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第一章 綻び 1
「せんせぇ、おはようございます!!」
十一月の冷たい朝の空気の中、舌足らずな声で元気に挨拶をする園児達を見て宇城 涼正 は穏やかに微笑んだ。
ここ“ひまわり園”は都心に近い場所にある小さな保育園で、朝の五時から遅い時には夜の二時くらいまで仕事やあらゆる事情で育児が出来ない親に代わり、子どもの面倒をみる施設である。
園児は生後一年に満たない者から小学校入学前の子供までいて決して少なくはない。
何を隠そう涼正自身もこの“ひまわり園”で育った一人だった。
幼い頃、早くに親を亡くした涼正はこの“ひまわり園”の園長であった宇城輝幸に養子として引き取られ、全寮制の高校に行くまでの十年近くの年月をここで過ごした。
その後高校を卒業し、近くの大学に通うも二年足らずで退学した涼正は、二人の幼い子供を連れて“ひまわり園”に戻って来た。
当初、涼正は勘当されることも覚悟していたのだが、輝幸は驚きはしたものの涼正を責めるような事は一言も言わず、涼正と二人の子供を受け入れたのだ。それから涼正は二人の子供を育てながら保育士になるための勉強を昼夜惜しまずし、見事その夢を叶えた。
更にその数年後。第一線を退いた輝幸に代わり“ひまわり園”を率いるような存在になっていた。
今では若い園長として、また一人の保育士として子供達の育児に携わっていて『カッコよくて頼れる保育士さん』として“ひまわり園”の名物保育士になっている。
昔から子供が好きだった涼正は、学生の頃目指していたものも教師か保育士かの二択で。何らかの形で子供達に関われる仕事につくのが夢だった。だから、この保育士という仕事は天職だと思っているし、これ以上に遣り甲斐のある仕事はないと感じる程だ。
そんな涼正だからこそ、子供達にもよく好かれていた。
「せんせぇ!! だっこー!!」
「ずるいよ!! ボクも!!」
今日も何時ものように、朝の挨拶を終えると涼正の足下に大勢の園児たちが競うように集まってきては、涼正の服の袖やエプロンの裾を引っ張り口々に遊んで欲しいとせがんでいた。
「はいはい、喧嘩はするなよ? 順番にな」
優しく諭す涼正の声も元気な園児達の声で掻き消され、いつものように合戦さながらの激しさの涼正の取り合いが始まってしまった。
「っうわぁぁん!!」
園児達に揉みくちゃにされながらどうにか子供達を宥めようと奮闘する涼正の足下で、とうとう一人の男の子が涼正を取り囲む人垣の中から突き飛ばされたのか、泣き出してしまった。地面で膝を擦りむいたのか小さな傷口に血が滲んでいる。
「ほら、泣くんじゃない」
涼正はその子をヒョイッと抱え上げ起こし、地面に下ろすと服についた土を払ってやった。
小さな頬を伝う涙を親指の腹で拭いてやり、可愛らしいクマのキャラクターが刺繍されたハンカチを取り出すと男の子の目の前にかざしながら話し掛ける。
『ボクはクマ!! クマ王国の王子様で、魔法が使えるんだよ!! 今から君に魔法をかけてあげるよ!!』
「……っ、クマさん……まほう使えるの?」
さっきまで泣いていたその子が潤む瞳でハンカチのクマを見詰めた。目尻に涙は溜まっているが、泣き止むまであと一歩といった所だろう。
『そうだよ!! 君には強くなれる魔法の飴をあげるよ。だから、もう泣いちゃ駄目だよ?』
「ホント!? ボク、つよくなりたい!!」
『泣かないって、約束できるかな?』
「うん、ボク、もう泣かないよ!!」
泣き止んだ男の子に取り出した飴を握らせた涼正はクマのハンカチをポケットにしまうと、目線をあわせるようにしゃがみ、その頭を撫でた。
飴を片手に握ったその子の顔には可愛らしい笑顔が浮かんでいる。
――もう大丈夫だな
涼正もつられて笑顔を浮かべながら、他の子供達の相手をし始めた。といっても、涼正は一人しかいないのに対して園児の数は大勢いるわけで。
「涼正さん、大丈夫ですか?」
「ちょと手伝ってくれるとありがたいかな?」
あちこちを園児達に引っ張られ苦笑いを浮かべつつ、他の保育士に助けを求めるのが毎朝の光景だ。
「ほら皆、こっちにおいで!!」
涼正よりも若い親しみ易そうな男の保育士が手を叩きながら園児達を呼ぶが、皆声を揃えて涼正の方がいいのだと口々に言う。
「あははは……、ありがとう皆。でも先生はちょっとお仕事があるんだ。離してくれると嬉しいな?」
少し困ったような表情を涼正が浮かべると、園児達の表情もそれと同じようになり、ややあって。
「せんせぇ、また遊んでくれる?」
「せんせっ、次はボク肩車してほしいっ!!」
「わたしもっ!!」
裾や袖を離してから涼正を見上げて可愛い顔でのおねだりがはじまる。
「ああ、わかった戻ってきたら順番にな?」
涼正は密かに園児達の可愛さに鼻の下を伸ばしながら一人一人の頭を優しく撫でて、一日の大仕事ともいうべき仕事を片付けに向かうべく用意をするのだった。
「じゃあ、後は頼んだよ?」
エプロンを外しながら、男の保育士を見るとさっきの涼正と同じようになっていて涼正は知らぬうちに顔を綻ばせる。
「わかりました、何時ぐらいにこっちに戻ってきますか?」
「息子を起こして、学校に送りしだいこっちに戻って来るよ」
「了解です。気を付けて下さいね?」
人のよさそうな笑顔を浮かべ、その男の保育士は涼正に手を振ると園児達もマネをするようにブンブンと大きく手を振った。
「行ってくるよ」
涼正は男の保育士と園児達に手を振ると、自身の車を停めている駐車場へと向かった 駐車場に向かいながら涼正が時計を見るともう朝の七時を指していた。
――出ないと思うが、……一応電話をしておくかな。
コートの中からシンプルな黒の携帯を取り出し家へと電話をかけると、数度呼び出し音がなり受話器の向こう側から『父さんか?』と低い腰に直接響くような男の声が聞こえた。
「政臣 か? まだ仕事に行ってなかったんだな。鷹斗 は起きてるか?」
いつもこの時間帯にはとっくに出掛けている長男が電話に出たので涼正は内心驚いた。声にもそれが滲んでいたが政臣はそんな涼正を気にした様子もなく、淡々と心地のいい声で話を続けていく。
『鷹斗はまだ起きてないぞ。父さんは今から戻って来るのか?』
「そのつもりだけど、政臣はこれから仕事か?」
『いや、今日は昼頃からしか予定が入ってないからまだ家に居る』
珍しいこともあるものだなと考え込んでいると『父さん、飯は?』と政臣の声が耳をうった。
「えっ? あぁ、朝飯はまだだけど…。お前は食べたのか?」
『これからだ。父さんの分も作っておく』
微かにだが受話器の向こう側からフライパンで何かを炒めるような音がする。
それだけ言うと政臣はどうやら電話を切ってしまったらしい。
「まったく……」
一人苦笑いをこぼすと携帯をコートの中へとしまい、かわりに車の鍵を取り出して青のBMWに乗り込んだ。車に詳しくない涼正だが、この車は格別大事にしていた。
決して安くない買い物だったろうに。一年前の涼正の誕生日に二人の息子からのプレゼントがこれだったのだ。
エンジンをかけると心地の良い震動が伝わってくる。涼正を乗せた青のボディのBMWは、朝の町並みを滑らかに疾走した。
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