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ああ、臭い。臭い臭い。この男の体臭も、中に吐き出される汚いものも。
お腹に微かな振動を感じた。突き上げる男のものとは違う。中から蹴っているのだ。苦しんでいるのか喜んでいるのか。自分のことさえわからないのに、子供のことなんてわかるはずがない。
*
銀椿誠一 とは、流れ着いたこの島で貰った名だ。それ以前の彼に名前は無い。奴隷だった母から生まれ、当然の如く奴隷として扱われていた。
30と幾年か経って漸く社会というものに慣れてきたと思う。が、馴染めたわけではない。赤ん坊の頃から人として認められなかった彼は欠落していた。ヒトという皮を作ることには成功したが、中は、がらんどうだった。ヒトがなぜ泣いたり笑ったり怒ったりするのかわからない。身体的、精神的、性的な暴力に晒され続けた彼の心は幼少期にはすでに死んでいたのだ。だから、前を歩く少女の倒れる躰を支えたのは、優しさではなく、観察によるものだ。
この場合、ヒトは何と声をかけるのか。
彼は、ロボットがデータを検索するように、これまで観察したヒトの中から適切と思われる言葉を選ぶ。
「キミ、大丈夫か」
無機質な声だった。
感情の無いところが兄に似ている――男の顔を見たいと思ったが、結子の瞼は重く、上がらなかった。
結子は妊娠していた。憎い父の子か、愛する兄の子か。産むのか中絶するのか。世間は結子の歳で子供を育てることは無理だと云うだろう。祖母の蜜が知ったら、産めと云うだろうか。命の大切さを説くのではなく、男の子なら蜜の、女の子なら國靖の、性の奴隷にするために歓喜して。どちらも精神を病んだ結子には決められなかった。そんな折、偶然にも兄が東京で暮らしていると聞いて、情動的に病院を飛び出したのだった。
身重の身ひとつの結子がどうして広島を出ることができたのか。ヒッチハイクと呼べるのなら、それになる。
裸足のまま歩いていると男に声をかけられ、東京まで連れて行ってくれると云うので車に乗ったが、強姦された挙句、事が済むと外に放り出された。次に声をかけてきた男は、途中まで乗せる代わりにセックスを要求してきた。そして、結子は自ら躰と引き換えに神奈川まで辿り着いたのである。
どうしてそんな身の上話をしたのだろう。倒れた自分を病院に運んだ男の纏う雰囲気が、兄と同じ性質のものだったからだろうか。
無感情な鳶色の瞳で、唐突にはじめた結子の話を静かに聞く誠一は、彼女が汚されたことに憐憫の情を抱くことも、かと云って厭忌することもなく、ただ、結子とそのお腹の子供を気にしていた。
勿論、相手を心配するという気持ちがどういうものなのか、彼は知らない。興味があった、と云うべきか。
結婚しますと知らぬ男女が笑っていた。妻がおめでただと、知らぬ男が喜んでいた。その幸福に満ちた表情 の理由を、夫となり父親となれば、知れるのだろうか。
考える誠一の、顔の右側に、結子の手が伸びた。
「目、どうしたん」
小枝のような痩せた細い指で、眼帯の上から眼球の形をなぞる。
どうして、ヒトでいるための嘘の理由を使わなかったのだろう。
「奴隷だった頃、精液をかけられ、失明した」
結子もまた、厭忌しなかった。
「かわいそう」
そこに憐憫の情があったかはわからない。
「うちも、あんたも、かわいそうじゃの」
云って見せた結子の儚い微笑に、突き動かされたものはなんだったのか。
「私をキミの夫に、そしてキミのお腹の子の父親にしてくれないか」
驚き、笑って、泣いた、彼女の涙の理由は、わからないままだ。
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