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第1話

side Hitohira  ボクには兄と妹がいる。ただ兄とは母が違う。妹とは同じ。父親は3人共通しているが、3人が3人母に似てしまったのだろう。背格好も髪色も食の好みも兄と似ることはなかった。  一枚(ひとひら)のこと好き。隣にいたバイト先で出会った女が射精後の冷めた思考に割って入る。輪郭を捕らえて、キスされる。この子の名前を呼ぼうとして思い出せない。リナ、ミナミ、モモコ、アヤノ、ユズキ、アオイ、ミフユ、アリサ、エレナ、チエ、ミホ、マユ、カナエ、ハルカ、アズサ…まだいた気がする。  お願い、付き合って。聞き飽きた台詞を、ボクは立ち上がって躱す。ごめんね、そんなつもりはないんだ。彼女たちを落とした笑みで拒絶する。触れれば勃ち、揉み込めば吐き出す男の弱味とは違う。しなやかで細く白い指で触れられたところでボクの蟠りはただ膨らむだけ。膨らんだ後きちんと爆発する身体のそこは、もっともっとと誰かの指を、願わくば身体の奥を求めるけれど、それは誰でも良かった。性別ですら何でも良かった。場合によっては種族も問わないかも知れない。躾けられた犬でも、媚びた猫でも、牙を抜かれた蛇でも。そこまでしてしまえると口で言うのは簡単だった。実際試す気になるのなら、それなら胸に留まった蟠りを溶かしてしまったほうがいいのかも知れない。なんでなんでと責め立てる高い声。キンキンする。強く握った拳を振り上げるのはどうにか抑えて、慣れた柔らかな笑みを浮かべた。  母に似た。人の男を奪るような狡猾さも性的なだらしなさも、顔も。兄を意識するようになってから…兄との関係を知ることになってから、優しく甘い匂いのする大好きだった母が汚らしく思った。それからだろうか、近寄ってきた女を引っ掛けて弄ぶのが楽しくなった。この女はどれだけの男と関係を結ぶのだろうと。いつか刺されるだろうか。 「おかえり」  家に帰ると兄がキッチンに立っている。エプロン姿で家事をこなしている。血の繋がらない母への遠慮だ。それに苛立った。 「ただいま」  兄は口元を緩めた。精悍な顔立ちが綻ぶ。ボクがするような作って貼り付けて、タイミングを図ったような笑顔ではない、この世が平和になってしまう笑み。少なくともボクの中ではそうだった。これはまだ固い笑みだということは十分知っているが、それでも兄がボクや妹に向ける中では一番平和的な笑みなのだ。有名な観光地でテロがあろうが、隣国が戦争していようが、世界の裏側で人身売買が行われていようが、今家の外でヤクザが銃撃戦を繰り広げていようが。目の前で兄がボクに目を向けているだけで。 「双葉はまだ帰ってきていないみたいなんだ」  兄は妹をよく心配している。年頃というのもあるだろう。妹には父への反抗期がなかった。だが安心するのもまだ早くそれが兄へ向くかも知れない。ただボクには向かないだろう。妹の視界には、常にボクがいない。 「カレシとデートじゃない?」  兄の表情がわずかに曇る。面白くはなかったが、自身の言葉で兄を困らせるのが好きだった。内容が妹とカレシというのが非常につまらないけれど。 「そうか」  兄はそう言ってボクを意識から外した。兄と暮らして15年以上。だが兄は、母はとにかく年の離れたボクや妹にもどこかよそよそしい。それが兄が自ら意図したものではないのだろうが、壁がある。時折兄が父に見せる遠慮のない笑みや安堵が羨ましくて仕方がなかった。  自室へ行くには兄の部屋の前を通る。兄が下の階にいる時ボクは兄の部屋を開けてしまう悪い癖があった。興味が習慣になっている。