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第10話

 唐渡りの僧が遺したという珍しい書を持参して、匡光が仕事帰りに足を伸ばしてくれた。  代々学者の家系だという大江家は、いわゆる中流以下の貧乏公家だが、蔵書の数と種類においては京中の大貴族でもなかなか敵うまい。以前にはさほどの興味もなかったが、頼房の手ほどきで漢籍を学び始めると、政の在り方に大陸からの影響が垣間見えて興味深かった。また匡光の選んで持ってくる書物は、時に頼房さえ唸らせるほど造詣の深いものが多い。 「まさか貞之が私の蔵書にこれほど興味を示してくれるようになるとはなぁ。嬉しい限りだ」  匡光も書に関する話し相手ができたことがことのほか嬉しいらしく、頻繁に足を運んでくれる。頼房自身も、元から相当の蔵書家の上に、実際の政治にも明るいので、彼も匡光と話をするのを楽しんでいるようだ。いくつかの珍書は匡光が仲立ちして頼房の手元に納まっていた。  前回借り受けた漢籍の中身についてあれこれ議論していると、屋敷の主である頼房が帰宅した。今宵はすっかりくつろぐ気でいたのか、もはや直衣に着替えを済ませ、酒を運ばせての登場である。 「お戻りなさいませ、……父上」  まだ多少の戸惑いを覚え、口ごもるように呼んだ貞之に、頼房は笑みを浮かべた。 「今日も書物談議か? 貴方方はまことに書が好きであられるな」  貞之のすぐ傍らに円座を引き寄せると、頼房は所有権を見せつけるようにその肩に手を回した。身分も教養もありながら、頼房は直情的な一面がある。要するに嫉妬深いのだ。  気恥ずかしさに顔を火照らせながら友の顔を伺うと、匡光はうっすら顔を染めながら、何も見なかったように手元の漢籍に視線を落としていた。  宇治の寺から戻った後、貞之は正式に頼房の養子として迎えられた。  養子とはいえ、頼房に男児はいなかったため、嫡子である。帝の求めもあって、一時退いていた摂政太政大臣の地位に戻った頼房の後継となるべく、今は高位の貴族社会で必要となる様々な素養を身に着けているところだ。二年後の除目では従五位下の官職が内定していた。  およそ漢籍については匡光の話を聞くのが一番わかりやすいのだが、どうも頼房は貞之が匡光と二人きりでいるのが気に喰わないらしい。不機嫌を表情に出さない代わりに、やたらと体に触れてくるし、――その日の夜は決まって激しく啼かされる。  匡光は慌ただしく辞去の口上を述べると、逃げるように去って行った。 「脅かさないでやってください。大臣がお考えのようなことはありません」  中途半端なところで終わってしまった書物談義を惜しむ貞之に、二人きりになった途端頼房があからさまに不満そうな顔をした。 「貴方が私の前で匡光殿と親しくなさるからでしょう。それに、私を大臣と呼ぶのはよしなさい」  酒の入れ物を傍らに置いて、頼房が圧し掛かってきた。失言に気付いたがもう遅い。唇を塞がれ、舌が滑り込んでくる。華やかな侍従の香に鼻を擽られ、貞之は媚薬に中てられたように酔いそうになった。単衣の内側で早くも体が熱を持ち始める。  頼房のような男盛りの貴公子を父と呼ぶのにはまだ慣れない。それに父子と言いながら、自分たちの関係はまさに夫婦のようなものだった。  三日夜を過ごした後、頼房は貞之に告げた。妻に迎えることはできないが、その代わり父と子になろうと。父と子ならばともに年老いてどちらかが世を離れたとしても、父子であることに何の変わりもない。そうやって来世にまで通じる縁を築きたいのだと、頼房は言葉を飾らず貞之に乞うた。  貞之はそれを聞いた時、頼房の情の深さと激しさを改めて思い知った。そして六条藤原家に科された処遇にも得心がいった。  頼房が永子姫の子を探していると知った六条の中納言は、正妻の産んだ姫を永子姫の産んだ姫だと偽って娶らせようと画策した。たまたま頼房が間違えて、格子戸が開いたままの貞之の部屋に入ったためにその企みは破綻したのだが、欺かれた怒りは残っていたようだ。しかもその後、貞之を冷遇して京を去らせたことが燻っていた怒りに火をつけた。  頼房が復職した際の除目で、中納言は息子ともども失職した。位まで失ったわけではないので生活には困らないだろうが、政治の表舞台に返り咲くことはもうないだろう。貞之が殿上を許された時に顔を合わせることがないようにとの配慮でもあったらしいが、それを聞いた時の貞之は頼房が持つ力の大きさに恐れを感じたものだ。 「貞之殿……」  情熱的な接吻の後、頼房が黒々とした闇色の目で貞之を見つめてきた。以前は獲物を狙う狩人の目のようだと感じたが、今は違う。頼房は腕に抱いた相手を失うのが怖ろしくて、何度も何度も確かめるように貞之を見つめてしまうのだ。 「父上……愛しています」  その臆病さが愛しく思えて、貞之は両手を伸ばし頼房の首を引き寄せた。触れ合う肌のぬくもりで、頼房を安心させてやりたい。大きく強く、非の打ちどころない貴公子でありながら、童のように稚い頼房。冷たいほど整った貌も、自分勝手で傲慢な性格も、――猛々しいまでの欲望も何もかもが愛しくて堪らない。自分は頼房のためにこそ生まれてきたのだと、そう思えた。 「私もだ……」  帯が解かれ、指の長い大きな手が滑り込んでくる。  貞之は熱っぽい吐息とともに、愛しい人の名を口に上らせた。 

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