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火中の桜 其の一

 その夜。  鬼柳の町は、二件の大きな火災に見舞われていた。  着物の上に半纏を羽織った人々が、心配そうに燃え上がる炎の前で立ち尽くしている。木造住宅が立ち並ぶ町の中心部。風の強弱や方向次第で、自宅への被害の覚悟をしなければならないからだろう。  そんな中、慌ただしく駆け回っているのは、梯子や桶を担いだ火消の男達だ。長い鳶口を持った男達が、延焼を防ぐべく風下の建物を引き倒すように破壊し、風上では桶を持った男達が消火作業に励んでいる。  二件もの同時火災。本職の火消達だけでは人手が足りず、宿屋の息子である世良(せら)も、この消火作業の助っ人として徴集されていた。 「……あっちぃな、くそっ」  肌寒い夜にも関わらず、着物の上半身を脱いだ世良は、右腕の桜の彫り物を隆起させ、屋根の上から桶の水を炎へと投げ飛ばす。慣れた手つきで次の桶へと手を伸ばすも、炎はその勢いを持続させたまま、暗い空に火の粉を散らせていた。  世良は今年で十七を数えた若手だと言う事もあり、火消の助っ人として駆り出される事も少なくはないのだが、ここまで大きなものは初めてである。 「世良、幟が見えたぞ!」  世良に桶を手渡した男は、町火消達が掲げる幟を指さした。  一件目を鎮火させた本職達の登場だ。 「遅せぇよ、くそが……」  口の中で呟くような悪態。額に浮かぶ汗を腕で拭った世良は、拍手喝采を受けつつ堂々と此方へ向かって来る集団へと視線をやった。  木造家屋での小火騒ぎは日常茶飯事。煙管の小さな火すらも、こうした火事に繋がり町を焼き尽くす大惨事となってしまうこの町で、鎮火を一手に担う町火消は、皆の英雄と言っても過言ではない。  まだまだ炎は黒煙を吐き出しながら燃え盛っているものの、英雄の登場は町民達の表情を安堵へと変えた。それを感じたのは世良も同じ。ふうと小さく息をつき、本職の人間へと消火作業を引き継ごうと動き出した時だった。  浮き立つ観衆の中。  ぼんやりと佇み炎を見上げる一人の男に、思わず視線を奪われる。  めらめらと燃え上がる炎が映す、浮世離れした雰囲気の持ち主。  整った顔立ちが作る憂いを帯びた表情は、至極儚い印象を受けた。  その上、皆が布団から抜け出して来たままの恰好だと言うのに、白い着物に水色の袴――軽い正装を身に纏った男は、随分と異様な存在だったと言えるだろう。 「おい、世良! 状況を報告してくれ」  男を見つめていた世良の視線が、やってきた町火消の頭へと向く。 「あ、はい」  世良が一瞬視線を放した後、再度見返したそこに男の姿はなかった。  狐にでも化かされたか、と。世良は身を翻して炎へと向き合う。 「後で上手い酒でも奢ってやる。今日は最後まで頼むぜ」  町火消の職人を思わせる掌が世良の肩を叩いた。  暗い空に手を伸ばす様に高く燃え上がる炎。巨大な化け物を前にした町火消達は笑っていた。その背中は、強敵を前にした英雄そのもの。しかし、きっと彼らの胸内にあるのは、町民達の安全ではないのだろう。  彼らは楽しんでいる。  あの化け物を抑えつける優越感が、彼らの表情の原因かもしれない。  そして、焼け焦げた匂いと薄い黒煙が一体を包む中。  湧き上がる観衆と勝利の咆哮が、満月の空へと響き渡ったのだった。

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