扉を開く。こじんまりした、殺風景な部屋だっな。落ち着いた色のベッドとテーブルとPCと、入りの悪い本棚と何も置かれていないアルミのラック、そして小さな植物。何もない。変な気も起こしていないようだ。兄が家出する夢を見てから時折不安になる。  兄が、好きだ。兄をどうこうしたいと思っている。ただ"どうこうする"方法が思い付かないのだ。兄が1人股間を昂ぶらせて悶える姿を空想するまでがボクの想像力の限界だった。兄が1人両脚の狭間の猛りを擦って顔を赤らめながら声を混じらせ熱い息を吐き身を捩って腰を震わせ、男がよく知る液を迸らせる妄想を組み立ててボクは散々、よく顔も名も覚えていない女に触らせ舐めさせ挿入した兄の甥を膨らませる。兄の部屋と共有した壁を見つめてボクは満足しきれなかった欲を発散させる。白く、見た目も内容も汚いものをティッシュへ丸めてゴミ箱へ捨てる。兄は実際はどんな風に、ボクが見たくて触れたくて刺激してみたくて堪らないものをいじるのだろう。どこが一番気持ち良いのだろう。何を考えているのだろう。兄や弟がいるボクの友人は、そういう話を兄弟間でするらしかった。兄や弟はどういうジャンルが好きで、こういう女が好きで。他にも観賞しながら、妄想しながら、無心で。さらには無料動画派、有料チャンネル派、AV派、画像派、漫画派。だがボクは兄とそういった話をしたことがない。兄と父はしているのだろうか。そう思った途端、胸が重くなる。ドラマのキスシーンでさえ兄は頬を赤らめる。父とだってそんな話はしないだろう。父が付き合わせることはあるかも知れないけれど。でも父はボクにもそんな話はしない。子どもの恋愛にもあまり口出しはして来ない。双葉が時々カレシと夕方遅くまで遊んでいても夜には帰ってくるのだからと丸投げしている。だからだろうか、兄が少し双葉に対しては口煩くなっていた。とはいえやはりボクや双葉に対する態度はどこか違う。双葉だけなら年の離れた異性のきょうだいだからと言われたなら腑に落ちただろう。だがボクと兄は同性だ。それなりの話を共有したっておかしくはない。下品だの不埒だのという年でも立場でもないだろう。  ボクは納得がいかない。 * side Futaba 「ただいま」  玄関を開けると兄さんが立っていた。わたしは兄さんを見上げる。 「双葉…。おかえり」  兄さんはわたしが時々何も言わずに外出することを嫌がる。口には出さない。でも曇ったカオで分かる。その拗ねた子供っぽい感じが好き。 「ホットケーキを作ったから食べるならきちんと手を洗うんだよ」  お母さんはあまり口煩く言わない。多分遠慮してるんだと思う。誰にかっていったら兄さん。わたしと一枚(ひとひら)くんだけに言ったら多分、差別化がはっきりしちゃうんだと思う。でもやっぱり他の家庭にいた兄さんに今の家庭を押し付けてしまうことに遠慮があるんだと思う。だからお母さんはあまり口煩く言わない。でもわたしも一枚(ひとひら)くんもそれなりにある程度の常識みたいなのはあるはず。そういうお母さんの遠慮を兄さんは見ていてつらくなるほど理解してしまってるみたいだから兄さんが口煩くなった。でもそれが心地いい。もう兄としては見られないくらい。一枚(ひとひら)くんはわたしのもう1人の兄だけど、兄さんとはやっぱり認識が違った。  兄さんが乱れる姿が見てみたくて仕方がなかった。兄さんが性に溺れる姿。兄さんが女を求める姿。多少の複雑さはあったけれど。何処の誰っていう女ではなくて、オスが求めてしまうメスって意味での、もっと動物的で記号的な女。快活そうな雰囲気はあるし運動だって多分得意だろうにおとなしくて、あまりお洒落にも興味なくて、モテたいって願望もないみたいで。