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 業火の中から生れ出づ。それは火の鳥が如く。蝶を宿し焔を劈いて。  鮮やかな緑に彩られた森の中、茂る草を踏み拉いて七色の蝶を追う。  これが夢であることはわかっていた。なぜなら、蝶を追いかける大和は子供だったからだ。  木漏れ日に透き通って輝く七色の光を見失わないよう、見据えながら走る。  軈て木々に覆われた広い空間に辿り着いた。  そこは静かで、鳥の声も風の音も一切聴こえない。蝶は疎か虫一匹さえ見当たらなかった。それでも、生命が確かに息衝いている。  不意に心音に似た音が響き、小さな光が大和の頬を掠める。  七色の蝶。彼が探していたあの蝶だ。  軽快に舞いながら中心へ差し掛かる。刹那、地面が火を噴いた。  忽ち上がる火焔は蝶を包み込み、音を立てて赤く、紅く、天を焼かんと昇る。  溶けるように崩れ、七色の光の粒子となって消える蝶。大和は、恐怖よりも美しさに声を失い、呆然とそれを眺めていた。  すると瞬く間に命を得た火が踊り出し、円を描き縮こまる。その姿は丸で胎児そのものだ。  聞こえる。どこからともなく、泣き声が。命の産声が、業火を劈き掻き消す。  風が息吹く。鳥達が生命の誕生を尊ぶように唄いはじめた。            * 「最期は、この花んように綺麗なまま死にたいの」  さあと吹いた風が栗色の長い髪を流す。目を閉じ、掌に乗せた椿の花に口付ける結子の横顔は儚げで、その幻想的な美しさに指は自然とカメラのシャッターを切っていた。  此れがお前の望んだ最期か。  冷たい安置台で眠る結子の酷く窶れた顔に大和は問いかけた。沈黙する彼女の閉じられた瞼は落ち窪み、安らかと云うよりも疲れきっているように見える。理想の死を語った頃の面影は、もうどこにもない。  11年前に失踪して以来だからだろうか。変わり果てた妹の姿を前にしても、大和の中に湧く感情は皆無だった。  忘れ形見が居ると聞かされたときも同じだ。覚めた心中で矢張りと呟いただけ。なぜと問われれば、彼女が居なくなったと電話をかけてきた零鵺が何かを云いかけてやめたこと、そしてその年の12月23日に見た夢で、何となくそんな気がしていた。それがどちらの子種であるかは断定できないが。  名前は何と云ったか。  大和は興味のないものにはとことん無関心だった。  自分の子であろうとなかろうと、引き取る気は更々ない。濃いか薄いかの違いだけで、憎い男の血が流れていることに変わりはないのだ。友人にさえ自分の領域を侵されることを嫌うのに、そんな子供とひとつ屋根の下でどう暮らせようか。無責任と思われようが、可愛がってやれないとわかっていて引き取る方が無責任だろう。  情が薄いとよく云われる。実際そうなのだろう。哀れとは思っても可哀想だ、手を差し伸べようと思ったことはただの一度もない。名ばかりの恋人と、それが原因で別れたのは、さて、何回だったか。興味がないので覚えていない。  だが、不思議なことに、結子の子供の名前は覚えたつもりはないが記憶していた。  銀椿(ぎんつばき)狼詠(ろうえい)――  自宅で保護され、今は児童養護施設に居るらしい。  道すがら結子のことを考えていたが、やはり湧くものは何もなかった。夫が蒸発し、男と情交のさなかに息絶えた哀れな女――その程度だ。  東京と横浜。近い距離に居て、結子とは随分遠ざかってしまった。行方を探していればあるいは結末は変わっていたのかもしれないが、お互いそうしなかったのは、怖かったからだろうか。否、忘れてしまいたかったのかもしれない。2人が抱いていた幼い感情も、全て。  施設を訪れると、外で遊んでいた子供たちがたちまちのうちに大和を取り囲み、口々に話しかけてくる。子供は嫌いではない。幼い妹と弟の面倒を見ていただけあって扱いにも慣れている。適当に相手をしていると、中肉中背で見た目からお喋りなおばさんの風貌をした女性が訝しそうにやってきた。緑色のエプロンの胸に『やまなか』と書いた名札を付けていたから、ここの職員だろう。 