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覗いてはなりませんフラグ-2
『怪我をされたのですか』
山菜取りに出かけた山の中、斜面を転がり落ちて足を痛めてしまった綾太郎。
顔の左半分を長い髪で隠した一人の男に幸運にも助けられた。
しかし男は人ではなかった。
『何があっても決してこちらを覗いてはなりませんよ』
男にそう言われていたのに障子を開け放って、綾太郎は、見てしまった。
立派な赤虎毛の、ぴんと尖った立ち耳の、綾太郎を軽く上回る、それは大きな、大きな。
男はこの山を統べる山犬の長だった。
約束を破った綾太郎を我が物にした彼は仮初である人間の姿で言うのだ。
『眷属の掟として、正体を知られたからには、そなたを村へ帰すわけにはいかなくなった』
山犬長の縞政 に娶られることとなったうら若い村の青年。
綾太郎、18歳の年のことであった……。
冷たく澄んだ夜。
数多の星が煌めく空にぽっかり浮かんだ満月。
「ど、どうかな、薄くない?」
簡素な庵にて。
火がパチパチと爆ぜる囲炉裏を挟んで縞政と向かい合った綾太郎、まだ自分は口をつけず、山菜粥を静々と一口食べた彼に尋ねた。
「縞政の口に合ってる?」
寡黙な縞政は伏し目がちに答える。
「そなたの口に合っていれば手前はそれでよい」
山犬夫の言葉に綾太郎はぽっと赤面し、やっと自分も粥を食べ始めた。
縞政と出会ってひと月くらい経ったかな。
村へ帰すわけには、そんなことを言っていたけれど、この人はとても優しい人……じゃない、優しい山犬だった。
『綾太郎、手前は今から山犬寄合に顔を出してくる』
『わかった』
『帰りは夜になるだろう』
『うん、わかった』
『その、何だ、散歩でもしてきたらどうだ』
『うん?』
『その辺りをぶらぶら、いや、遠出して人里近くまで足を伸ばすのも』
『……』
『手前は帰りが遅い、それまで……好きに過ごすといい』
掟があるので大っぴらには言えなかったのだろう、でも、縞政の優しさは綾太郎に十分に伝わった。
半月前のその日、一端村へ帰って、どこへ行っていたんだこの親不孝息子とカンカンだった両親に「今から旅に出る」と伝え、右頬を殴られて、弟に後を頼むとお願いしたら、左頬を殴られて、許嫁のヨネに「もっと別嬪なコと添い遂げたいかも」と嘘をついたら、お尻を蹴っ飛ばされて。
夜、庵に戻ってきた縞政はボロボロの綾太郎を見、普段以上に言葉を失った。
『こ、転んじゃって、俺ってほんっとぉそそっかしい奴なんだっ、でも大丈夫っ、どこも挫いてないよっ?』
両方の頬を青く腫らしてお尻を擦りながら笑う綾太郎を縞政はそっと抱きしめた。
『綾太郎、すまぬ……そなたを手に入れて、手前は、この上なく嬉しい』
箸まで止めてデレデレな回想に夢うつつに浸っていた綾太郎だが。
向かい側で茶碗を下ろして顔の半面を片手で覆う縞政の姿にふと気づいて、はっとした。
「また傷が痛むのっ?」
縞政は左目に傷を負っている。
何でも以前の縄張り争いが原因だとか。
古傷が痛むらしい、よくこうしてじっと耐え忍ぶことがある山犬夫の隣に綾太郎は駆け寄った。
「大丈夫っ?縞政っ?」
連れ合いを心配させまいと、縞政は首を左右に振り、食事を再開させた。
「……たくさん取ってきたな」
「あっ、うん、この辺りは山菜が選り取り見取りだっ、面白いくらいとれる!」
「そうか」
「つい時間も忘れて夢中になって、そうだ、前に噂で隣山にもキノコがたくさん生えてるって、」
「綾太郎」
いつになく鋭い一声が綾太郎の言葉を遮った。
口を噤んだ連れ合いを黒真珠色の片目で見、縞政はポツリと言う。
「隣山には決して入ってはならぬ」
縞政はそう言うけど。
隣山にはキノコだけじゃない、もっと役に立つものが生えてる。
薬草だ。
「薬草があれば煎じて、縞政に飲ませて、そうすれば傷の痛みもちょっとはおさまると思うんだ」
昼過ぎだった。
縞政が庵でまだ寝ている頃、綾太郎はカゴを持って山菜取りに出てきていたのだが、その視線は隣山に向いてばかりで中はすっからかんだった。
切り株に腰かけると、ため息一つ。
そよそよと風が吹き抜ける木陰。
足の甲を上ってきた蟻に小さく笑って指先でちょいと跳ね除ける。
そう、この草鞋。
視線が足元に向いた綾太郎、縞政が編んでくれた草鞋を意味深に眺めた。
手先が器用で、物静かで、優しい縞政。
彼の本当の姿を見たのは一夜限り。
出会った日の夜以来、俺が怖がると思って、俺の前では仮初の人の姿でい続けている。
か、体を重ねたのも一夜限り。
つ、つまらなかったのかな?
「俺はそんなことなかったけれど……」
また足の甲をしつこく上ってきた蟻をちょいっと指先で跳ね除け、綾太郎、すくっと立ち上がった。
古傷の痛みに耐えてつらそうにしていた縞政の姿に脳裏を占領されて。
決して入ってはいけないと言われていた隣山へ勇ましく向かった……。
「わぁっ、これだこれっ、正にお目当ての薬草っ!」
「誰か怪我人でもいるのかい?」
「うんっ、とてもつらそうにしているから、これを煎じて飲ませて、少しでも痛みが引けばいいと思って」
「そうかい。お前さん健気だねぇ」
「ええぇぇ、いやいや、別にそんなぁ……、……」
隣山へ分け入って早速見つけた薬草を取るのに夢中になっていた綾太郎、はたと我に返った。
「で、その怪我人は何て名だい?」
いつの間に真後ろに立っていた男。
長身に着流し、やたら物騒なギザ歯で何らかの……ほ、骨をバリバリ噛み砕いている。
体どころか頭や顔にまでぐるぐるぐるぐる巻かれた包帯。
隠された右目、覗いた左目はさも酷薄そうな狂気を秘めていた。
明らかに超要注意人物なる男との遭遇に綾太郎はひっと身を竦ませた。
「あわわわわ、お、夫、夫がっ」
「夫ぉ?」
「うわっ、ちがっ、しまっ、縞政がっ」
綾太郎がうっかり洩らした名にギザ歯孕む口元がニィィッと歪んだ。
「犬くさいと思えば、お前さん、あのうつけ犬の縁の者かい」
あ。
縞政との約束、また破った、俺……。
庵の奥の間で寝ていた縞政は飛び起きた。
「ウウウウ……」
綾太郎の悲鳴が聞こえたような気がした。
夢だったのかもしれない。
しかし夢にしては恐ろしく胸騒ぎがする。
綾太郎がいないとわかると縞政はまことの姿で庵を飛び出して人気のない野を駆けた。
連れ合いの匂いを辿り、木立を擦り抜け、斜面を駆け上って。
超えてはならぬ境界線を飛び越えて。
そして草鞋を見つけた。
自分が綾太郎のために編んでやったものだ。
隅から隅まで青かった空は夕陽に蝕まれ始めていた。
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