モテたいって思わなくてもモテそうだけど、それでもあまり家と大学と大学の中のバイトで付きっ切りって感じだった。大学の中に女がいるのかも知れないけど。絵に描いたような好青年。礼儀正しくて、優しくて、かっこよくて、かわいい。一枚(ひとひら)くんと少し似てるけど、全然似てない。わたしとの差は性別からくる似てなさだと思ってたのに。わたしと一枚(ひとひら)くんと兄さん。誰も3人で共通した父に似なかった。わたしと一枚(ひとひら)くんは多少似ているのに、わたしたちと兄さんは似なかった。それが悲しいのか、それともラッキーだと思ってるのか、どちらともはっきりとはいえない。でもきっと一枚(ひとひら)くんはラッキーだなって思ってるだろうし、兄さんは比例して悲しいって思ってるかも知れない。だってきっと一枚(ひとひら)くんは兄さんに変な気持ちを抱いてる。きっと。多分。どうしてそう思うのかは分からないけれどきっとそう。兄さんを見る目がそうだった。兄さんがわたしや一枚(ひとひら)くんに見せる最大限の譲歩じみたふんわりした笑顔を見る時の目がすごく、怖かった。睨んでたとかじゃなく、きょうだいとか家族とかに向ける目じゃなかった。それからだと思う。兄さんが食べられる妄想に取り憑かれたのは。一枚(ひとひら)くんに喉笛を噛まれて声が出せなくなって、わたしを潤んだ生気の無い目で見つめる。わたしは兄さんを抱き締めたくなって仕方がなくなった。わたしは夢から覚めても兄さんを抱き締めたくなって仕方がない。ホルモンバランスが不安定になって生理前に少し膨らんだような、張ってしまったような両胸の間に、兄さんの頭を抱き締めてみたくて、寂しさに穴が空きそうになっていた。それはカレシにも感じたことのない感覚だった。 「双葉?」  兄さんがわたしの目線に合うように腰を屈めた。そうされるたびにわたしは女の子なんだ、妹なんだって感じた。兄さんを見下ろすにはあと30cm以上は身長が要る。180cm以上の女性はいるだろうけど、多くはない。でも一枚(ひとひら)くんは兄さんより背が低いのにこうはされない。わたしが女だからだ。姉だったらしただろうか。しないと思う。母さんにもしない。わたしはあくまで兄さんに、守られる立場なんだ。一枚(ひとひら)くんだって弟なのに。わたしは女の子だから?そうだろうな。でもお母さんにはしない。やっぱりわたしは守られる立場で、女の子で、妹だからだ。わたしは一枚(ひとひら)くんに喉笛を噛まれて声も出せず、動くことも出来ない兄さんを助けたかったのに。 「食べる。兄さんのホットケーキ、美味しいから」  わたしは甘えた声を出す。一枚(ひとひら)くんの兄さんへ向ける妙な眼差しも、兄さんのお母さんへの遠慮もわたしは知らないフリをする。そうすれば兄さんはわたしをいつも通り、鈍くてカレシが好きで甘いものが好きで兄に甘えたで守られなければならない頭の弱い妹だと何も疑わない。兄さんほどお人好しだとそんなことさえ思わないかも知れない。妹が自分をどう思ってるかなんて考えもしないだろう。わたしは兄さんを、兄だと思ってない。兄だとは思ってるけど、兄とするには相応しくないんだと思う。わたしは兄さんの乱れる姿が見たい。メスを求めて悩み、悶える情けない姿が見たい。それを救えるのがわたしだったらいいと思う半分、絶対にわたし以外の何かであってほしいと思う。兄さんが悲しみや寂しさや空腹とは違う悩みに喘ぎ苦しむ姿が、見たい。わたしは… * side Hitohira  兄に、女がいるかも知れないと思いはじめたのはつい最近だった。電話で誰かと話している兄の声を聞いてしまった。