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雨の降る夜でした
私が売られたのはしとしとと雨の降る、静かな夜でした。
農家を営む家系でしたが、その年は季節外れの嵐に農作物は売り物にならず、私たち一家は一日食べていくのにも必死で、もともと病弱で床に伏せりがちであった母は栄養が不足して倒れてしまったのです。
父は日に日に窶れ、兄は父と母を支えました。まだ幼かった私に状況を理解しろと言う方が酷で、畑を耕すこともできず、ただただ毎日、食って、寝て、伏せる母のそばで手遊びをしていました。
母は、日に日に弱って行きました。か細い呼吸、薄く上下する胸。村一番の美人、と謳われた美貌は儚い。細い手足はさらに細く、ちょっとした衝撃で折れてしまうんじゃないかと、幼いながらに小さな私は恐怖をしていました。
あまね、と襖の向こうから父が呼びました。私は少女めいた名前が好きではありませんでした。
呼び声に、父の元へ向かうと、見知らぬ大人の男の人が一緒にいました。目利きのできない私でも、質の良いとわかるお着物に身を包み、不気味な笑みを浮かべた男の人は私を見てかすかに目を見開き、小さく吐息を零したのです。
「これはこれは……」
とと?
「すまない……すまない、あまね……かかを助けるためなんだ、これしか、これしか方法は」
このときのお父様は、尋常じゃあない様子でした。目を虚ろで、口の端からあぶくを飛ばし、手はまるで中毒者のように震えていたのです。鉄の板でも入っているかのように、まっすぐ前を向いている視線は、腰の曲がった老人のように地面を見つめているのです。
小さな私はどうしたの、とお父様に駆け寄ります。しかし、それを遮る者がいました。古びた家に似つかわしくない、立派なお着物のお客様です。
「初めまして。わたしは麻木 。今日から君の父になります」
この男は一体何を言っているのでしょう。私の父は、そこにいます。襖を挟んだ向こうには母もいます。
「それじゃあ、如月 さん。近々うちの者を寄越します。食物と、薬、でしたっけ? あぁ、そうだ。思っていたよりもこの子の見目が良いのでね、畑を直す人手も寄越しましょう」
訳がわかりませんでした。歳のわりに、小柄で非力だった私は麻木と名乗った男に抱き上げられ、項垂れた父はどんどん遠くに――いえ、わたしが離れていっているのです。
いくら呼んでも、叫んでも、泣いても、喚いても、お父様は迎えに来てくださいませんでした。最期の最後まで、目が合うことはありませんでした。
パンッ、と乾いた破裂音と頬に衝撃が走ります。小柄な私はたたらを踏んで尻もちをつきました。驚きに涙は止まり、見開いた瞳からぽろりと雫がこぼれます。叩かれた、と男の――麻木さんの振り上げられた手を見て理解しました。自分で言うのも恥ずかしいことなのですが、私は少々、頭が足りない子でした。十を言われたら三理解できたら良い方でした。村の学び舎には通っておりませんでした。子供というものは、異物を排除したがります。私は格好の獲物でした。
「あぁ、なんて煩い子供だ。ねぇ、あまね君。あまね君がわたしと一緒に来なければ、あまね君のお母様は死んでしまうんだよ。病に伏せる前の写真を見たけれど、あの美しい面影はすっかりやつれてしまってどこにもなかったねぇ。儚げな白百合のような顔は、日陰で萎びる雑草の横顔だったねぇ。お母様の病、しっかりとした街の医師に診せれば治るのだよ。ねぇ、あまね君。あまね君がわたしと一緒に来れば、わたしの息子になれば、お母様を治すことができるのだよ」
理解できるかい? 顎を掴まれ、無理やりに目を合わせられます。怖くて怖くて、仕方ありません。覗き込んできた麻木さんの瞳は、灰色がかっていて、私を見ているようで見ていないように感じられたのです。
脳足りんな私の頭でも、ここで私が麻木さんに着いて行けば、お母様が助かるといことだけはわかりました。とてもとても厄介な私を、とてもとても大切に大事に育ててくれたお母様が私は大好きです。お母様を助けるためなら、なんだってできるんです。子供の行動力を舐めたらいけません。
しとしと、と。重たく黒い雲が空を覆った、雨の降る日でした。
慣れ親しんだ村から、私は去ること決めました。不気味な男に手を引かれて、車輪のついた小さな箱を馬が引っ張る、馬車という乗り物に乗って、慣れ親しんだ村から離れていきます。不思議と、哀しくはありませんでした。だって、大好きなお母様を助けることができるんだもの。元気になったお母様とまた、お外で一緒に遊べる、おててを繋げる、あの綺麗な微笑みを向けてくれるんだ、と。
――不気味な男に連れて行かれる先で何をされるかも知らない、分からない幼い私は、無邪気に馬車から顔をのぞかせるのでした。
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