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玉手箱 其の二

 正直に言うと、もう少しの間だけでも、彼の瞳に映った自分を眺めていたかったのだけれど、汐は何事も無かったかのように世良の腕を引いて部屋を出る。 「ほら。さっさと蕎麦茹でてよ」  どうして彼がここまで蕎麦にこだわっているのかは分からないが、世良が煤払いをしなければ年を越せないと思っているように、汐は蕎麦を食べなければ年を越せないと思って居るのだろう。  まあ、粗方部屋は片付いたし、そろそろ小腹も減って来た。無理やり台所にまで引っ張って来られた世良は、一つ息をついて大きな鍋に水を汲む事にしたのだった。 「なあ、汐さん」 「なに」  鍋を火にかけるや否や、暖を取るために火元に手をかざしに来た汐。そんな彼を後ろから抱きしめ、世良は先ほど見つけてしまった『これくしおん』とやらについて言及してみる。  いつものように、曖昧にはぐらかされるのだろうと予想は出来たが、聞かずにはいられなかったのだ。 「なんで、俺の絵、大事にしてくれてるんっすか」  あれはいつだったか。汐は、「どうして人は、好きな人が描かれた絵を欲しがるのか」と尋ねて来た事があった。もしかしたら汐は、あの問の答えを見つけられていないのではないだろうか。もしかしたら汐は、彼が抱えている感情の名前を知らないのではないだろうか。  だから彼は、はっきりと言葉にしてくれないのかもしれない。抱きしめて、口付けて、体さえも許してくれている世良に対し、好意の言葉一つ吐いてくれない理由がここにあるのであれば、今、この瞬間に気付いて欲しくて。 「なあ、汐さん」  汐の答えを強請るように、世良は彼の頭に鼻先を埋め、優しく口づける。  袖口から侵入した汐の指先に腕を掴まれ、その冷たさに驚かされた時、汐はからかうように笑ってから、何もかもを見透かしたように言葉を吐いた。 「好きだから、とでも言って欲しいの?」  思わず声が詰まる。汐の上手を取る事は出来ないのだと実感させられる。どうせ、自分の思考なんて浅はかなものでしかない。どう立ち回ったところで、結局、この男に勝てる事などないのだ。  世良は観念したように一つ息をついて、素直に小さく頷いた。 「そりゃあ……、そうだったら、嬉しいですけど」 「だろうね。けど、残念。皆が欲しがるから俺も欲しくなっちゃっただけ。流行に乗りたいお年頃なの、俺」  世良の描かれた絵だから大事にしている訳ではなく、皆が欲しがる絵だから大事にしているのだ、と。汐は世良の気持ちを突き放すような物言いをする。けれど、腕の中で身を返し、正面から抱き着いて来る汐は、いったい世良をどうしたいのだろうか。 「お前の絵を欲しがる女の子はいっぱいいるんだよ。世良」  随分と真剣な声色が耳に届いた。  汐は世良の首元に顔を埋めたままで、その表情を確認する事は出来ない。 「お前、モテるからね。女の子なんて選び放題でしょ。春姫とかさ、凄い良い子だよ」  そうは言いながらも、汐は縋るように世良の背中を掻き抱いた。口先では、他所へ行け、と言う汐。その言葉とは裏腹、彼の行動は、自分を放して欲しくない、と訴えて来ているような気がする。  今日は一段と言動がちぐはぐで、あの『これくしおん』とやらを世良が見てしまったからなのだろうか、と。まるで、開けてはいけない玉手箱を開けてしまったような心境になってしまう。 「志奈さんも、お前がいつまでもフラフラしてるから心配だって言ってたし。そろそろ、ちゃんと身を固めた方が良いんじゃねーの」 「……じゃあ、あんたが俺と結婚して下さい」 「ははっ。なに? プロポーズ?」 「なんっすか、それ」 「さあ」  ゆっくりと顔を上げた汐は、なんだか嬉しそうに目を細めた。またからかわれているのだろうか。彼が腹の底で考えて居る事など何一つ分からないけれど、現在、汐の機嫌がすこぶる良い事だけは分かる。 「今日の汐さん、なんかいつも以上に取っ散らかってますね」 「人をハゲみたいに言わないでくれる?」 「誰も禿なんて言ってねぇっすけど……」  世良が呆れたように眉を下げれば、汐は困ったように自分の首元を掻きながら視線を落とした。どうやら彼も、自身がおかしな言動をしている事に気付いてはいるらしい。 「ま、自分のテンションが変なのは分かってる。……お前の所為だよ」 「何が俺の所為なのかは知らねぇっすけど、責任取るんで結婚して下さい」 「そればっかだね。お前」 「今日はなんかいけそうな気がするんで」 「ははっ。なに、その自信」  目前に広がったのは、まるで花が綻ぶような柔らかい笑みだった。緩まる彼の表情が何よりも愛おしくて、抱き寄せてくれる腕に何よりの喜びを感じて、「好きだ」なんて一言では収まりきらない感情が胸一杯に広がっていく。 「汐さん、好きです。……愛してます。誰よりも」  どちらともなく合わさった唇。触れるだけのじゃれ合うような口付けに、世良がずっとずっと求めていた、『小さな幸せ』がたんと含まれているような、そんな気がして―― 「世良」  目前で微笑む彼。 「世良。一回しか言わないから、よく聞いて」  汐は告げた。軽く唇を振れ合わせたまま。  まるで、何もかもを吹っ切ったような笑顔で。

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