7 / 7

 丸でこの世とあの世を隔てるような鉄の扉が重い音を立てて閉まる。  火葬炉へ運ばれた結子の亡骸は、これから小1時間かけて焼かれる。肉体は灰となり、骨だけが残る。なんと空虚なことか。  火葬炉の扉をぼんやり見ている狼詠の横顔が、いつかの結子と重なって見えた。あれは、そう、飼い犬の八が死んだときだ。何もない夜の砂漠の真ん中で闇を見つめ立っているような、虚無を抱いた横顔だった。  大和は狼詠を置いて外に出た。  草木が生い茂るそこは強い陽射しに焼かれ、四方八方蝉ので溢れていた。  隅に置かれている灰皿の側で煙草を取り出し、一服する。1本で済まないのはいつものことだが、今日は自覚するくらいに吸う本数が多い。  指で顳顬を押さえた。鈍痛を感じるが、車を運転しなければならないので、薬を飲むわけにはいかない。煙を吐くと同時に溜め息を吐く。  骨上げまでにどれだけ増えるのか。潰した吸殻を水に浮かせて2本目に手をかけた。  ふと、狼詠がやってくるのが見えた。相変わらず雛鳥のような足取りだ。狼詠を初めて見たときも思ったが、本当に結子そっくりだ。よちよち歩きで大和の後ろを付いてまわっていた小さな結子の姿を思い出す。  狼詠は大和が居ることに気付いていないようだった。硝子の開き戸を重そうに押して外に出ると、降り注ぐ陽射しの中に立って見上げる。  よくもああ綺麗に黄変したものだ。寝癖なのかただの癖なのか興味もない、動物の耳のように側頭部からやや下方外側にはねた癖のある髪が橙色に輝いていた。白い手足は光を放って見え、そのまま灰となって消えてしまいそうで、また、狼詠自身がそれを望んでいるようで、大和は銜えていたまだ火をつけていない煙草を捨てて背後に寄る。 「馬鹿か、お前」  一瞬、紅い、硝子のような瞳に囚われた気がして、眩暈がした。  結子もこの目に國靖を見たのか。  國靖は、一部の色素がないアルビノだった。目だけが、強欲、嫉妬、色んな炎を宿したように赤々としていた。  込み上げる忌ま忌ましいものを奥歯で噛み殺す。  もう非力な子供ではない。しかし、大人になっても心は幼い頃植え付けられた父親の姿に怯えている。苛立ちは、そんな自分に対するものだ。狼詠が疎ましいわけではない。 「来い」  狼詠の腕を強引に引く。折らないように力加減を勿論して。 「上着は如何した」  中まで引っ張ると軽く放った。転んだときといい、どれだけ脆弱なのだろう。狼詠はよろけてぶつけた背中を丸め、乾いた咳をする。 「置いてきた」  そして取りに行くのか逃げるのか、やってきた方角へ躰を向けた。そのとき、赤くなった腕が目に入る。  運が良かったとしか云えない。これまで幾度と巡ってきた夏の炎天下で皮膚が爛れるほど焼けなかったのは、狼詠が活発なタイプではないことも幸いしたのだろう。  故人について語り合うつもりもなし、狼詠を止める気は大和になかった。しかし、気付いてしまった以上放っておくわけにはいかず、彼の行く手を、咄嗟に壁に突いた手で遮り制する。そして日光が当たらないように覆い立つと、怯えた眼が大和を見た。  大人の、しかも、黙っているだけでも恐い男に壁際に追い込まれたら、当然の反応だろうが、大和は狼詠を怖がらせる為にそうしたわけではないのだ。 「日除けにはなるだろう」  他意は無い。少なくとも、このときは。 「そこまでしてもらわなくても大丈夫――」 「なら斯うはしない。お前が如何なろうが俺の知った事ではないからな」 「矛と盾の話、知ってます? あなたが今云ってることとやってることがそれですよ」  矛盾。  それは大和が良くわかっている。  構う気などなかったはずが、なぜ先刻その細い手を引いてしまったのか。今も、日差しから守ろうとしているのはなぜか。  単なる大人の義務感か。それとも、やはり他人の子ではないからか。きっと放っておけない何かが狼詠にあるのだ。そう、たとえば、今、大和を押しのけようと必死になっているが、躰を擽っているようにしか思えない貧弱さとか。 「お前は馬と鹿だ」  大和は狼詠の手首を掴み上げ、その腕を狼詠自身に向ける。 「お前の肌は紫外線を吸収しない。焼ければ黒くならずに爛れるだけだ。皮膚癌になるリスクも高いのだぞ」 「俺にはそんな設定ありません。白いのもただの個性ですから」 「生意気な口を叩くな。見ろ」  ぐいと腕を近付けた。凄まれていると思ったのか狼詠は押し黙り、眉間に皺を寄せる。奥二重の重そうな瞼で、目頭と目尻がほぼ平行の位置にあるから普通にしていても眠そうに見える目が、細くなると寝起きの顔そのままだ。