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第2話
「どうして、そう思うんですか」
大岡に触れられたままの腕を振り払う。薄暗い中で大岡が傷付いた表情を見せた。越前は何をし、何を言いたく、どう伝えたらよいのか一瞬にして分からなくなった。ひとつだけ明確になったのは傷付いた大岡の顔に胸が締め付けられる感覚があったのと、同時に背筋を駆け上がった甘やかな電流。
「越前くんが前に、ぼくに訊いただろう…?ぼくが君を苦手に思っているんじゃないかって…」
越前は逸らしたばかりの大岡の顔を凝視してしまった。覚えているとは思わなかった。忘れているだろう、取るに足らないことだと思っていた。
「越前くんは、もう覚えていないかも知れないですね。だったらいいんです、忘れていただきたい」
傷付いたまま柔らかく微笑む姿を越前は真っ白くなった頭の中で焼き付ける。掠れた声が、男なら知っている青い苦味と磯を思わせる匂い、薄っすらと混じる他人の匂い、それらを包む大岡の香りが越前の鼻腔を通って脳で暴れる。
「覚えていません。申し訳ない」
「そう…ですか」
語尾が消え入りそうなほど上擦っていた。
「でも越前くんはぼくに訊いたんです。ぼくが越前くんを苦手なのではないかって…訊いたんです…」
大岡には忘れていて欲しかった。覚えていてのこの前と今の態度なのか。なかったことにされたのは越前のほうだ。被害妄想を自覚し、自嘲した。
「それで、実際のところどうなんです」
ただ間を持たせるために訊いてやっているだけなのだと、そういった響きを持たせて、平静を装って答えを促す。そのことを掘り返してきたのは大岡のほうなのだ。ここでそこに喰い付くのはおかしくはないはずだと内心は驚くほど言い訳がましくなっている。
「やっぱりダメだったのかな、って思いました」
越前の期待する答えとは違う。あの時と同じだ。だが言語化されている。真意が分からない。
「越前くんの立場を考えて、でも特別扱いするわけにはいかないから、出来るだけみんなと同じように接しなければと思っていたんです。でも不自然に映ったのかも知れませんね。ぼくはそのことを指摘されるのが…分かっていても怖かったんです」
「え」
越前は目を丸くする。そういうつもりで言ったわけではない。もともと噛み合っていなかったのだ。
「あの時は言えませんでした。でもこのままではいけないと思っていて…季良里(きらり)さんとの縁談が決まったのもいい区切りですから…」
何かが違う。求めていた答えが違うのか。大岡の解釈が違うのか。
「君の義兄になる前に…君の義兄になるのもぼくには…」
大岡が俯いたのが分かった。もやもやとした、言語化して昇華出来そうにないものが胸と喉を行ったり来たりしている。
「私が課長に言ったのはそういう意味ではありません。課長は複雑な立場にある私に十分良くしてくださった。贔屓だとか、そういう意味ではなく」
越前は背を向けた。用が無いなら戻ります、と告げて。待って、ください。小さく聞こえて、そして膝から崩れる音がした。
「大岡さんっ!」
振り返る。大岡が両膝を床に着いて頭を押さえていた。
「ごめんなさい、貧血みたいです」
何事もないと大岡は笑う。薄暗い部屋で光を放っているのかと思うほど大岡の顔は白かった。
「私の肩、腕、回してください」
大丈夫だと言わんばかりの微笑み。これが越前は苦手だった。大岡の腕を乱暴に掴み、首の後ろへ回す。
「私の義兄になるならしっかりしてくださいよ」