「うちに何か?」 「狼詠と云う子が此処に居ると聞きました。銀椿狼詠です」 「ああ、あの子。かわいそうに、虐待されて。ここは皆、そういう子たちばかりですけどね。暴力もあったみたいだけど、ねぐれくと、と云うのかしら? 育児放棄されたのねえ、もう本当がりがりで、色も真っ白。ショックで髪が白くなるって云いますけど、全身が白くなるなんてことあるのかしら。私びっくりしちゃって。ここで長く働いてますけど、そんな子は初めてで。私にも息子が2人居ますけど、お腹を痛めて産んだ子をあんな風にするなんて信じられないわ。本当に酷い母親よ。いいえ、親じゃないわ、親失格よ。色んな男と浮気してたって云うじゃない。それは旦那さんも逃げたくなるわよ。自業自得。あんな恥ずかしい死に方をして、残った子供がかわいそうと思わないのかしら、ねえ? 私はいつも、かわいい息子に恥をかかせないようにって、それだけをね、思ってるの。あなたは? あの子のお父さん?」 「其の母親の兄です」  伯父とひと言で答えなかったのは、顔を合わせるどころか存在すら知らなかった狼詠とのあいだに、さも血縁の関係がある言葉を使いたくなかったからだ。 「あら、やだっ。それならそうと早く云ってくださいよ」  そっちが勝手に喋りだして云う隙を与えなかったのだが。  不審者と思っていたわりに、云えばあっさり信じる。純粋と云う歳でもないだろうに。これが本当に犯罪目的の他人であったら、完全にアウトだ。 「お兄さん、あの子、あんなに白くなるまで、辛かったと思うわ。幸せにならないとかわいそうよ。母親の分まで愛情を注いであげてくださいね。お部屋に居るかしら。呼んできますから、さあさどうぞ、中でお待ちになって、ね」  スキップでもしそうな弾んだ声。大方引き取りに来たと勘違いしたのだろう。可哀想などと口で云うより心は幸せを願っていない。厄介払いができて嬉しいわと暗に云っているようなものだった。狼詠という子はあるいは問題児なのか。 「結構。此れから母親の火葬をするので同行するなら外で待って居ると伝えて下さい」  はあ、とヤマナカは頬に手を当てて不満そうに返事をした。その目には、かわいそうに親族なのに引き取ってあげないなんてそれでも人なのと非難の色が浮かんでいる。  他者を非難したがる人間は居る。大抵が自分は違うと優越感に浸りたい故に思える。私は息子に恥をかかせないようにしている、が良い例だ。それを咎めはしない。云われて当然とはいえ実の妹を非難されても、目の前に居るのが非難した女の兄とわかっても悪びれがなかろうと、どうでもいい。たとえそれが自分のことであっても同じだろう。他人がどう云おうが構わない。そういう人間なのだ、大和は――桐生誠一とは。  ただひとつ気になったのは、ヤマナカが話の中で一度も狼詠の名を呼ばなかったことだ。子供の名前も呼んでやらないとは、どういう扱いをしているのか。もし虐待の証拠でも出れば、小日向(こひなた)に記事を書かせてもいいかもしれない。小日向は真理を追究する男だ。子供から権利を奪う大人と大人の犠牲になる子供の現実を、直視できないほど深く抉るだろう。だが、彼が編集長を務める週刊SeVENは、芸能人の不倫セックスやれJKの裏ビジネスやれの卑俗な雑誌で、そんな記事は塵紙代わりに糞でも拭いて捨てられるのが関の山だった。 「誠一……?」  呟いた少年の声が聞こえて振り向くと、中学生くらいの男子が驚いた表情で大和の顔をまじまじと見ている。 「あ、あの、桐生誠一さんですよね? 高校アマチュアボクシングで、無敗帝王だった」  無敗帝王――これはまた、懐かしい名が飛び出してきた。高校時代にアマチュアボクシングでついたふたつ名ではないか。 「ファンなんです! サイン、いえ、握手だけでも!」  いそいそと服で擦った手を出す少年の、憧憬で輝いた目は眩しく、無邪気に大和の古傷を抉る。  あの日――ボクシングをやめた日。  無敗の記録が懸かった決勝戦の前日、大型トラックに轢かれそうだった仔猫を庇って撥ねられた。