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火中の桜 其の二

「酒だ、酒だー!」  男達は沸き立っていた。  深夜にも関わらず食事処の扉を叩いた火消達は、清々しさなど微塵も感じさせない豪快な笑い声を店内に響かせている。  店内を慌ただしく動き回る店主は、起き出した格好そのままだ。鎮火を達成した火消達が、乱暴に扉を叩いて無理やり店を開けさせたのである。  酒だ食事だと傍若無人に振舞う火消達は荒くれ者の集団だと言っても過言ではない。皆が英雄だと称え拝める一方で、自らの称号を振りかざして横暴跋扈する事が、この町の町火消なのだ。 「あれだけの仕事後によく騒げるな……」  部屋の隅。壁に凭れかかるように座り込んだ世良は、静かに杯を傾けていた。  その派手な身なりは、傾奇者の代表とも言える火消達と遜色ない。だが、世良は何の変哲もない宿屋の嫡男である。貧弱な体にならぬよう鍛えてはいるものの、日々強敵に挑み続ける彼らの筋肉美には到底敵わない。その上、互いに奮起した仲間ではあるが、根っからの荒くれ者と容易に肩を組んで騒ぎだすような教育は受けて居なかった。 「あぁ? なんだと?! もう一回言ってみろ!」  突然部屋の中心部で始まった喧嘩。胸倉を掴み合い、鼓膜に響く怒号が室内の雰囲気を変える。これが町中であれば、怯える観衆が押し黙って彼らの喧嘩を見つめていた事だろう。ただ、ここにいるのは喧嘩っ早い馬鹿ばかり。 「いけいけーっ!」 「やってやれ!」  囃し立てる声が二人に拳を振り上げせる。殴り殴られ、ひっくり返る膳や杯。  酒の飛沫が舞い、室内は酷い有様だった。 「……付き合ってらんねぇ」  そうぼやいた世良は気だるげに立ち上がると、誰に告げるでもなく食事処をこっそりと抜け出す。酒はたんと頂いたし、食事もそれなりに満足出来た。仕事の報酬としては物足りないが、緊急徴集された助っ人にしては充分な待遇だったと言えるだろう。 「帰って飲み直すか……」  欠伸をしながら派手色の帯に指先を掛け、世良は町外れにある宿屋を目指して歩き出した。町外れとは言え、田畑に囲まれた一本道の先にあるのは桃源郷を思わせる華やかな建物だ。  この町唯一の宿屋は、一年を通して繁忙期である事は言わずもがな。鬼柳の町は、商人の寝床との異名もあるのだ。周りに大きな町村がない所為で、ここでゆっくりと体を休めておく事が行商人達の決まりともなっているようだった。 「さすがに誰も起きてねぇな」  灯りの消えた桃源郷は、さながら幽霊屋敷のようで気味が悪い。  正面入り口は皆が寝床に入る前に頑丈に施錠されるため、裏口に回るしかないのだけれど、足元を照らす月光だけを頼りに進む道は酷く不気味に映った。正面入り口とは裏腹、建物の側面へと回れば、背の高い草木に囲まれた細い道が続いているだけのだ。 「……っ!」  そんな中、がさりと草木が揺れる音に、世良は咄嗟に身構えた。  風ではない。確かに生き物が揺らした音。兎や狸ならば問題はないが……。 「誰だ!」  後方に感じているのは確かに人の気配だった。  瞬時に鞘から抜き出した短刀を振り上げつつ、身を翻す。相手方から闘志は感じられないが、この時間にこの場所にやって来る人間など、盗賊のような悪を企む輩しかいないだろう。 「……ごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど」  後方に佇んだ男は、小さく両手を上げた。  白い着物が月光に照らされる。  華やかで浮世離れした端正な顔立ち。  幽霊か何かだとも思わせる程に儚い存在感。  その姿を目に映した世良は、彼が人間である事を認識するまで些か時間を要した。 「お前、あん時の……」 「うん? どこかでお会いしたかな?」  微笑む彼の美しすぎる容姿は、高価な絵画を眺めているような気分にさせられる。薄っすらとその姿を照らす月光を些か恨めしく思った。一方、温和な声色は、たまに宿屋に泊まりに来る異国の『紳士』を彷彿とさせる。それこそ、亭主関白を主張する火消達とは相いれない存在であり、火消の中には、女に甘く優しい異国の御人の悪口を言う輩も少なくはないのだ。 「いや、……こっちが勝手に火事現場で見かけただけ、です」  軽く瞼を閉じた世良は短刀を仕舞う。 「で? ここに何の用っすか?」  再び開いた瞳に映るのは男を訝しむ鈍い光。  男は温和な笑みを浮かべたまま、宿屋に泊まりたかった旨を告げた。  随分と身軽な格好をしている事から、商人や旅人でないだろう。一体何の目的でこの町に来たのか……。彼の身の上を疑問に思うも、他所者を疑い取り調べるのは町奉公の仕事である。 「悪りぃけど、もう宿は満室で締めちまってるんっすよね」 「そう。……今日は、野宿をするしかなさそうだね」  男はそう言って夜空を見上げた。黒の中で輝く満月。  しかし、世良は淡い月光を一身に受ける男から目が離せない。 「雨は降りそうにないし、どうにかなるかな。……野宿なんてした事ないけど」  だろうな、と世良は思う。  この男が地べたに寝転がり眠る様子など想像がつかない。 「お邪魔しちゃってごめんね。ありがとう」  男は困ったように肩を竦めてから身を翻した。しかし、その薄い背中は、誰もが放っておけないと感じてしまう程の儚さを浮かばせる。それは、暗がりの中で立ち尽くす世良の中にも例外なく込み上げる感情だった。 「……泊まってけば」 「うん?」 「客室はねぇっすけど。俺の部屋で良いなら、泊まってけよ」  此方へと振り返った男の瞳がきょとんと丸みを帯びる。親指で裏口を指差す世良は、立ち尽くした彼を促すように声を掛けた。持ち上がる口角は、男を歓迎しているからだ。 「酒、付き合ってくれると有難いんっすけど?」 「……良いね」  男は言った。それはまるで、ゆっくりと綻ぶ桜花のような笑み。  人間離れしたと言うべき神秘的な光景を目の当たりにした世良は、ただ呼吸も忘れて近づいて来る彼の姿を見つめる事しかできなかった。

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