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月の綺麗な夜でした

 爛々と、まん丸いお月さまが夜を彩ります。  今夜も私は、鳳来太夫の付き人としてお客様をお出迎えいたします。  九つになる年に、この宿――遊郭の息子となった私はさまざまな芸を仕込まれました。古典や書道に始まり、三味線、筝、舞に囲碁。一通りの教養と芸事を覚えさせられたのですが、いかんせん、私の頭は優秀ではありません。楽を奏でたり、舞ったりはまだ良い方でした。頭で覚えなくとも体に染み付きます。しかしながら、古典やらなにやらとなるとどうにもダメでした。仕置きを与えられようが何をしようが、ぽんこつな頭じゃあ何一つ覚えることができません。困り果てた旦那様――麻木さんは「とりえはその身なりだけだな」と嘲られたのです。貞操の危機(男に貞操もなにもありゃしませんが)に瀕した私を救ってくださったのが、鳳来太夫です。  ぬばたまの美しい御髪に、白玉の肌。つり上がり気味の瞳は不思議な虹彩を放ち、彼女にじぃっと見つめられると、不思議と気分が高揚してしまうのです。  遊郭一番の花魁・鳳来おねえさまは「お人形さんにするんなら、わっちにくださいまし」と、はんなりと花咲かせて微笑みました。  二年後のお話しです。  鳳来おねえさまは、できの悪い私をたいそう可愛がってくださいました。到底、貧相な私には似合わないおべべを見繕ったり、上客のおじ様方に自慢をしたり。気づいたころには遅く、良い意味でも、悪い意味でも、私は有名になっていました。三番町の鳳来太夫はお人形遊びに夢中だ、と。  しかしながら、どんな噂が流れようと鳳来おねえさまは我関せず。流石図太い精神のおねえさま。  お客様のお相手をしていないかぎり、おねえさまは私をそばに侍らせておいででした。お客様に呼ばれたときでさえ、時折私を伴っていくこともあったのです。自分で言うのもなんですが、私はとても良い見目をしておりまして、白い肌に闇色の髪、スッと流水のように涼やかな 目元。肉付きは良くありませんし、男としては情けないのですが、細い手足や柳腰はそこらの遊女よりも艶かしいとの評判です。雨の降る夜にしか店に出ないせいか、源氏名を持っていないのにも関わらず、雨音なんてあだ名までついてしまいました。おねえさまがそれを面白がって呼ぶせいで、他の遊女たちにも呼ばれるようになってしまいました。  その人と出逢ったのは、お月さまの綺麗な夜でした。  連日の雨が続いて、やっとの晴れた夜でしたので、店の中もお客様で賑わい、鳳来おねえさまも常連のお客様の元へ行ってしまいまして、暇を持て余していた私はお店の裏庭でお猫様と戯れていました。  ざり、と土を踏む音が聞こえます。  不思議に思い、振り返った私の後ろにいらっしゃったのは、はじめてみるお客様でした。 「表はあちらですよ」  努めて声を小さくし、お客様の向いている方向とは逆を指差しました。裏庭には、業者が出入をする戸がありまして、たまあに、間違えて裏口から入ってきてしまうお客様がいらっしゃったのです。だからその人も、きっと間違えて入ってきてしまったのだろうと、そう思って声をかけたのですが、不思議そうに首を傾げて私を見つめました。美しい、緑茶の色をした瞳に、明るい髪色の、派手な男の人。いつの日かお酌をした、外の国の方を思い出させる色彩でした。 「あ、あぁ、わたしはお客じゃありませんよ」 「・・・・・・お客様でないのなら、どなたさまでございましょう?」 「呉服屋の織部です。常であれば昨日来るはずだったのですが、急遽予定が入ってしまいまして・・・・・・大旦那はいらっしゃいますかね」 「大旦那・・・・・・? おとうさまのことでしょうか。今日は、確かお役人様がいらっしゃっているから、その部屋に同席していると思います。お兄さんは、どうしますか?」  私の言葉に、眉間のシワを深くしてうなり声を上げます。せっかくの色男が台無しです。 「どれほどかかるか、わかりますかねぇ」  お月さまはちょうど真上にありました。お役人様――鳳来おねえさまを指名することができる上客です。きっと、お空が明け始める頃までかかるでしょう。あのお客様はおねえさまのことをたいそう気に入っていらっしゃいます。私は、あの暴虐無人な態度があまり好きではありませんが。  明け方頃でしょうか。そう、私が言いますと、綺麗な彼――織部さんはその綺麗な顔を顰めて小さくため息を吐きます。せっかく訪れたのに、宿の主人に会えないとなれば足を運び損だとでも思ったのでしょう。  このとき、織部さんは私のことを大旦那の色小姓だと、思ったそうです。遊郭を営む大旦那でありながら、おとうさまの稚児趣味と男色は一部では有名でした。織部さんも一度迫られたことがあるとかなんとか。 「では、日を改めて参ります。あなたも、中に入ったほうがいいですよ。今夜は雨が降りそうです」  一礼して、踵を返した背中についと声を投げてしまいました。 「雨、降るんですか」  自然と、声が暗くなります。  雨が降れば、私は店に出なければいけません。私は、お酌をするのも、芸事を披露するのも、共寝をするのも好きじゃあありませんでした。ただ、色事をしなくて良いということだけが、私の心を支えてくれます。 「おそらく、ですが。風が湿っていますので、今は満点の星空ですが、北の山のほうに暗雲がありました。一刻もすれば、降り始めるでしょうね」 「・・・・・・そうなんですね。お兄さんはとても物知りで、すごいですね。私は学がないので」  どうしてか、織部さんが行ってしまうのが惜しくて、喋れないなりに言葉を紡ぎますが、時勢に疎く、碌に外へ出ない私に話題があるわけもなく、すぐに口を閉ざしてしまいます。 「雨音」  第三者の声に、お猫様が逃げてしまいます。 「雨が降る。準備しろ」 「・・・・・・はい」  番頭の若い青年です。私を呼びにくるのは、彼の仕事でもありました。  さっさと店の中へ引っ込んでしまった番頭の後を追うために、立ち上がります。織部さんは首を傾げてこちらを見ていました。 「店に出てらっしゃるんですか?」 「雨の降る夜にだけ」 「・・・・・・そう、ですか。お名前を、お伺いしても?」 「あまね、です。雨の音で、雨音。ちゃんとした、源氏名ではないんですが、皆、そう私のことを呼びます。お兄さんは、もう帰られますか?」  数俊した後、頷きました。 「大旦那にお目通りは適わなさそうですし、また、日を改めて。それと、わたしのことは喜壱と呼んでくださって構いません」  きーち?  舌足らずに紡げば、おかしそうなくしゃりと笑いました。 「喜壱、です。喜ぶ壱番で、喜壱。今度来るときは、雨音に似合う織物を持ってくるよ」  それじゃあ、左様なら。  遊女のおねえさま方の着物を仕立てている呉服屋のお兄さん。このときで三十手前だったそうで。  美しい緑茶色の瞳。愉悦を含んだ瞳は、とても興味好奇心がそそられました。次いらっしゃるときはわたくしに似合う織物も持ってきてくださるとか。不覚ながらも、わたくしの心は躍りました。  ぽつり、と雨がつむじを叩きます。  月の綺麗な夜のことでした。

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