言ってしまってから内心舌打ちした。そういうことを言いたいわけではなかった。大岡はただ笑うだけ。違う、そういう意味でないと訂正するのも億劫で越前は黙ったまま大岡を引き摺るように部屋の外へ出た。廊下の光が眩しい。まだ照明は点かない時間帯で、やはり電気は点いていなかった。大岡をさきほど越前が休んでいたソファに座らせる。脂汗が浮かんだ大岡の白い額を、越前はハンカチで拭う。
「越前くん…、」
苦しげに眉を寄せ、目を閉じていた大岡が越前を慌てた顔で見た。ハンカチを使ったことが気に障ったのかも知れない。
「はい」
「君のハンカチを汚してしまって…すみません…」
なんだそんなことか。越前はまたハンカチで首や額の汗を押し当てるながら拭う。
「別に構いません。それより資料はいいんですか。教えてくだされば私が探しますが。それとも北条に頼みますか?」
大岡の前に屈んで越前は正面から大岡を見上げた。元は部下だが現在は上司に当たる越前を上から見下ろす体勢に大岡は落ち着かない様子だ。
「え、ええ。彼に頼みます。本当に申ありません。…本当に…」
越前は首を傾げた。大岡の視線がどこか遠くへ移ってしまった。
「楓チャン」
父・九嵐 がふざけた呼び方をする時は碌でもない話の時だ。求愛 が鳴き喚いていたが父は愉快だ威勢がいいなと笑っているだけで躾る気はないらしかった。寝間着姿でソファに背を預け、接待から直接帰宅したばかりの越前に座るよう促した。
「大岡くんが縁談断ってきたんだけど何かあったん?」
調子は軽かった。私事だけの付き合いの者はこの男が会社ではどういった雰囲気を醸し出しているのか想像出来ないだろうと思って話はあまり聞いていなかった。
「何もありませんよ。課も違いますからね。多分おれは関係ないですよ」
九嵐はあからさまに変な顔をした。
「まぁまぁ、お父様。楓ちゃんも帰ったばかりでお疲れなんだから」
季良里 は上機嫌だった。多恋 を抱き上げて舞うように居間へやってきた。縁談が取消になり喜んでいるように見える。
「だがなぁ、お父ちゃんは大岡くんなら季良里 をやってもいいと思ったんだけどなぁ。大岡くんにはションベン臭かったかなぁ」
「そうだと思いますよ」
越前は大岡の姿を思い出す。数日前、資料室で貧血を起こしていた。あの時遠いどこかへ逸らされた視線の正体に得心がいった。季良里 に多恋(たらば)をねだりながらソファに座って寛ぎはじめたマイペースな九嵐に軽く頭を下げて越前は自室に戻る。横を通ると求愛(くらぶ)が鼻梁に皺を寄せて牙を剥いた。
「越後さん」
珍しい人に呼び止められた。北条だ。越前は2時間ほど残業していたのだが待っていたのか。越前は驚きはしたが表情には出なかった。
「はい」
エントランスにはまだ人がちらほらといる。警備員が姿勢を正す。男性社員に人気のある受付嬢が海外営業の二課の若い男性社員と合流し、自動ドアへ向かっていくのを何となく見ていた。
「越後さん、忙しいのは分かってるんです。でもちょっと話があって」
「飲みに行くか。待たせてしまったみたいだから、奢る」
「オレが勝手に待っていただけですから」
明るく単純で何かしら表情のある北条が複雑な面持ちで越前をちらちら見る。
「…大岡さんの話だろう」
「そうです。やっぱ何か知ってるんですね」
睨まれる。だがそのような態度を向けられる筋合いはない…ような気がするのだ、越前には。
「何か知っているつもりは、俺にはない」