優しい声。父と話す時の声。ボクはベランダで話す兄の声に耳を澄ませた。兄の読んだ本の話。猫の話。ファミレスの期間限定のデザートの話。話相手の家族の話。ボクはあまり兄と話したことがない気がする。きちんと話はするけれど、そういう日常の話とは違う気がする。  ボクたちは牽制し合うような関係じゃない。動物みたいに、オスは縄張り争いをしてどちらが出ていかなければならない環境にはいないはずだ。仮にそうだとしても、ボクは兄の縄張りを奪う気なんてない。兄と縄張り争いは出来ないだろう。それに兄は兄だけど、オスとしては見られない。あり得ないと分かっていながら、同時にそうだあったら嫌だとは思いながら、ボクは兄のしなやかな脚の間にはボクが他人のものとして見慣れた薔薇みたいな生々しい肉襞があったらいいと思う。あり得ない。兄は男で、そしてボクも、異性とはいえ双葉も似なかったそのしっかりした体躯にこそボクが掻き乱して堪らない淫靡さがある。ただ無いとなればボクは兄とは結ばれないということだ。男を好きな男はどうやってその欲を埋めるのだろうか。ただ虚しく外にある塊を扱くだけなのか。女を好きになる恋愛とは全く要領が違うのかも知れない。女の人を好きになる時みたいに内部を貪りたい欲などないのかも。わがままなボクは兄のきっと逞しい隠れたソコと男女問わずある尻の穴の間にもうひとつ、ボクが見た誰のそれよりも淡いスモーキーピンクの花弁があることを思い描いた。あるわけがない。けれど、そうでなければボクと兄は結ばれないのだ。  嫌だと思った。兄が男であることは十分に理解している。だが生物学的に男でも"性の役割"として男であることにボクは酷い嫌悪感を覚えた。ボクは中学時代、高校生から幾度となく心無い言葉を浴びせられたことがある。それはボクの容姿にある。でも彼等(かれら)の気持ちがボクには分かる。違和感に抗えきれない。この"生物学的な性別"と、社会的なものではなく生命の営みとして与えられてしまう、"性の営みとしての性的な役割"との違和感。これを感情と理屈によって処理することが出来ない。これはわがままなのだろう。譲りたくない概念だ。だから、許せない。  兄はボクの(つがい)なのだ。産めなくていい。産まなくていい。ボクは兄の、ボクだけのボクの脳内にしかない柔らかく甘やかでジューシーな秘められた薔薇を想って今も… * side Futaba  兄さんの部屋の前を通る時、その部屋の主の無自覚な誘惑みたいに扉が少し開いている。電気の点いていない兄さんの部屋。でも物音がする。一枚(ひとひら)くんの部屋は閉まっている。お父さんは仕事の日だしお母さんは兄さんの部屋には近付きたがらない。わたしは兄さんの部屋を、誘われるまま覗いてしまった。足が見える。兄さんがいる…? 「っはぁ、兄さん…っは、っあ、輪太郎兄さっ、っはッ」  姿が見えなくて助かった。声だけで分かってしまった。ばくばく心臓がうるさい。頭の中はいやに冷静だった。わたしは口元を押さえて扉から身を離す。あくまでなんとなく。あくまでなんとなくだけど、そうなんじゃないかとは思っていた。胃がぐるぐると熱を持っている。一枚(ひとひら)くんの声だった。一枚(ひとひら)くんしかいない。でも一枚(ひとひら)くんってことは分かってるのに、一枚(ひとひら)くんだと素直に納得出来ない。だって一枚(ひとひら)くんと兄さんは兄弟で、何より男同士だ。わたしも兄さんの妹だけど、じゃあわたしが兄さんに抱いてるものってなんなんだろう。それでわたしが兄さんへ抱いてる願望…。わたしには牙がない。兄さんを責め苛む牙がないんだ。わたしはもう1人の兄の変な姿を見ないように顔を扉から逸らした。