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玉手箱 其の三

「俺の事は諦めて」  とくん、と。心臓が厭な音を打つ。  表情を強張らせた世良とは裏腹、汐は相変わらず優しくほほ笑む。  なんで、と言い返す事も出来ない程に世良の思考は固まり。  疑問符だけが無駄に量産されていく。 「だから、これが最後。セックスも、ハグも、キスも。もうしない」 「……分かる言葉で、言って下さい」 「放してって言ってんの。俺なんかの腕を掴んだって、」 「嫌だ」 「世良。……放せ」  彼はいつも唐突だ。どうしてそのような思考に至ってしまったのか。それを考える暇も、余裕も、全部全部奪ったうえで、世良の胸板を押し返す。  こうなれば、世良は子供のように駄々をこねて縋る事しか出来ない。それでは駄目だと分かっているのに、だからいつまでも『くそ餓鬼』だと笑われるのに。 「汐さん、っ、俺……っ」  がらり、と扉が開いたのはこの時だった。 「おやおや?」  はた、と我に返り固まった世良とは裏腹、汐は世良の肩越しに、訪問者の顔を見遣って笑顔を作る。さすがの世良も、登美子の前で汐に縋るような真似は出来ず、腕の中をすり抜けていく細い体を見送るしかなかった。 「こんにちは、登美子さん」 「こんにちは。今から夕飯でも作るのかい?」 「そ。世良に蕎麦を茹でて貰おうと思って」 「そうかい。おや、世良坊。もうお湯が沸いているよ」 「あ、ああ……」  湯が沸く鍋を指差されるも、世良は料理を続行させる気にはなれない。 「登美子さん、友達と初日の出を見に行くって言ってなかった?」 「ああ。そうだよ。何日かここには来られないからねぇ、おせち料理でも作っておこうと思って来たんだ」 「マジか。さすが。俺、黒豆食べたい」 「はいはい。黒豆ね」  ぐつぐつと沸騰する湯を眺めながら、世良はぼんやりと二人の会話に耳を傾けていた。  どうやら汐は、登美子相手に紳士の面は活用していないらしい。果てしなく素に近い汐が、他の誰かと話しているのを新鮮に思う反面、やはり先ほど汐に告げられた言葉が胸奥に引っかかって仕方がない。 「登美子さん。俺、仕上げなきゃいけない絵があるから。後は頼んで良い?」 「ああ、良いよ」 「んじゃ、よろしく。世良も、蕎麦出来たら持って来て」 「……っす」  意気揚々と居間へ引っ込んでしまった汐。彼が閉じた障子を眺めてはみるも、そこに汐の気持ちが描かれている訳でもない。何も見えない汐の気持ち。  たった一枚の障子が、自分と彼を阻む分厚い壁のように思えてしまう。 「汐ちゃんは、本当に不思議な子だねぇ」  世良の視線を追ったらしい登美子は、なんだか随分と寂しそうな表情でゆっくりと口を開く。まるで世良の心境を悟ったかのような拍子に告げられた言葉に、思わず唇がわなないた。  ただ、登美子は世良の胸に湧き上がる思いとは違う思いを抱いていたらしい。 「名は体を表すとはよく言うけれど……、汐ちゃんを見てると心配でねぇ」  夕暮れの波の名を持つ汐。夕日を反射させて輝く波は、どれだけその美しさに魅了されようとも掴む事が出来ない。寄せる波はただ足元を惑わし、水跡だけを残して引いて行く。気まぐれで、不安定で、掴みどころがない。本当に汐は、世良を惑わしては身を引く波のような男であるとしみじみ思った。 「汐ちゃんがこの町に来たのはね、私に会うためだったんだ。……私の主人の話を聞くため、と言った方が良いかねぇ」  汐と出会って半年近く経つが、彼がこの町に来た理由を聞くのは初めての事だった。  同時に、登美子の夫の話も、世良は耳にした事がない。 「主人は、いつものように畑仕事に行くって出掛けて行った。……それっきり、帰って来ないんだ。畑には、主人が持って行った鍬と弁当が残されていただけ。どこに行ったのかも分からないんだよ。まだ世良坊が言葉も喋れないくらいの赤子の時の話さ」  何の前触れもなく忽然と姿を消したと言う登美子の主人は、『でんわ』や『らじお』などと言う聞いた事もない言葉を使う男だったと言う。 「汐ちゃんが言うにはね、主人は帰るべき場所に帰ったんだって。それが何処なのかは分からないし、主人が望んで帰ったのかも分からないらしいんだけどね。……それでも、主人がこの町に居る間は幸せだったって事は分かるって……、そう言ってくれたんだ」  彼女の瞳には、薄っすらと涙が溜まっていた。しかし登美子は、そのしわしわの甲で涙を拭うとにっこりと笑むのだ。何十年掛かっても折り合いが付けられていない自分の気持ちを隠すように。 「話が逸れてしまったね。……汐ちゃんがこの町に、私の主人の話を聞きに来た理由は一つさ。帰るべき場所へ帰る方法を探して居る、と。そう言ったんだ」  まるで、汐もいつか何処かへ帰ってしまうような言い草だ。登美子の言葉を訂正させようと口を開くも、様々な感情が混ざった頭は、上手く言葉を吐き出させてはくれない。  汐は最初から、この町を離れる気でいたのだ。  汐無しでは生きていけなくなってしまった世良を置いて。  だから彼は、世良の気持ちに答えてはくれなかった。突き放すような言葉を吐いた。汐の居ない未来など、世良には何の価値も見出せそうにはないと言うのに……。 「初めて会った日の汐ちゃんはね、帰りたいんだ、と。まるで迷子の子供のように繰り返していたよ。だから私は、汐ちゃんを放っておけなくて、ついつい世話を妬いてしまうのさ。……けどね、今は――」  続けられていた登美子の言葉は、世良の耳に届く事は無かった。  今すぐに汐の顔が見たい。  どこにも行けないように抱きしめたい。  放して、と不機嫌に突き返される事は分かっているけれど。  だからこそ、彼を放してはいけないのだと強く思う。 「汐さん!」  分厚い壁をぶち壊すような勢いで開いた居間への障子。  その先に汐の姿はなく、ただぱちぱちと火花を散らす火鉢の音だけが、  主の居なくなった静寂を埋めていたのだった。 「……汐、さん?」

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