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 そこそこ広さのある洗面所は、やってきた当初いかにも独身男が使っているという感じで大変汚れていたが、今は大和が毎日掃除をしているので綺麗だ。今日も長方形大の鏡を拭く彼の、眼は向こうで動きを真似る自分を追う。  細くつり上がった一重の目、薄情そうな薄い唇――國靖にそっくりで憎らしく、思わず殴ってしまいそうになる。  ふと、鏡に映る彼の表情が歪んで見えた。それは次第に薄気味悪く下卑た笑みを浮かべる國靖の顔に変わる。  またか。  顳顬部分が脈を打つ。よくある偏頭痛だ。  奴がその顔を見せはじめたのは、名前を変えてからだった。桐生誠一として生きる1歩を踏んだ日、大和の前に現れ云ったのだ。 『逃げても無駄じゃ。おどれの中ん在るわしの遺伝子が、いずれおどれを業火に焼かせる。必ず……』  いつも同じ。喋るはずのない鏡像が、聴こえるはずもない声を頭に響かせ、高らかに笑いながら風に煽られた焔のように揺らめく。  その姿が突如音を立てて罅割れた。  公造に勧められて始めたボクシングで鍛えた拳が、鏡の中の國靖に向かって突き出されたのだ。  万華鏡のように映っているのは、忌まわしい父親ではなく大和自身の姿だった。打ちつけた拳を離すと、それが崩れ落ちていく。  ワンルームなので、割れた鏡の破片が落ちる音は、ソファーで寛いでいた公造の耳にも届いた。 「誠一くん。音がしたようだけど、何かあったの?」  顔を覗かせ、中の惨状にきゃっと声を上げて口に両手を当てる公造。男だと自覚しているし、性別に不満も違和感も無い彼だが、仕草は本当に女性のようだ。 「やだ、なに? なに? どうしたの」 「悪い。鏡」  大和は一見冷静に前髪を掻き上げた。汗だろう、じっとり湿っている。「めがした」 「めがした、て……」  無惨に割れた鏡は中心より少し上から罅が広がっている。何かを勢い良くぶつけたのだろうが、落ちているものと云えば鏡の破片くらいだ。大和の手にも何も握られていない。  どうやって?  鏡が勝手に割れたと云うのか。その疑問は訊かずともすぐにわかった。 「ああ、血が出てるじゃない!」  髪を掻き上げた大和の、手の甲にできた裂け目から流れる血が腕に赤い線を引いて肘を落ちていく。云われて気付いた当の本人は、それを見ても顔色ひとつ変えることなく平然と口を開いた。 「大した傷では」 「あるよ!」  この、にぶちん! と公造に腕を引っ張られ、水道水で傷の洗浄をされる。  鏡の破片をすり抜け、渦を巻いて排水溝へ吸い込まれていく紅――丸で、業火が螺旋を描いているようだった。  大和はもともと痛みに強かった。それが『鈍い』に変わったのは、あの夜の出来事があってからだろう。  幸い大きな傷ではなかったが、それでも、自分の手に針を刺され糸を通されても眉をぴくりともさせない。無表情である。 「やっぱり整形したい?」  手元を眺めていた大和の目が公造の顔に向いた。細く、目尻が上がっているので、どうしても睨んでいるように見えてしまう。父――国靖はそれが生意気だと殴ったが、鏡を見ないのだろうか。国靖も同じ、いや、あらゆる欲望に囚われた精神は顔を醜く歪ませ、似ても似つかぬ目つきの悪さだった。  傷口を手際よく縫い終えて糸を切る公造の俯いた表情(かお)は、自責の念に苛まれながらも寂しそうだ。  伊達に心理学を学んでいない公造にはわかる。……わかっていた。大和が鏡に映った自分の姿に憎い父親を見ることは。  顔を変えたいと相談されたときに承諾していれば、こんなことにならなかったのではないか。 「僕はね、アンチ整形ってわけじゃあないんだよ。誠一くんが今辛いなら、この先幸せになれるなら、整形した方が絶対にいい。ああ、お金の心配はいらないよ。副業の稼ぎがいいからね」  医学の知識も有していた公造は、臨床心理士の傍ら闇医者をやっていた。なぜ普通に医者にならないのかと云う問いに、これだよ、と悪人に程遠い笑みで親指と人差し指で輪っかを作って見せたのだった。  費用は、アルバイト、そして就職と、いくらかかるかわからないが、何年かかっても返すつもりだ。大和を思いとどまらせるのは、公造の、寂しげな表情(かお)の、その理由だ。 「公造は、此の顔が好きだろう?」  訊かれて確かめるように大和の顔を見る公造。 「好きだよ」  その顔に真正面から見つめられると照れる。本当に、冷淡に見えるところが初めて好きになった人とよく似ている。「でも」公造は曇った表情で視線を落とした。勝手な押し付けで大和の人生を壊してはいけない。 「なら、此の顔で良い」  愛、ではない。同情でもないだろう。  献身だ。親に愛されなかった子供が、愛される為に尽くしているだけなのだ。 「誠一くん」  包帯を巻いた手を両手でぎゅっと握り、大和を見つめる。  臨床心理士として、大人として、赦されることではない。だが、公造も欲に弱い人間だ。 「抱いて」  公造はゲイだ。それを開けっ広げにしていたので、ある日大和が何の興味もなく男同士は気持ちいいのかと訊いたところ、試してみる? と始めた躰の関係が、大和も拒否しないために何となく続いているだけで、好き合っているわけではない。大和はただ公造の求めに応じ、公造は大和をセックスの相手として、シンプルな付き合いをしている。  大和に献身の意識はなかった。愛がどういうものなのか気にはなるが、欲しいと思ったこともない。全ては愛情に飢えた無意識の為せる業だった。加えて天賦の才でもあるのだろう。いいところを教えずともすぐに探り当て、器用な指遣いで公造の躰を大いに悦ばせた。  いい、イク、イク――いい歳をした男のだらしない声、後ろを衝く脳まで蕩けそうな音、そこに聞こえる着信音。  偶然目に付いた光るディスプレイに弟の名前が表示されていたので、大和は腰の動きを止め、それを手に取った。 『結ちゃん来てない?』  地元を離れたとき以来だと云うのに、挨拶もそこそこに、おかしなことを訊く。退院を知らされていなければ、結子はまだ病院に居るはずだ。 『居ないんだ。3日間探してるけど見つからない』  しかし大和が東京へ行ったことは知らないはず。 『桐生先生と大和くんの話をしてたんだ。それを聞いてたのかも』  零鵺と話をしているあいだ、大和の指は公造の尻を叩いていた。尻に限らず手元にあるものを叩く。癖だった。 『もし、結ちゃんが来たら捕まえといて。迎えに行くから』 「ああ」  会話もそろそろ終わりにしなければ、公造が、さっきからずっと、じっとりとした目を向けている。  適当に電話を切ろうとした矢先、大和くん、と零鵺が呼んだ。 「如何した」  明け透けな零鵺にしては珍しく云い淀み、暫く閉じて開いた口は明らかに何かを隠している。 『うんん、呼んでみただけ』  通話が切れた刹那、唐突に降ってきた雨が窓を強く叩く。美人なお天気キャスターは今日の天気を雨だと予報していただろうか。天変地異の前触れにすら思えた。 「いやだ、洗濯物」  公造と見遣った硝子の大和の姿は歪み、嘲笑う国靖の影が水底で揺らめくように映る。  突如として襲う偏頭痛。大和は目眩を覚えた。

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