わたしには牙がない。兄さんを内側から貫く、牙…男の汚いアレがない。わたしは兄さんの内側を女みたいに暴くことは出来ないんだ。もう1人の兄の変な声が聞こえる。ぼたぼたと床に水滴が落ちる。わたしの願望は叶わないのだ。わたしには牙がない。兄さんが遠くへ行ってしまいそうだった。兄さんをわたしの下に敷いて、兄さんがわたしを熱っぽく求めて、兄さんがわたしに快楽を求めて、わたしは兄さんの満足いくだけの快感を与えることは、わたしの望むカタチでは無理なのだ。生まれた時から決まっていたことで、この瞬間まで全く疑問に思わなかったこと。わたしはこの身体で兄さんを癒すことはおそらく物理的には可能なんだろう。兄さんはきっとそれを許さない。でもきっと兄さんの身体は感じるんだろう。男の身体はそういうものだって、口煩いオトコが言ってた。それにわたしが兄さんに与えたいものはそういうものじゃない。でもそれはエゴなんだろう。わたしはただ"与えたいという欲求を満たした"という事実を与えられたくて仕方ない。なんでわたしには牙がないんだろう。電車で触ってくる臭いじじいが大嫌いだった。パンツの色を訊いてくる隣の席の男子が目障りで仕方なかった。街を歩いているだけでお茶しようと誘ってくる若い男が面倒だった。それなのにわたしは、そいつらの薄汚い核心を持って産まれていないことが悲しかった。悲しくて、悔しくて、焦った。 * side Eito  双葉は変な女だ。流行りにはのっておくお洒落で頭のいい、どこにでもいるような女ではあるケド何かが変わってる。それが何なのか気付いてから、オレは双葉のことが知りたくてよく知りもしないくせ、交際を申し込んだ。告白の言葉もない。ただよく知りもしないオレを見ることなく、いいよ、とだけ言った。その時に分かった。その正体を知りたくて交際を迫った瞬間に分かった。双葉は男の顔を見ない。同じクラスの男子の名前と顔を覚えていても一致はさせていなかった。双葉は俗にいうブラコンだった。兄さんがダメって言ったから、だから高校生でセックスはしない。兄さんに嘘吐きたくないから、だから成人するまで煙草吸ったり酒は飲まない。兄さんが心配するから、8時過ぎまで外出できない。兄さんが悲しむから、夕飯食べられなくなるまで間食出来ない。兄さんが、兄さんが、兄さんが。それでさらに驚いたのが、兄は2人いたことだった。なんでもかっこいい兄がいるのだと、双葉の友人から聞いたことがある。あくまで噂らしい。双葉の言う束縛的な印象しかない兄の話だと思っていた。何かを家族に買っていく話になって、双葉が兄にもと3つ買ったのが気になって、2つあげるほど好きなのかと思って揶揄うと、兄は2人いると事もなげに答えた。そしてよくオレの誘いを断る口実というかマジではあるっぽい束縛をする兄は長男なのだと。次男のことを訊いたが、双葉はあまり次男のことを話したがらなかった。優しくておとなしいが女好きらしかった。いつか痴情が縺れて刺されたら兄が悲しむから考え直して欲しいと言っていた。それ以外はよく覚えていないらしかった。オレから振らなければ双葉は多分次男の話はしないんだろう。  双葉は不愛想な女だった。でも双葉はキリッとした目が猫っぽいだけで美少女だった。それでオレは学校一モテるんだから、周りも納得のカップルだった。双葉は兄に恥ずかしいからと成績も良かったし素行も良かった。ただ学級委員になるだとかクラスの人気者とかいう明るく積極的で協調性のある、絵に描いたよう優等生というタイプではなかった。容姿では目立ってしまっていたが、兄にしか興味を示さなかったし、オレとの交際を受け入れた理由も「付き纏われたら面倒で、適当にあしらっておけば飽きると思ったから」だった。