否定しても北条は訝しんでいる。越前はそれを素直に受け止めることにした。以前接待の時に紹介された居酒屋に入る。北条は一人暮らしだという。酒には弱いのかビール4杯で顔を真っ赤にしていた。酒に弱いわけではなかったが北条が2杯目を飲み終わった後から越前は注文を烏龍茶に変えた。黙々と腹に溜まらない枝豆を食べ、北条が話すのを待つ。酒に弱いとは知っていたが本人が認めなかった。まだ同期だった頃から。だから今回もその見栄を尊重しようと飲みに誘ったが、これなら外食に誘ったほうが良かったのかも知れない。接待の相手にいたく気に入られ現場になった高級レストランの食事券まで渡されてしまった。
「越後さん!」
食べることに夢中になって話を聞いていなかったのか、反芻するが北条は何も喋っていなかった。赤い顔で北条は越前を睨む。自宅でよくある光景だ。種族というべきか、犬種が違うけれど。枝豆で濡れた指先をおしぼりで拭う。スタンドタイプのメニューを手に取ると奪われる。一瞬で目に入ったタコの唐揚げに決めた。何か頼むかと訊けば音がするほど頭を横に振る。店員を呼び、タコの唐揚げを注文した。常時空腹を訴えていた姿が懐かしい。女性社員たちがお菓子箱を設置していた光景も懐かしい。個人に対してではないが上司からの叱責や嫌味を聞かされたことや、大岡が怒鳴られている姿を間近で見たりしたこともあったが、あの頃は楽しかった。
「この前大岡さんが、越後さんに会ったって嬉しそうに話してたんですよ」
両腕をテーブルにつけて顔を埋め、越前を睨み上げる。酔って覇気の無い目では越前宅の求愛(くらぶ)にも及ばないほどの威勢だ。
「そういえば資料室で会ったような」
北条の潤んだ目が細まる。このまま1人帰せるだろうか。
「越後さんは懐かない猫みたいだから嬉しいんだと思います、多分。他意なんて無い!あるわけないです」
「そうだろうな。他意があるとは思っていないさ」
店員がタコの唐揚げを運んできた。衣の中に油が踊って染みていく。北条に差し出すが興味はないようで、越前は早速箸を伸ばした。もう飲むなと北条の周りのジョッキを越前は手前に引いて北条から遠ざける。烏龍茶は不味くはないが特別美味しいというわけでもなかった。
「本当にそう思ってます?」
「大岡課長は皆に優しかったと思うが、俺は。北条くんにはそうではなかったのか?」
分かりきった質問だ。
「オレ、越後さんに嫉妬してます」
据わったあどけなさを残したままの双眸が越前を見る。大岡から充てられた湯飲みには耳の垂れたキャラメル色に赤い首輪の犬が描かれていたような気がする。まだ使っているのだろうか。越前はまだ黒猫の湯飲みを社内で使っている。真っ直ぐに越前を見つめる北条に意識を戻し、何の話だったかと数秒前の会話を記憶の中から手繰り寄せる。
「北条くんが俺に?どうして。北条くんは明るくて人望もあって、俺とは違って堅実な力で上へ来るだけの人柄があるだろうに、どうして血筋だけの俺に嫉妬する要素があるのか」
そして大岡に好意を抱いている点でも、越前が北条に嫉妬することはあっても北条が越前に嫉妬するようなアドバンテージを持っているようには思えなかった。強いていうなら義兄弟になるところだろうか。破談になっているが。
「越後さんは鈍感です」
掴んだ枝豆のサヤで差される。酔っ払いだ。他の人にはやるなよ、という言葉は飲み込んでしまった。北条の続いた言葉によって。
「オレは大岡さんが好きなんです。キスしたいしセックスだって…!」
声を荒げて、中身が4分の1ほど残ったジョッキをテーブルに何度も叩き付けている。完全に酔っ払いだ。騒がしい店内では下世話な単語が何度か耳を通っているため北条の吐き出した単語はまだ上品な部類ではあったがそれでも公衆の集う場所で大声で言うには憚られる内容ではある。隣の女性の多いテーブルを一瞥するとぎょっとした顔で越前と目が合い、逸らされる。
「越後さんは…大岡さんを弄んでます」
枝豆を咀嚼して拗ねはじめている。
「全く心当たりがない」
