埃を被ったガラス製の灰皿。祖父と父が使っていて、そのままだった。今まで視界にすら入っていなかった。躊躇いなどないままそれを手に取る。唇を切り、頬骨の辺りが内出血し、頬は赤くなっている松太の顔が恐怖に歪んだ。砂に埋めたはずの爆弾を松太は踏み抜いたのだ。  ゴスっ、と鈍い音がした。

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