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第一話
「ちょいと兄さん。そこのお兄さん」
植木職人の万蔵は、仕事から帰る途中怪しげな薬売りに呼び止められた。
薬売りは粗末な木箱の上に紙包みをいくつも並べ、妙に人のいい笑みを浮かべている。
「はぁ……」
いつもなら無視して通りすぎるところだが、なんとなく足を止めてしまう。
想い人である弟弟子の伊太郎に親方から縁談の話があり、とてもまっすぐ帰れるような気分じゃなかったからだ。
伊太郎は兄弟子の万蔵が独り身であることを気にして乗り気でない素ぶりを見せていたものの、親方からの勧めならば断らないだろう。
「春なのに、三歩進んじゃあ溜め息吐いて。さては、失恋でもしたかね?」
見ただけで当てられ、怒るよりも悲しくなってきた。まだ失恋はしていないが、近いうちに失恋することになるだろう。その時、伊太郎を笑顔で祝ってやれる自信はまったくない。
伊太郎は今年で三十五になった万蔵より十も若いし、嫁を貰うなんて、もっと先の話だと思っていたのに。
肩を落とす万蔵に、薬売りは神妙な様子で声をひそめた。
「そこで、この薬。この薬を使ってみておくれ。この粉を相手の頭に振りかければ、素気ない相手だって、たちまちお兄さんに参ってしまう。その上、その辺りで発情中の猫もびっくりの夜の営みをおくれるってんだから、全財産かけたってお買い得だよ」
どう考えても怪しい誘い文句だった。全財産とまではいかなくても、なかなかの値段もする。
万蔵は疑いながらも、腰から下げていた巾着を手にとった。そして食事と湯屋に行く金だけを残し、ありったけの小銭を木箱の上に置く。
「銭なんざ持ってても、全部酒につぎこんじまいそうだ。酒浸りで仕事に支障をきたすより、万が一にかけるほうがよっぽどいい。その薬、買えるだけくんな」
「……ふふ、毎度あり」
薬売りから怪しげな薬を買った万蔵は大事そうに懐にしまいこむと、一人暮らしのわびしい長屋へと帰っていった。
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