「越後さんになくても、あるんですよ。…あの人、資料室でナニシテるか知ってます?」
「資料室にいるなら資料探しだろう。さすがに資料室で飲食や喫煙はしないだろうな」
大袈裟な溜め息を吐かれる。酒で胃が苦しいのか。目的は限られた部屋だ。そこで何をするかなど限られている。社内食堂や喫煙スペースだってある。大岡は1人でいるところを見られたくないというタイプでもない。第一に資料室で飲食や喫煙は禁止されている。環境的にも願い下げだろう。だが北条は、何言ってんだこいつと言わんばかりの真っ赤な顔で越前をじっと見ている。
「じじいのちんぽしゃぶらされてんです。そんなところに越後さんがずかずか入っていってさ…」
北条と見つめ合ってしまった。お互いに動きが止まる。みるみる北条の表情が強張って、引き攣った笑みが滲み出た。自分が何を言ったのか気付いたらしい。越前は一呼吸置いてタコの唐揚げを嚥下する。
「どういうことだ」
発した音は片言になっていたかも知れない。北条がぷるぷる頭を振る。酔いが一瞬で覚めたらしかった。テーブルを回って越前の隣にくると両肩を掴まれる。
「忘れてください!忘れてください!」
泣きそうな顔と声で大きく揺さぶられた。
「忘れろって言ったって、問題だろ、そんなの」
視界が揺れる。まだ酔っ払っているのだろうか。
「ああ~」
暴走した北条は店員を呼び、少し強い酒を頼みはじめた。
季良里 はただでさえ大きな瞳を輝かせていた。腹に手を当て玄関で寝ている北条の周りをぐるぐる回って、多方面から眺めている。越前は水の入ったコップにストローを挿して玄関へ戻る。開いた両脚の間には白とグレーの毛足の長い大柄な猫が嵌まり込んでいる。
「まさかとは思いますが」
季良里 がきらきらした双眸を越前に向ける。季良里 の言っていたものとは大分タイプが違う。全く違っている。
「ずっと前からかわいいと思っていたの!」
季良里 の抱いているそれがどういう意味なのか越前には分からなかった。愛玩的な意味なのか恋愛的な意味でなのか。そしてそれは二極化しているものなのか。
「かわいい!マルチーズみたいだと思っていたの。かわいい…」
つんつん北条の頬を指で突 いくと魘されている。この女にはマルチーズに見えていたらしい。
「それなら世話頼みますよ。犬は苦手なんです」
そして何かを芽生えさせ、妙な図形を描きそうな関係を断ち切ってほしい。コップを季良里の脇に置いて越前は姉へ丸投げる。猫もでしょ、と付け加えられた。自室に戻る途中で出会 した求愛 が激しく鳴く。違う犬の匂いを付けてきたからか。だが日常だ。
『あの人、資料室でナニシテるか知ってます?』
『じじいのちんぽしゃぶらされてんです』
大岡が越前の目の前で貧血を起こした日から数日間、何度かまた部長たちと資料室へ入っていく大岡の姿を見ていた。酔っ払いの戯言だろう。だがあの資料室にたちこめた匂いは越前もその性別と年齢ゆえによく知っているものだ。黄ばんだ白濁と清楚な大岡が結び付かない。大岡と性的な物事は別世界の共存しないもののような感覚さえある。大岡と性的な物事。越前の夢に現れたことがある。ベッドの上でシャツを肌蹴させ、妖艶に笑い、それから目が覚めて、下着を汚す。そういう経験がある。あの桜色の唇が部長たちの汚らしい怪物を装っていそうな粗獣を宥めているのか。不気味な妄想が脳内で組まれていく。ここまで想像力は豊かだっただろうか。需要はなさそうだが官能小説家になったほうがいいのではないか。現場は見ていないが事が終わった後にその空気を吸ってしまい、言葉を交わしてしまった生々しさにタイミングを逃した呼吸をしてしまい咳き込んだ。