もっとも、寝起きにどんな顔をしているかなど知らないが。  狼詠は、そのままじっと自分の腕と睨めっこをし、短時間のうちに日に焼けて赤くなったそれを認めると「だから、なに」と、ふいと顔を外方向ける。「俺のことなんてどうでもいいんだろ。だったら放っておいてよ」  言葉は生を放棄していた。自分の死にしか興味がないのだ。  伏せられた白い睫毛が愁えて見えた。大和が掴んだ手を振り解こうともしない。  無気力故に無抵抗。今、たとえば命を奪われそうになっても抵抗しないだろう。寧ろ殺してくれと云うかもしれない。生と死の境界線上を綱渡りしているような危うさまで結子に似てしまったのか。  ふと、狼詠に結子の姿が重なった。 『最期は、この花んように綺麗なまま死にたいの』  学校の帰り道、落ちていた椿の花を見つけて駆け寄る結子が、紅いそれを掌に乗せて云った言葉だ。幼い頃に隣家の青年に貰ってからずっと持ち歩いていた古いインスタントフィルムカメラで撮ったその横顔は、色褪せた今も部屋に飾っている。 『ほうじゃ、兄ちゃん』  レンズに向かって両手を伸ばす結子。丸で首を絞めるような仕草に、刹那、大和の首に冷たい五指が触れた気がした。 『兄ちゃんがうちを殺してや。うちの息が止まるまで、1秒も目を離さんで』  彼女の儚げな微笑は、恋愛感情と錯覚させるほどに美しかった。  大和はその真っ白な首に手を伸ばした。腕と変わらないと云えば誇張になるが、腕同様簡単に折れそうだ。手中に収まるそれを、ゆっくり絞めていく。  ほら、予想通り。狼詠は抵抗しない。死を望むように、大和の感情のない顔を、ただ見ている。  其の顔で、男に抱かれながら逝ったのか――  力が加わるにつれ、歪む狼詠の表情(かお)は、あの夜に見た結子の恍惚としたそれと同じだった。  潤んだ瞳。苦しげに息を吐こうとする開いた唇に誘われ、口付ける。 「お前も一層、母親と同じ様に犯されながら死ぬか?」  無論、大和に強姦殺人の趣味はない。ほんの少し、加虐心が湧いて揶揄ってみたくなったのだ。これで何の反応もなければ興が醒めるところだが、されるがままだった狼詠の手が、首を絞める大和の腕を弱々しくではあるが掴んだ。 「……れは、……さん……ちがう……!」  俺は、母さんとは違う――紫色の小さな唇は、確かにそう動いた。感情を宿した目で、まっすぐに大和を見据えながら。  狼詠も大和と同様に親の血に怯え、抗っているのだ。 「冗談だ」  手を離すと、首には白いキャンパスに赤い絵の具で手形を付けたようにくっきりと、見事な跡が残っていた。  大和は咳き込む狼詠を冷然と見下ろす。  蝉のが無数に重なり頭に響く。  顳顬を押さえた。  狼詠の指が触れた跡が、妙な熱を持っていた。  背中を焼く太陽は、蝋の翼を溶かそうと云うのか、容赦がない。  屋内に居ても額や首筋から絶え間なく流れ落ちる汗がワイシャツを濡らし、すっかり肌に張り付いてしまった。  煙草を吸いに来たはずが、子供の前で吸うわけにはいかず、なぜ引き留めてしまったのかと思うが、後悔するほどでもない。寧ろ狼詠が居ることで喫煙に抑止がかかったと考えるべきだ。だが感謝はしないだろう。暇を持て余し、狼詠を見ていることしか他にないのだから。  白い――伏せた睫毛が雪で凍っているようだ。  神秘的な外見に物憂げな表情、危うさを秘めた儚げな雰囲気は、将来、同性さえも魅了するだろう。それを武器とするか否かは狼詠次第だ。  未来からテレパシーを受け取ったようだった。成長した彼が見えた。結子に似ても似つかない、狼詠と云う個の人間の姿が。大和に微笑んでいる。  刹那、眩暈がした。 「吸えば?」  どこか、遠くへ飛んでいた意識が狼詠の声で戻った。 「わりと平気だから、俺」  狼詠がと目を呉れた胸ポケットに視線を落とした大和は、無意識に叩いていたのだろう、メヴィウスの箱に乗った指に気付き、その手を腰に下ろす。 「癖だ」 「ストレスだろ。吸いたいならどうぞ。またあんなことされたら嫌だし」 「『あんな事』」  目に付いた狼詠の側頭部の髪のに手を伸ばす。  大和は考えごとをするときに指を動かす癖があった。叩くときは大抵ストレスを感じているときなので、彼の読みはあながち外れていない。鋭いくらいだ。  柔らかいが芯がある。触り心地は悪くない。仔犬の耳を触っているような気持ち良さだ。カーブを指先でなぞり、つまんで弄る。 