それを聞いても、オレは双葉に飽きることはなかった。セックスをしない交際は初めてだった。定期的にセックスをしない関係。双葉以外とセックスするのもアリといえばオレの中ではアリだったケド、今まで発情期のケダモノみたいにセックスしていたから暫くは自分の手でもいいかも知れないと思い始めてきていた。双葉はオレが他の女とセックスしようが何をしようが関係ないのだろう。それならオレはどうして双葉と付き合っているのだろう。双葉のことを知る権利を得られるからだろう。  そんな双葉から…初めて双葉から電話が来た。 * side Hitohira  挑戦的な顔のかっこいいお兄さんが階段を上がっていった。お兄さんと言っても年下だろう。ボクの顔を穴が空くほどじろじろ見ていた。リビングでは兄が困った顔をしていた。 「一枚(ひとひら)…」  言いづらそうに兄は視線を宙に投げる。ボクは心配そうな兄の顔を、さっきされたように見つめていた。 「双葉も大胆だね、家族がいるのに」 「一枚(ひとひら)!…お前だって双葉のお兄ちゃんなんだから…」  兄は家事が手に付いていないようだった。ボクや双葉が帰る頃に小さなパンケーキや少量のお好み焼き、おにぎりや焼きそばを作ってから兄はバイトに行ってしまうのだが、今日はテーブルにラップしたオムライスが置いてあった。母の夕飯が食べられるように量を少なくしてある。気にしなくていいのにと思う。双葉がチャラチャラしたカレシを連れ込んだって。でも意外だった。双葉がカレシを連れて来たことも、カレシの雰囲気も。 「双葉がカレシ連れて来たのは初めてだけど、カレシの家は初めてじゃないかも知れないだろ?」  兄はやめてくれ、と頭を抱えてしまった。兄を困らすのはやはり愉快だった。だがやはり、妹とそのカレシの話でというのは不本意だ。そういうわけで上の階には行けそうにないから、ボクは兄がバイトに行くまでリビングに2人でいることにした。 「輪太郎兄さんだって遠慮しないで、連れて来たらいいじゃん。そのほうがボクも双葉も嬉しいよ」  兄は返事をしなかった。ボクは凛々しい兄の俯いた顔を見つめる。食器を洗っている音だ。 「俺は双葉が幸せなら相手は誰だっていいんだ。でも双葉が泣くようなことがあれば、俺はあの男を許せない」  兄は独り言のように言った。それは遠慮?それとも片方だけとはいえ血を分けた妹への愛?それならボクも女の子に産まれたら兄はこれほどまでに手を焼いてくれた?きっとボクが女の子だったら兄のことを誘惑してしまうだろう。そして兄をいっぱい困らせる。 「一枚(ひとひら)は安心だ。男だし、しっかりしている。頼もしいしな。でも双葉は女の子で、内気だ。騙されて傷付いたら可哀想だろう。俺はお前と双葉を安心出来る相手に任せられるまでは…考えていない」  兄が平然とボクの前で無自覚に煽ってくるこの環境にいる以上、ボクは兄以外の(つがい)を見つけられそうにはなかった。でもきっと兄はそれを知る由なんてない。多少の遠慮や線引きをしていても兄が警戒せず無防備にボクに接してくる今を捨てる気はない。妄想の材料を日に日に兄は知らず提供しているのだ。そしてボクはその材料をオカズに、トぶ。いや。飛ばす、かな。 「ボクのことも心配してよ」  ボクは兄以外愛せない。きっと。両親のことも双葉のことも好きだけど兄へのものとは違ってることがはっきりと分かる。 「一枚(ひとひら)はしっかりしてるから」  双葉のほうがしっかりしてる。それにボクが兄に黙ってどんなことをしているかなんてきっと兄は知らないし想像もしてない。