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うしろのしょうめんは貴方-4

「兄さんは山に魅入られたの」 座布団に正座して真正面の仏壇を眺めていた愁市は母親の言葉に小さく息を呑んだ。 「尾鳴山(おな)が兄さんを連れていったの。だから愁市も山には入らないで」 毎日、祖母が午前中に掃除している仏間には焚かれたばかりの線香の香りが満ちていた。 鴨居の上に並んだ白黒の遺影。 一つだけカラーの写真がある。 「お願いだから」 かつて故人が好きだった苺大福を仏壇にお供えし、自分の隣に座った母親の横顔を遠慮がちに見ていた愁市だったが。 「違うよ」 振り返ると真後ろに貴雄が立っていた。 十六歳で他界した伯父は写真と同じ制服のシャツ、黒いズボンという普段通りの姿で、写真よりも楽しげに笑っていた。 「僕は病気で死んだ。尾鳴山のせいじゃない。もちろん犬鬼様のせいでもない」 不思議なことに。 貴雄の姿は愁市にだけ見えた。 この家へやってきた初日から甥っ子には飄々と笑う伯父の姿が見えていた。 「天命だったんだよ」 そう言って貴雄は自分のことが見えていない妹の頭をそっと撫でた。 「御影が僕の魂を地上に繋ぎ止めたんだ」 愁市の部屋でいつものように畳に寝転がった貴雄は言う。 隣で体育座りした愁市が「どうして繋ぎ止めたの? なんでそんなことしたの?」と問いかければ、頭の下で両手を組んで外見的にも年の変わらない甥っ子を見上げた。 「愁市が今よりもっと大きくなったら教えてあげる」 愁市が膨れっ面になれば貴雄は笑ってその鼻先を爪弾いた。 短い爪にこびりついていた土くれ。 視界に入った瞬間、昨晩のことが色鮮やかに脳裏に蘇り、愁市は慌ててそっぽを向いた。 今朝、布団の上で目を覚ました瞬間、あれはぜんぶ夢だったのかと思った。 真白がこの部屋にやってきたことも。 真白に連れられて山に入って見た光景も。 ただ、起き抜けでありながら恐ろしく鮮明に感じた、服の下の湿った不快感。 まさかのタイミングで迎えた初めての夢精に軽く絶望した……。 「愁市のえっち」 「え!?」 ぎょっとして思わず視線を戻せばイタズラっぽく笑う貴雄と目が合った。 「盗み見なんてもうしちゃだめだぞ?」 ……幽霊の伯父さんを好きになるなんて、なんて、なんて絶望的な恋だろう……。 「あ、あれは真白に、おれ、そんなつもりじゃ」 「真白はまだまだこどもでヤンチャ盛り。お前と一緒だな」 「え。真白って御影と同じ年じゃないの? 昔からあの山で一緒に暮らしてるのかなって……」 「真白は御影のこどもだよ」 そう言って、貴雄は、シャツの下に覗いていた自分の薄っぺらな腹をなぞった。 犬鬼に許されたものしか立ち入ることのできない尾鳴山の異界。 裸足の貴雄は悠々と寝そべって露を含む草むらに両足を伸ばしていた。 真白は手加減なしの頬擦りをずっと繰り返している。 ふかふかの三角耳を撫でてやれば気持ちよさそうにグルグルと唸り、ひんやりした鼻先を首筋に何度も押しつけてきた。 「犬鬼と幽霊のハーフなんてお前だけだよ、きっと」 貴雄は我が子の真白と延々と戯れる。 そんな貴雄に膝枕ならぬ極上の腹枕を貸し出してやっている御影。 死神の鎌を噛み砕いて地上に取り戻した。 片時も離したくなく、輪廻を拒んで伴侶にし、今も尚、恋慕を紡いでいる。 「これってさ」 祖母のお手伝いがてら、物置小屋の整理をしていた愁市はソレを見つけて母親に尋ねてみた。 「ああ、それ……懐かしいわね」 「昔、犬とか飼ってたの?」 「大昔よ。兄さんが山から拾ってきたの」 「ふぅん」 「兄さんが死んだとき、そのこ、いつの間にウチからいなくなってたわ」 「そうなんだ」 「もしかしたら兄さんが連れていったのかもね」 両手に持った古ぼけた首輪を愁市は見下ろした。 ありとあらゆる境界線を越えて今も共にいる彼らの絆に敵いっこないと、そっと、失恋した。 end

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