それでは大岡はあの部長たちに列 なる立場にいる突然の入室者の越前をどう思っただろう。まさか壁を越えたら大岡が部長たちに口淫をしていたなど。嫌だと思った。脂ぎった男たちの汚そうなものを口腔に納める大岡が?そういった職ではないにもかかわらず大岡で性を消費する部長たちが?何も知らなかった自身が?知っていて今まで何も言わなかった北条が?これだ、という答えはない。漠然とした嫌悪。だが大岡には会いたい。何故縁談を取り下げたのか。いつから男の慰み者になっているのか。大岡。大岡。大岡。課長という、与えらた部屋の中では最も高い位置にいながら茶を配り歩く姿。白い指が赤くなっていた。部長や専務に頭を下げる姿。すまなそうに床を見つめていた。自身のミスではないくせ、怒鳴り散らされ課長の人格を罵倒されても耐え、そしてその後には何事もなかったように微笑む姿。何故そう穏やかでいられるのか。
『オレは大岡さんが好きなんです』
頭を抱えた。
『キスしたいしセックスだって…!』
セックスした。セックスとはいえないかも知れないが、まぐわった。それなら越前も、夢の中で泣き叫ぶ大岡を無理矢理犯した。夢の中の物理も理屈も通らない歪んだ脳内の掃除で、大岡を犯した。男同士のどこの器官に挿入していたのかも理解しないまま、肌を合わせた。気色悪く感じるどころから胸の軽やかさと響くような微かな疼きを伴っていた。大岡の姿が焼き付いて離れない。優しく穏やかで儚げな元上司を、犯したいのかも知れない。いや、犯したい。越前は頭を抱えた。襖のずっと奥で姉のふざけた声がする。父のおどけた声がする。北条の驚く声がする。大岡の声が聞きたい。
資料室から部長たちが出ていく。北条が酔っ払って越前宅に泊まってから2日目。昨日は大岡と部長たちは資料室には来なかった。毎日というわけではないらしい。本当に北条の言うことが事実なら、毎日それをさせるほどの元気が60代にはないだろう。40歳以上離れてあの中に名を連ねている己の立場を実感出来ない。
「失礼します」
資料室に入る。やはりカビ臭さの中に人間の匂いがする。加齢臭や、無香料の整髪剤の匂いも混じっているが特に強いのは青々しい緑と潮の匂い。香りというには生々しく動物的で、不快感が濃い。おそらく大岡のいる場所まで進む。息を吐く音が聞こえた。意識したせいか、もしくは薄暗く視覚情報が制限されたため過敏になった嗅覚が頭痛を誘う。
資料を見るため設置されたデスクとセットになった椅子に腕を掛け、大岡は床に腰を下ろしていた。
「大岡課長」
手負いの獣を追い詰めているような興奮。ライオンに捕食されるシマウマやガゼルの映像を観た時に湧き起こる猟奇的な悦び。重ねていたのかも知れない、大岡に。
「越前く…っ、」
抑えが利かない。ぐったりした身体を目にしておきながら、越前は大岡に襲いかかる。容赦なく、毛の薄い顔に指を立て、罅割れた唇を奪う。
「な…、んでっ」
最低だ、こんなハイエナみたいな真似をして。分かっていた。だが越前は大岡の生温い口腔の甘美さに思考を奪われてしまう。理性がやめろといっている。だが身体がいうことをきかない。そして何より越前の意思がやめようとしない。
「はっ、ぁあ…っ」
湿った音が湿気の篭った資料室に響き渡る。部屋に入って来たものは雨漏りだと思うだろう。大岡の腕が越前のシャツを掴む。
「…ンちゅっ…ふ、ん…」
歯列をなぞる。ざらざらの表面が大岡の舌の裏を掘り起こさんと割り込む。大岡の甘い果汁が溢れる。貪った。何も考えられず、大岡の口の中を唇と舌で貪る。
「ふっ、く…ぁ、ぇち、ぜんく…だめ…」