ボクが兄への気持ちが果たされないから女を取っ替え引っ換え抱いて、簡単に捨ててるってこと。  ボクは兄を見つめた。どうしてボクは妹じゃないんだろう。でもきっと、ボクが女だったら兄への叶わない恋に狂って今みたいに関係ない異性を漁り貪り食べるんだろうな。それできっと多分、(みごも)っちゃう。…双葉は兄をどう思っているんだろう。どうしてボクは妹に産まれてこなかったんだろう。いやだよ、女なんて。月1で股から血を流すなんて面倒だし、多分その前からお腹痛くなったり頭痛くなったり、不機嫌で。兄は女と付き合うってどういうことだか分かってる?きっと真面目で優しくて義理堅い兄はボクみたいに質より回数だなんて考えたこともないんだろうな。  階段から足音がする。短い。男としてはどうなんだろう。ボクはいつもと違って客人を見送ろうとはしない兄に代わり、双葉たちが降りてくる階段へ向かった。 「お邪魔しました」  チャラチャラしたかっこいいカレシはボクの奥の兄を見ていた。後からついてきた双葉もやっぱりボクのことは見ていなかった。仲は悪くない。声をかければボクとは反対のツリ目をボクに向ける。 「じゃあね、王島くん」  双葉はいつもの表情の無さで、手を振ることもしない。そして呼び方。カレシではないのか。 「双葉のお兄さん、ばいばい」  ボクは多分この子より年上だ。でもボクのあまり男っぽくない見た目のせいなのか、チャラチャラした双葉のカレシがボクを見てほくそ笑む。勝ち誇っているような。そうだよ、君のほうがずっとかっこいい。 「うん、双葉のこと、よろしく頼むね」  多分お互いあまり印象は良くないんだろう。カノジョの兄なのだから、もう少し柔らかい態度は出来ないのだろうか。双葉は見送ろうともせず玄関にいる。王島クンが帰ると、双葉は兄に呼ばれた。ボクがカノジョを連れて来たら、兄はボクに何か言った? 「双葉、大丈夫なんだろうな?」 「何が」  兄は溜息を吐いて、双葉に座るように言った。 「一枚(ひとひら)」  玄関に立ち尽くしたままのボクを兄は呼んだ。そういう話の流れで呼ばれるのはあまり本意じゃないんだけどな。ボクは双葉の隣、兄の斜め対面に座った。 「一枚(ひとひら)からも何かあるだろう?お兄ちゃんなんだから」  双葉のキリッとした目がボクを見た。訝しんだ、ちょっと怖がる目。ボクは双葉を怒ったことがない。ボクは双葉と喧嘩をしたこともない。ボクと双葉は兄妹だけど、そこに兄という存在がいるだけで、ボクと双葉はどこか他人のようだった。ボクと兄、双葉と兄だった。ボクも双葉はそれぞれ兄を共有した一人っ子みたいだった。それなのに兄の遠慮がちなものが、ボクを一人っ子にする。双葉にはちゃんと兄のくせに。 「双葉。カレシは家に誰もいない時に連れて来るものなんだよ」  兄は額を押さえて頭を振った。 「ごめんなさい。でも健全なお付き合いだから、大丈夫」  兄は双葉と見つめ合った。ボクはその2人の間に掌を翳しそうになって、留まる。 「…双葉を信じる」  双葉の顔色は変わらない。一貫して表情がない。ボクも感情を出さないくらいいつも笑っている。だから兄はボクを心配しないのかも知れない。でも双葉の表情が無いのは別に悲しいとかつらいとか痛いとかじゃない。兄はそれを分かってるのだろうか。 「ありがとう、兄さん。これ食べていい?」 「双葉に作ったんだから当たり前だろう」  リビングのテーブルに置かれた皿を双葉が取った。ラップが曇った、小さなオムライス。ボクは双葉が羨ましくて仕方がない。

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