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未来の話 (終章)
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「汐さん! おいっ、どこ行ったんだよ!?」
居間の方から響く世良の怒鳴り声。
どうせ今にも泣きそうな顔をしているのだろう。
登美子の夫の話を聞いたのか。
自分がこの町に来た理由を聞いたのか。
もしくはその両方か……。
どちらにせよ、
事実を知った上でこの腕を掴もうとする世良は、本当に大馬鹿なクソ餓鬼である。
「汐さん……っ!」
奥間へと飛び込んで来た世良は、少しばかり息を切らせていた。
汐は顔も上げずに「なに」と素っ気なく尋ねる。ちょうど、眺めていたコレクションを箱の中へと仕舞い込んだ直後の事だった。
「……良か、った」
体中の力が抜けたような声色に、返す言葉を見つけられない。
彼がこんなにも自分に固執してしまうのは、どっちつかずな態度を取り続けた自分の所為だ。謝れば良いのか、冷たい言葉で突き放せば良いのか。汐は世良と出会ったあの日から、最善の方法を見つけられないまま今に至る。
それこそ、初めて世良の姿を見たあの日。炎の中で汗を拭うこの男の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。刹那にして込み上げた感情の名を知らないほど、汐は初心な人間ではなくて。彼に触れてみたい、と思ってしまった事が全ての間違いだったのだ。
「汐さん……」
汐は、後方から抱きしめてくる男を抱きしめ返す事が出来なかった。
否、応えてはいけないのだ。
汐はいつだって、世良の前から姿を消す事になる未来への不安を抱えて虚勢を張っている。ならば最後まで、自分は世良にとって『よく分からない存在』のまま消えて居なくならなければいけないのだ。置いていかれる人間がどれほど辛いのかを分かってやれないほど、汐は鈍感ではないのだから。
一つ小さく息をついた汐は、彼の腕をやんわりと解きながら、軽く瞼を降ろした。
「世良。俺なんかに構わないで。さっさと良い子探しなよ。俺は、いつか帰るべき場所に帰るんだからさ」
ゆっくりと押し返したところで、世良の体はビクともしない。
それどころか更に腕の力を強め、汐を抱きすくめるのだ。
「あんたの帰るべき場所は、『ここ』だ」
「……なに言ってんの、お前」
呆れたような声色が漏れるも、彼が言わんとする事は充分に理解出来た。
彼が示した場所はきっと、この家の事じゃない。
この町の事でも、この世界の事でもない。
「何処に行ったって、あんたは俺の腕の中に帰って来る。『ここ』が、汐さんの帰るべき場所だ。だから、自分からどっか行こうとすんな。俺から逃げんなよ」
本当に――
この男は、なんて幸せな人間なのだろう。
幸せで、温かくて、甘くて、優しい、俺だけの居場所。
「そもそも、何処にも行かせる気はねぇけど」
強引に交わされたキスが、自分をこの地に止める契約であれば良いと何度も思った。何があってもこの世界から離れられない呪縛でも良い。
例えこれが唐突に途切れてしまう刹那の幸せでも、例え瞬きの後に世良の前から消えてしまうとしても、それでも、出来る限り長い時間、この逞しい腕に抱きしめられていたい。それが、ずっと心に秘めていた、叶う事のない願い……。
「世良」
「なんっすか?」
「俺の骨は、お前の手で墓に埋めて」
きょとん、と目を丸める彼の表情は容易に想像が出来た。汐の思考について来られない世良は、いつも鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それから困ったように眉を下げるのだ。
「墓って、また唐突な……。念のため聞きますけど、自殺とか考えてるんっすか?」
違う違う、と。汐は首を振った。
そして、不服そうな世良にキスを強請る。
「俺が、ヨボヨボの爺さんになった時の話だよ」
――そう。ずっとずっと未来の話。
俺がこの世界で寿命を全うしたその時。
世良が泣きそうな笑顔で見送ってくれたその時。
俺はやっと、日々の不安から解放される事が出来るから。
その時初めて、俺はお前への好意を口にするんだろう。
愛してるよ、世良。
世界中の誰よりも。
ずっと傍に居てくれて、ありがとう。
(終)
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