下腹部が鈍く痛む。腹筋に力を入れる。そこで隙を与えてしまった。軽く突き離される。唇の端から溢れた冷たい唾液が、この人と深い接吻をしたのだと生々しく感じさせた。
「ぼくは汚いから、…ちゃんと口を濯いで来たほうが…っん、」
冷静なことを言い出す大岡の腕を引き寄せ、もう一度口付ける。
「な、…ぁ、はふ、」
両耳を撫でながらさらに深く口腔を犯す。水の音がぴちぴち冷たい部屋に大きくたつ。大岡の匂いに脳がふわふわしていた。
「俺が清めて差し上げます」
唾液の糸が2人を繋ぐ。呆気なく切れて滴った。
「いや…っ」
越前の胸に肘を曲げた腕を押し付けられ、突っ撥ねられた。
「いけない…越前くん…」
距離を取られる。だが壁際にいる大岡は逃げることも出来ず、顔を逸らした。
「大岡課長…」
「もう課長ではありません!」
大岡が声を荒げる。泣いているのか。喚いているようにも思えた。
「え…?」
「…失礼します」
越前の真横を通っていく。怯えを隠そうとしているのが震えた肩で分かった。資料室のアルミ製の扉が軋む音が聞こえる。空しい熱が下腹部で留まっている。もう課長ではない、というのはどういう意味なのか。あなたの課長ではないという意味か。それとも役職が課長でなくなっているということか。やみくもに越前の言うことを否定したかっただけなのか。立ち尽くす。暗幕の端から漏れる外の光をじっと見ていた。湧き上がった淡い想いを自身の手で握り潰してしまった。初めて大岡を夢の中で汚し、精を放った時に似ている。ただ今は、現実だ。触れ合った唇をなぞる。柔らかかった。甘かった。
完全に嫌われたと思っていた。もしかしたら嫌われているのかも知れない。もともとあまり感情を出さない人だ。優しい笑みを浮かべてはいるが。
「お邪魔しています」
帰宅すると居間にいた。父は会社で見せる厳つい雰囲気を纏ったままだ。襖を開けると、待っていましたとばかりに多恋(たらば)と求愛(くらぶ)が大岡めがけて走り出す。越前が帰宅し居間の襖を開けるのを待っているらしかった。
「ああ、どうも」
何事もなかったように大岡は平然としていた。越前もあれくらいはそのようなものなのかと思っていつも通り接する。縁談は取り消されたはずだ。何故また来たのだろう。
「楓、何してんだ」
適当な挨拶はした。自室に戻ろうとして廊下を進むと居間の別の扉が開かれ、前方を父・九嵐が立ち塞がる。
「自室に戻ろうかと」
「楓ちゅわんも付き合うんだよ」
数十秒前大岡の前で見せていた堅い雰囲気はもはや跡形もなく消え、砕けた調子で九嵐は越前の肩に手を回し居間へ連行される。九嵐が誘ったくせ何を言っているのだろう。すでに退社し残業も終えた。これは私用ということらしい。
「縁談はなくなったんじゃなかったんですか?」
「やっぱやだ!季良里がホウジョーとかいうやつと結婚するって言い出したんだよ!」
「っ、え、」
声を抑えながら居間の脇の廊下で客人を放置する。姉も父に似るのは仕方ないのかも知れない。
「楓ちゃんが連れて来た子だろ!お父ちゃんは大岡くんがいいの!楓ちゃんが大岡くんと結婚すれば季良里はあの子にくれてもいいけど!ってかあの子がうちにくるんだよね?あの子一人っ子?」
小声で捲したてる父にどこから話せばいいのか分からず越前はただ、はいはいと頷くだけ。2点引っ掛かる部分があったがどこから説明すればいいか分からない。季良里とは違い、おそらく冗談だろう。
「ほら、いいから行くぞ」
襖からではなく居間に隣接した台所に通じる扉から入る。半ば引き摺られてソファのほうへ引っ張られた。大岡の隣に座る。あまり近付くと多恋 が猫パンチを繰り出したり、求愛(くらぶ)が牙を剥いて吠えるため少し間を取った。