「さっき」間を置いて狼詠が云いたくなさそうに口を開いた。「どさまぎで……しただろ」  ああ。  大和は、外方を向いて尖らせた狼詠の唇に頷いた。  したな。  気付いていたのか。或いは慣れているのかと思ったが、キスと云わずに口籠もるあたり、そうではないらしい。乙女のような恥じらいを見せられると、また、悪戯心が顔を出す。 「何を」  髪に絡ませた指をくるりと一回転させて離せば、パグの耳だ。 「なにって……」 「何?」  大和に顔を寄せられた狼詠は、これ以上回らないと云うほど反対側に顔を背け、小さな声で云う。 「だから、あんなこと、だよ」  ほんの少し赤みが差した頬を、汗が流れる。服のサイズが合わず大きく開いた襟の隙間から覗く、骨の浮き出た肌を舐めるように伝って小さな乳頭を濡らす汗を見届け、大和は視線を上げた。  白い肌に、施設の児童だろうあの女郎蜘蛛の少年のふくよかさと艶のある唇であればまだ美しく見えただろうが、それでも、大和自身理解しがたい、かさついた色の悪いその唇に、もう一度口付けたい衝動に駆られる。 「斯う云う事?」  大和は狼詠の顎を取った。  今度は、そうだ、刹那よりもう少し長く。  狼詠は目を丸くして、力の抜けた無防備な唇に舌を入れる隙さえあったのだから、よもや触れる寸前で突き飛ばされるとは、予想していなかった。しかも、乙女のように顔を真っ赤にして怒るかと思えば、大和に全く目も呉れず駆け出す。  折れそうな細い腕に手を伸ばしたが、掴んだところで何をすると自問してやめた。  夏の悪戯。気の迷い。妹の、更には見窄らしい子供に手を出すほど欲求不満ではないはずだ。  狼詠の云う通り、放っておけばいい。引き留めてしまったのが、そもそもの間違いなのだ。  メヴィウスの箱を手に外へ出た。遮られていた蝉のが熱気と共に溢れる。  蜃気楼か。背中に虹色の蝶の羽を生やした結子が飛んでいた。それを狼詠が追いかけている。  寂しい女だ。ろくに面倒も見てやらなかった息子を連れて行きたいほど、ひとりで黄泉へ逝くのは嫌らしい。 「狼詠!」  突然名前を呼ばれたからと云っても、振り返った狼詠はそれ以上に驚いた表情(かお)をしていた。刹那、足を滑らせ、バナナの皮を宙に飛ばして転ぶ。その後ろには信楽焼か、特大サイズの狸の置物。  大和は走った。しかし間に合わなかった。  倒れた狼詠に光の粒子が降り注いでいる。見上げると、結子が無表情のまま光の涙を流していた。それは全身から流れ、彼女の形を崩していく。最後に残ったひと粒が弾け、現れた虹色の蝶が大和の目の前で舞い、飛び去った。  視線を足元へ落とす。 「狼詠」  返事はない。息は、している。どうやら狸の不自然に大きすぎる陰囊(ふぐり)に後頭部をぶつけて気絶しているだけのようだ。  細い躰を慎重に抱き上げた。軽すぎる。骸を抱いているようで不快だった。  待合室では、大和のものと思われる背広が床で振動音を響かせていた。携帯電話だ。内ポケットから取り出し、相手を確認する。零鵺だった。 『今、東京に居るんだ』  零鵺は現在大阪の大学に寮を借りて通っている。結子の死は知らせていない。死因を含め、零鵺には伝えない方がいい気がしたが、偶然にも今日このときに電話がかかってくるとは、結子が呼んだのか。 「結子が死んだ」  当然、受話口から聞こえる声は驚いていた。 『え、何で? いつ? 大和くんは、結ちゃんの居所知ってたの?』  或いは内緒でずっと一緒に暮らしていたのか――兄を信じてはいるが、2人は昔に兄妹の一線を越えてしまっている。おまけに結子は失踪当時國靖か大和の子を身ごもっていたのだから、人知れず家族を築こうと考えても不思議ではない。  しかし、突然警察から連絡を受けたこと、そのときに結子が結婚をして子供と横浜に住んでいたことを知ったと大和の口から聞き、零鵺は僅かでも抱いた疑念を恥じた。 『他殺、なんだ』 「らしい。今、火葬中だ」  なぜ教えてくれなかったのか。もう二度と、姉の顔を見ることは叶わなくなってしまった。  云いたいことは勿論あったが、それ以上に死の事実がショックで、零鵺の口から出る言葉はなかった。沈黙でそれを察し、大和は「悪い」と云う。 「急用が出来てな。骨上げを頼まれてくれないか」 『……いいよ、わかった』  住所を伝え、通話を切る。そして腕の中で眠る狼詠を見た。  青白い顔で、息をしていなければ死んでいるように見える。同じ腕の中で息を引き取ったあの衰弱した子猫を思い出し、無意識に強く抱いた。

ともだちにシェアしよう!