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生まれ変わっても逢いましょう/犬神×少年
彼は死に場所を求めていた。
学校が終わり、革靴に履き替えて校外へ出ると、決して足を踏み入れてはならないという山へ入り、針葉樹の密生する中を一人突き進んだ。
彼は朽ちかけた神社を見つけた。
「あった」
それを探していたわけでもないのに彼の口から何故だかそんな言葉が自然と洩れた。
冷えきった風が艶めく黒髪を撫でていく。
しなやかな腕には萱で切ったばかりの傷が多々あり、矢鱈と赤く鮮明に滲んでいた。
制服が汚れるのを気にもしないで劣化が進んでいる階段に腰掛けると、彼は、学生鞄からカッターナイフを取り出した。
刃の部分を目一杯に引き出して目の前に翳してみる。
枝葉の狭間から降り注ぐ柔らかな午後の日差しを受けて、それは鈍い輝きを発していた。
櫻梢 は細く白い手首にその凶器を押し当てようとした。
「!」
突然聞こえた低い唸り声。
梢は驚いて立ち上がり、自分の背後を顧みて目を見開いた。
何もいるはずがないと思っていた社の中に一頭の白い犬がいた。
大きい……。
梢は無意識に一歩後退りした。
些細な動きに白い犬は反応し、煤けた床に横たわらせていた体をゆっくりと起こした。
見事なまでに真っ白な毛並みである。
薄汚れた社には場違いな、否応なしに視線を奪う神々しい美しさを備えていた。
梢はその白い犬に見入った。
なかなか立ち去ろうとしない彼に白い犬は朱色の歯肉を剥き出しにして威嚇した。
鼻頭に皺を寄せ、苛立ちを露にして黒水晶じみた眼を薄闇に鋭く煌めかせる。
飼い犬とは到底思えない尋常ならぬ迫力に気おされて梢はまた一歩退いた。
「……あ」
梢は、白い犬の背後にもう一頭犬がいる事に気づいた。
闇に塗り潰されたようなその毛艶が目に錯覚を与えて、白い犬の影か何かだと思わせていたのだ。
影法師の如く黒い犬は前脚に血を滲ませていた。
蹲ったままでいる黒い犬と、こちらを睨み据える白い犬に背を向けて、梢は、走って山を降りた……。
日が、傾く。
茜に浸された空を黒い翼が過ぎる。
山の中に響く蜩の鳴き声はまるで宵の訪れを催促しているかのようだった。
「もうすぐ夜だね」
黴臭い木製の階段に座っていた梢は、肌寒さの増してきた山の空気に身震いし、ぽつりと呟いた。
風鈴の音にも似た涼しげな声音を聞いて、二頭の犬は顔を上げる。
「ここは、とっても月が綺麗だね。空が近くに見える。おれが半年前まで住んでいた場所か
らは、街の明かりが強すぎて、星だって見えなかった」
凍えた風が癖のない黒髪を靡かせた。
「でも、マンションの窓から見える景色が好きだった。夜になって辺りが寝静まったら、車のクラクションやサイレンが遠くから聞こえてきて。全然うるさくなかった、子守唄みたいに優しかった。本当に緑が少なかったけれど、ベランダには花壇や植木鉢がたくさんあって……。お母さんがいろんな植物を育ててた」
立てた膝に顔を埋めて梢は涙を殺した。
すぐそばで丸まっていた黒い犬は心なしか首を傾げ、彼の首筋にその鼻先を擦りつけた。
前脚に巻かれた白い包帯が宵の空気の中で際立って、淡い灯火さながらであった。
「おじいちゃんとおばあちゃんが心配するから、もう帰らなきゃ」
梢が座る階段の一段下には、あの白い犬がいた。
立派な尾を一振りさせて体を起こすと、進行の邪魔にならないよう地面に降り立ち、聡明な双眸で頭上を仰ぐ。
出会ったばかりの剣幕は皆目見受けられなかった。
「じゃあ、さよなら」
寂しげに笑って梢は老夫婦の待つ家へと帰っていった。
あまりにも静かすぎる夜だった。
森は息を潜め、虫達は翅を休め、人々は深い眠りに落ちて安らかな寝息を紡ぐ。
山から降りてきた二頭の犬は外灯の差す道を音もなく行き、彼の家を目指す……。
梢は閉じていた瞳をゆっくりと開けた。
「お母さん、お父さん……」
今まで夢の中で話を交わしていた両親の姿を思い出し、梢は呟いた。
溢れ出た涙がこめかみを伝って耳元へ流れていく。
「……ッ」
不意に、梢は部屋の窓が開かれているのに気づいた。
飛び起きた少年は二階の窓辺から外へと身を乗り出した。
広い庭は月明かりに照らされており、隅に咲く純白の桔梗を色鮮やかに見せていた。
そのそばで佇んでいた両親は梢を見上げて手を振った。
先程に見た夢と何一つ違わない彼等に梢も夢中になって手を振り返した。
駆け寄りたいが。
駆け寄れない。
互いの間に引かれた境界線を越えてはならないと梢は母親に言われたばかりだった。
「あ」
両親の足元には放課後に出会ったあの犬達がいた。
母親と父親の脇にそれぞれぴたりと寄り添っている。
彼等も頭上を仰ぎ見て、静かな眼差しを梢に注いでいた。
両親は息子に告げられなかった別れの言葉を言い終えると背を向けた。
犬達は二人を導くように前に出、緩やかな足取りで歩き出した。
後ろをついて二人も足を踏み出す。
梢は止め処なく流れる涙もそのままに去っていく両親を見送った。
そして視界から彼等が消え去った後、涙を拭って微笑みかけた。
「ありがとう」
死者を此岸へと連れ、また彼岸へと送る道案内をしてくれた二頭の犬に笑顔を浮かべずにはいられなかった。
梢の両親は「何か」に殺された。
「何か」は未だ捕まっていない。
翌朝、梢は早めに家を出ると学校とは違う方向へ駆けていき、清々しい空気に満ちた山へ分け入った。
頭上で鳥達の鳴き声が盛んに行き交う中、息を切らしながら昨日と同じ場所に辿り着く。
二頭の犬は古びた社の中で身を寄せ合うようにして眠っていた。
「疲れたんだ」
梢は音を立てぬよう静かに近づいて、犬達のそばにそっと腰を下ろした。
「お母さんとお父さんを連れてきてくれてありがとう」
梢の声を聞き、白い犬が聡明な眼を開いて頭を擡げた。
黒い犬の方は目を覚ます気配がなく、気だるそうに唸り声を立てて鋭い牙を覗かせ、また眠りの深奥へと帰っていった。
「貴方も眠っていいよ。おれが見張っていてあげる。だから、安心して」
か細くも伸びやかな腕 に抱かれて白い犬はその身を少年に預けた。
己に向けられる梢の声音が優しさと安らぎを惜しみなく伝えてくるので、周囲への警戒を解き、華奢な膝に甘んじた。
美しい毛並みを持した白と黒の犬が眠りにつく様は何よりも美しかった。
梢は心地いい重みにふと笑い、穏やかに過ぎ行く時の流れを目の当たりにして、稀有な色違いの双眸を瞬かせた。
太陽の決め事に同調する秒針では計れない、異質の時間がそこで息をしていた。
少年と二頭の犬を包み込んで、遠く昔に繋がれた古い縁 を拠り所にして。
end
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