「今日は君に折り入って話があって…」
装った威厳が揺れている。
「北条はどうですか、最近」
越前がスーパーに売っている安物の素 で漬けた白菜を大岡は美味しそうに口に運ぶ。父の震えた声を遮って越前は訊ねる。正直スーツを脱いで早く風呂に入りたい。何より大岡と何もなかった体 で接するのは居心地が悪い。だが元部下で現在は上司、しかも社長の息子で社長本人も同席し縁談を断った相手の家となれば大岡の心情を察するのも怠くなってしまう。そして昼に無理矢理唇を奪った相手となれば。
「北条は…すみません、所属が変わったので詳しいことは分からないのですが…元気だと思います。よく声を掛けてくれますから」
父の片眉がひくりひくり動いている。会社での態度や表情や仕草は疲れるらしい。表情筋が。
「北条くんといえばこの前うちに来たぞな」
父が一瞬素に戻って慌てて姿勢を正す。
「そうなんですか。まだ仲が良いんですね」
越前を向いて話すと求愛 が大岡の膝に乗り、胸に前足をついて越前との会話を邪魔する。
「仲は…良いわけではないです。酔い潰れて連れ帰っただけですから」
ぃ゛に゛やぁ゛あ゛あ。多恋 が喉が潰れたような低い声で越前を阻む。
「いやぁ、いい若者だった。楓によい同期がいてよかった!大岡くんには感謝しているんだ!楓は見ての通り無愛想だからな~、よかったなぁ」
冷たい目を向けるとまた父は、はっとして口元を押さえる。大岡は気にしないふりをしているのかそれとも本当に気にならないのか普段通りだった。
「勿体無いお言葉です。ぼくは何もしていません」
大岡は柔らかく口角を上げる。父は大岡の両手を掴んだ。求愛 が鼻の頭に皺を寄せピンク色の歯茎を見せる。
「君にはこれからも楓のことを頼みたい!義兄としても、仕事仲間としても!」
大岡は両手を握られたまま身を引く。
「楓!ばかたれ!楓からも頼みなさい!」
「え。あの…いや、大岡さん、あまりお気になさらず、」
「大岡くん!今日は泊まって行きなさい!大岡くん!」
「え、あの…」
父はすでに装うことをやめ、大岡に詰め寄る。
「楓、風呂と布団の世話を頼むよ」
「えち、ぜんしゃちょ…」
「父さん!」
酔っ払っているのだろうか。非難するように父を呼ぶ。
「大岡くん…お父ちゃんは季良里じゃなくてもいい…!楓の伴侶でもいいから大岡くんを手放したくないんだよ」
大岡はきょとんと父を見た。越前は大きく溜息を吐いて父の肩を抱き、大岡に少々お待ちくださいと断ってから廊下へ連れ出す。
「ちょっと父さん?何考えてるんです!?」
父が鼻で笑う。
「いやぁ~、変なじじいどもで周り固めるよりああいう真面目で気弱げだけどきちっと異見出来る役員ほしいんだよ。でもお父ちゃんは季良里と結婚させて子ども利用してっていう考えは好かんからさ~、楓ちゃん考えておいてよ」
「息子の意見は」
「無視ですな」
わはは、と父は笑った。大岡の姿がいくつも頭の中で浮かんでは消える。胸が変になる。不整脈なのか。痛覚的なものとは違う。何か物理的でない根が張って、養分を吸い取っていくような微かな痛み。大岡のことを考えなければいいのだと思いながらもその後3秒も経たないうちにまた大岡のことを思い出すようになってしまった。
「父さん…分かりました。でも会社の行く末は関係ありません」
「おお?」
「俺は俺の意思で彼を手に入れます」
父は挑戦的な笑みを浮かべた。
「いいんじゃないか。やってみろ」
父はそのまま自室へ戻るらしかった。父の背が遠い。北条の顔がちらちらと煩わしく脳裏へ現れては消える。
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