仔猫は弱っていて、腕の中で悲痛なか細い鳴き声を必死に上げながら力を失っていくのを、薄れゆく意識で感じていた。  怪我の状態は酷いものだった。医者曰く、リハビリで軽い運動はできるようになるが、ボクシングを続けることは無理だ、と。それを知ったトレーナーは大和にひと言云い残し、病室を去った。 「君には失望したよ」  仔猫を庇ったことは後悔していない。ただ、救えなかった命、救われない自分、この世の無情さに絶望を感じたのだった。 「悪いが人違いだ」  トレーナーに失望された元選手が握手など至極滑稽。  ポケットに偶然入っていたレモンキャンディーを、少年の出された手に渡し、敷地の外に出る。そして、ワイシャツの胸ポケットに入っているメヴィウスの箱を取り出すと、中から1本抜いた煙草を口に銜え火をつけた。  蝉のが暑さを助長する。  真夏と呼ぶにはまだ早いにも拘わらず、今日の最高気温は確か、30度を優に超えていた。炎天下に立っていると当然暑いのだが、涼しい顔で居るせいか、大和は暑さをあまり感じないのだと周囲に思われている。汗の量もそれほど多くないので余計だろう。  代謝が悪いのか。食事も運動も寧ろ健康的な方だが、これが原因か。  空だったはずの携帯灰皿の中に入っている数本の吸殻を見ても、煙草をやめようとは思わない。自分の死にすら興味がないのだ。  そしてまた1本、吸殻が増えた。  不意に視線を感じて目をやると、子供が居た。小学も高学年くらいか。ショートボブの可愛らしい男の子が微笑んだ。 「こんにちは」  膨らみのある色艶の良い唇を動かし、出てきたのは鈴を転がすような声だった。上目遣いで見る瞳は大きく丸く、甘え方をよく知っている。  少年の周りに張り巡らされた細い糸が見える。無論、そんなものはないのだが、確かに彼は獲物が網にかかるのを待っていた。  女郎蜘蛛のようだと大和は思った。  やってきた雄を喰ったのは1度や2度ではないはずだ。噛めば弾力がありそうな肌をした躰に、洗っても落ちない生臭さが骨まで染み付いている。  捕らえたと思った獲物に喰われたらどんな表情(かお)をするのか。誘いに乗るのも一興ではあった。しかし、どこぞの子供と遊んでやる暇は今の大和にない。それで時間を潰すほど待つ気もなかった。   「今日は」  挨拶だけ返し、新しい煙草を吸いはじめる。  暫く様子を伺っていたが、網にかからないとわかると獲物を憎々しげに見、小さな女郎蜘蛛は去っていった。大人になれば、さぞや見事な捕食者になるだろう。  待ち人が現れたのは、丁度1本吸い終わったときだった。  化けて出てきたかと思うくらい、安置所で見た結子と似ていたので、一目でわかった。先の女郎蜘蛛とは違って骨と皮だけのみすぼらしいこの少年が、妹の忘れ形見だ。  伸びた前髪から覗く目を見た瞬間、心臓を握り潰されるような緊張が走った。 「お前」  大和の低い声に、死んだ顔で立っていた少年は首を竦め、骸のような手で服の裾を握った。  仏頂面で威圧感があるものだから、彼を恐がる者は多い。本人もそれに慣れていた。逐一気にしていては精神がもたないだろう。何より、無理に愛想を振りまく方が疲れる。そうまでして人に好かれたいと思う性質ではないので、取り繕うこともしなかった。  俯いた少年の顔を、小さな顎を掴んで上へ向かせたのも、なに目ぇ逸らしとんじゃワレ、ワシの目見んかいと因縁をつけるためでは勿論ない。  強面まではいかないが、顔立ちの良さは好まれてもお世辞にも人好きのする顔と云えない大和の、目尻のつり上がった細い目は、対象をただ見ているだけでも睨んでいるようである。  ヤマナカが白いと云っていたので薄々そんな気はした。虐待のショックなんて後天性のものではない。  黄変した髪。眉毛や睫毛に色はなく、肌は血色の悪さを抜いても青白い。そして、血管が透けた瞳。これは……。  大和は寄せた顔を戻し、手を離した。拍子に風に吹かれたようにふらりとよろめいた少年が足を縺れさせ、尻餅をつく。痩せっぽちの見た目通り栄養が足りずに弱っているのだろう。威圧にやられたわけではあるまい。確かに少し突くように離したが、まさか転ぶとは思わなかった。  