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ベータな生徒はアルファの先生に選ばれたい!-9

凌空は樫井の体温を全身で噛み締めた。 見慣れたセーターに頬擦りし、頭を擦りつけ、その温もりに夢中になった。 冷え切った玄関にしばし奏でられた衣擦れの音。 乾いた午後の静寂に、マンションの他の住人による生活音と共に穏やかに行き来した。 「……ふぅ~~……」 まだまだ足りないものの、いくらか気が済んだ凌空は一息つく。 そして、ずっと無言でいる樫井をチラリを上目遣いに窺ってみれば。 「ひっ!!??」 かつてないくらい険しい目つきで睨んでくる樫井に腰が抜けそうになった。 (こっ、怖っっっ!!!!) え、なに、俺がハグしてる間、樫井先生ずっと俺のこと睨んでたの!? なんで!!?? この人、ほんとに俺のこと好きなの!!?? 「ちっ」 (うわぁ!! 舌打ちまでした!!!!) 「大型犬か、お前は……」 「ひぃぃ……怖ぃぃ……なんで俺のこと睨むのぉ……ふぇぇ……」 「早く離れろ」 「ふぇぇん……」 だが、おっかない表情と態度ながらも、樫井は決して自分から凌空を突き放そうとはしなかった。 凌空自らが半泣き状態でよろよろ離れると、ながーーーいため息を一つ、そして落ちていたキャップを拾い上げた。 「あぅ……しゅみましぇん……」 「そんな顔するな、いらつく」 「ひょぇぇ……怖いよぉ……殺人鬼みたぃぃ……」 「誰が殺人鬼だ」 怖がりながらも、自分のセーターの裾を握り締めて帰宅を渋っている凌空に、樫井は乱暴にキャップを被せた。 「うわぁぁ……痛ぃぃ……やだぁ……」 「大袈裟な奴」 「やだやだ……帰りたくなぃぃ……」 「……」 「まだいたいよぉ……樫井先生ぇ……」 「帰れ」 「ふぐぅ……」 「ふぐぅ、って言うな」 縋るみたいに離れようとしない凌空に。 樫井はキスをした。 キャップ越しに、その頭に。 「あっっっ」 「じゃあな、幸村、今度こそ帰れよ」 「な、なんでぇ、なんでキャップ越し!? 直接がいい!!」 「……」 殺人鬼並みに鋭く冷えた眼差しを真っ向から浴びて凌空は縮み上がった。 「……こっちはな、死ぬ気で我慢してるんだ、それをいい加減わかってくれるよな、幸村……」 暴れる欲望を死ぬ気で抑え込んで殺気すら帯びた眼光に凌空は飛び上がる。 未練たらしく握っていた樫井のセーターをやっと手放した。 「ま……待っててね? 俺が卒業するの、ちゃんと待っててね……!?」 「お前こそ俺を待ってろよ」 「ッ……俺は余裕で待てるもん!! 樫井先生のことだけ待ってる!! ずーーーーーっと待ってる!!」 忠犬さながらに宣言してみせた凌空に、樫井はさすがに吹き出した。 「頼もしいよ、俺のワンコ」 (待ってるし、待っててね、樫井先生) 見慣れたはずの夕方の街並み。 凌空にはいつになくキラキラと瞬いて見えた。 (大好き、樫井先生) 樫井がキスしてくれたキャップを念入りに被り直し、凌空は我が家への帰路につく。 でも。 いつか樫井の元へ帰りたい。 そんなことを西日に抱かれながら笑顔で願った。 end

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