呆然と見上げる少年の目が疎ましく、大和は手を差し伸べようともせずに云った。 「アルビノか」  形も厚さも悪くはない。しかしほんのり紫色を帯びていて、セックスアピールには程遠い残念な唇が、少しの間を置いて動く。 「違う。俺、は……銀椿狼詠だ」  知ってる。と返してやるべきなのか。アルビノが人名だと思っているのだろうことはすぐに気付いた。  美しく云えば儚げ。ただの吹けば飛ぶような生命力の感じられない子供だが、気は強い。まともに目を合わせる者が少ない中で、少年、狼詠は真っ直ぐに大和を見返してきた。これが父の國靖だったならば、反逆を絶対に許さない脆弱な王様のことだ、生意気だと思い切り蹴飛ばして頼りの暴力を存分に振るうのだろう。それを嫌と云うほど身に受けた大和はしかし違った。  上等だ。  その目は気に入らないが、毛の先ほども湧かなかった興味が少し湧いた。 「先天性白皮症」  云いながら狼詠の腕を掴んで引っ張り上げる。細い腕だ。力を入れればきっと簡単に折れてしまう。臀部の肉は削げ落ち、触り心地は最悪だった。とだけ云えば不必要に触ったように聞こえるが、汚れをはたいてやっただけで、下心はない。  大和は、どちらかと云えば痩せているよりも肉付きの良い方が抱き心地がいいので、そういう相手を好んで選んでいる。ましてや皮の付いた骸骨とセックスをしている気になるような躰は、妹の子供でなくても対象外だ。 「生来メラニンの欠乏に因って白化する遺伝子疾患」  胸ポケットからまたメヴィウスを取り出す。  聞いているのか、いないのか。狼詠の虚ろな目は3個100円の安価な使い捨てライターから上がる火を映していた。紅い瞳の中で更に赤く燃えるそれは、狼詠が業火を宿しているようだ。  火が消えた一瞬、はっとして頻りに瞬きをする姿を見て、大和は溜め息まじりの煙を吐いた。 「躰の色素が少ない為に髪や肌が白い」  鏡くらいは見るだろう。狼詠の額に触れ、そのまま邪魔な前髪を上げて目を覗く。なんて憎らしい紅だろう。 「瞳は血管が透けて見える。お前の其れだ」  生気のないその瞳は、走馬灯でも浮かんでいるのか、虚空を見ていた。  眼球をくり抜いて潰してやろうか。  紅い瞳に対する不快、苛立ちが込み上げる。そのとき、狼詠が唐突に呟いた。 「呪いじゃなかったんだ」 「呪い?」  その言葉に大和は内心ぎょっとした。  結子が話したのか。いや、偶然だ。狼詠は呪われた血筋のことを知らない、はず。  現にそれ以上触れてほしくなさそうに――狼詠自身も目の色を気にして見られたくなかったのかもしれない――大和の手をのけた。 「もういいだろ」  確かに、わざわざ憎々しい目と見つめ合うことはない。  大和は腕の時計を見た。何と云うブランドだったか、腕時計が欲しいと云うので買ってやった代わりに寄越されたもので、趣味ではない。ついでに相手もただ同じ職場の人間というだけで、恋人でも何でもなかった。  時間を確認して背広を脱ぐ。夏用の、冷涼感がある生地のものだから、それほど暑くはならないはずだ。狼詠の頭に被せた。逮捕された容疑者のようだが、こうするより仕方がない。アルビノの肌は紫外線を当ててはいけないのだ。 「乗れ」  停めていた車を顎で指す。デミヲのノーブルクリムゾン。真紅のシートが少し派手さを感じなくもないが、黒に映えてムードのあるインテリアが気に入っている。これで隣に相手でも居れば、楽しい夜が過ごせそうなものだが、生憎と予約もない空席だった。  大和が乗って暫くしても、狼詠はその場に立ったままやってこない。 「早くしろ」  パワーウィンドウを下げて顔を出し云えば、親鳥を必死で追いかける雛鳥のようにやってくる。存外素直なようだ。  後部座席の隅で小さくなっていると本当に連行される容疑者のようだが、慎ましくて手のかかる風には見えない。それなのに、紅い瞳があの男を思い出させる。  苛立つ大和はメヴィウスの箱に手をかけた。

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