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「せせろーしい」  自分の口から発せられた声で目が覚めた。真っ暗な部屋はしんと静まりかえり、隣で寄り添うように横になっている男の寝息がよく聞こえる。  大和は息を吐いた。夢だった安堵と、またかという憂鬱の溜め息だ。  何時になったら解放されるのだろう。             *  振り上げた蜜の手が当たった衝撃で、大和は頬を叩かれたのだとわかった。 「可愛がっちゃった恩を、仇で返すんか、われぁ」  口汚く罵られながら何度も平手を食らうが、不思議と心身に痛みを感じない。  國靖がさせたとは云え妹とセックスをし、弟には地獄絵図宛らのその場面を見られ、大和の中で繋ぎ止めるように張っていた糸が切れた。そうすると兄としての自分を責めることにも疲れ、全てから逃れるように上京を決めたのだった。  許しがなくても家を出るつもりであったが、云えば案の定、これだ。一夜が明けて事を知ったときも、國靖を満足させられなかった雪江を叱り、結子に全責任があると云わんばかりに売女などと罵った女なのだから、予想はしていた。  表情ひとつ変えない大和を叩き続ける蜜は、丸で死人を相手にしているような不気味さと軈て手が痛くなって止め、勝手にしぃと言葉を吐き捨てて背中を向けた。 「余計な入れ知恵しょって。桐生(きりゅう)は解雇じゃな」  自室に戻るとその桐生が待っていた。大和の顔を見て驚き、手当てをしながら謝る。進学を理由に家を出ることを勧めた手間、責任を感じたのだろう。それだけ良心のある人が今までこの悪魔の家の手医者をやれていたのが不思議だ。  東京で臨床心理士をしている息子の公造(こうぞう)もまた、大和の面倒を見ると買って出たお人好しだった。わざわざ東京から駅まで迎えに来た彼は、ひょろりとしたどこにでも居る中年男性のなりをしていたが、滲み出る人の良さが見た目にも表れていたので、大都市でなくても小悪党に騙されるのではないかと思ったくらいだ。  公造と共に東京行きの新幹線を待つホームには、大和を見送る者は居ない。蜜をはじめ國靖や雪江が来ないのは勿論のこと、結子も、あれから蜜の云う桐生の入れ知恵により彼の知人が院長を務める病院に入院というかたちで匿われ会ってもいないので、大和がここを離れることすら知らない可能性もある。  零鵺は、避けているのか。顔を合わせていない。  蜜の友人でもある両親を亡くして身寄りがなく、体裁だけはいい蜜が遮那家に招いた血縁関係のない零鵺に、蜜も國靖も本当に呪われた血というものが存在しているのではないかと気味が悪いくらい興味がないようであったから、大和や結子のように餌食になることはないだろう。その点は気を揉まずに済みそうだが、問題は、あの夜のことだ。幼心に深い傷とならなければいいが……。  いつも陰鬱とした空気が流れる家の中で、明るくて人懐こい零鵺は云わば太陽だった。どうか陰ることがないよう、ただ願う。 「鳴ってるよ」  公造に云われて気付くと、上着のポケットに入れていた携帯電話が無音で震えていた。  ディスプレイに表示された名前を見た瞬間、恐れとも軽蔑ともつかないあの眼を思い出し、掌に汗が滲む。 「出ないの?」 「弟」  ああ、と公造。大体の話は手医者の父から聞いている。 「聞きたくない話なら切っちゃえばいいよ」  全てを受け止めていては壊れてしまう。ときには躱すことも必要だ。冗談半分に云ったが、疲弊した心と真面目な性格のあいだで葛藤する大和には届いていないようだ。  難儀な子だね。  心はもう何もかもを投げ出してしまいたいだろうに、彼の性質がそれをさせないのだ。震える携帯電話をじっと見つめ続ける横顔を見て公造は思った。  ここで素直に心に従えるのなら、思いつめた表情(かお)などしていないだろう。通話ボタンを押す大和を見守る。耳に受話口を当てる手が微かに震えている。  向き合う決心をしたのに、言葉が出てこない。大和が沈黙していると雑音の中に躊躇う息遣いが交じり、ごめん、と小さな声が聞こえた。 『何もできなくて、ごめん』  兄と姉がセックスをしているところを見て何も思わないはずがない。だが、幼いながらに國靖が仕向けたことだと自分を納得させた。  零鵺も葛藤していたのだ。  避けるようにして顔を合わせなかったのは、一瞬でも2人を軽蔑してしまった罪悪感で合わせる顔がなかったからだ。  零鵺は息を吸い、今度ははっきりとよく通る声で云った。 『俺は、何があっても大和くんの味方じゃけぇ』  慣れない方言で継がれたその言葉は、誓いを立てるようでもあった。 『逢いにいくよ。結ちゃんと一緒に、大和くんに逢いにいく。だから、待ってて』  大和の肩が震える。本当は、もっと、何か云うべきだったのだろうが、生憎と湧き上がるもので胸が一杯で、ただひと言、絞り出した声は掠れていた。 「待っちょる」  泣いたのは、いつぶりだろう。頬を伝う涙は温かい。  アナウンスが流れた。受話口の向こうでも、東京行きの列車が間もなく到着することを告げていた。             *  上体を起こした大和はスタンドライトをつけ、枕の下に隠していたハードカバーの単行本を出してスピンを挟んだ頁を開いた。産まれてすぐにすり替えられた男女が、男は裕福な家庭だが心は満たされずに育ち、貧しいが両親の愛情を受け幸せに育った一方の女と出逢って愛を知るところだった。  どんな本が好きなのかと訊かれて答えると、大半が意外だと云う。大和は恋愛小説を専ら読んでいた。愛や恋という錯覚に等しい不確かなものを描いた世界が興味深かった。  不意に伸びてきた手が本を取り上げる。 「寝る前に読書はダメって云ってるでしょ」 「起きた後だ」 「屁理屈云ってもダメだよ。眠れないなら、もう1回する?」  淡い光に浮かんだ顔は、寝惚け眼で大和を見上げていた。 「止めておく。後で寝不足だ腰が立たないだ等と俺の所為にされると面倒だ」 「だったら寝なさい。ほら」  腕を引っ張られ、仕方なく横になる。肩に顔を乗せられると、剃り残しの短い髭が肌を擦った。 「夜の運動もいいけど、もっと健全に汗を流した方が眠れるようになるかもね。やりたいスポーツとか、ないの?」 「ボクシング」  殴り合いに興味はないが、今でもときどき感触を思い出す。國靖を殴ったときの、あの高揚感の理由を知りたかった。 「いいね。細マッチョな誠一(せいいち)くん」  寝息が聞こえてくる。肩元を見ると、幸せそうな表情を浮かべていた。彼が眠りに落ちる間際に呼んだ名は間違えではない。  上京した大和は、故郷に存在した遮那大和という少年を殺した。  聞こえは物騒だが、方言をやめて名前を変えただけだ。慣れ親しんだ言葉を捨てるのは決して簡単ではなかった。最も苦労したのは、身近に居る人間が女性的な為にその言動に釣られないこと。  そして桐生に養子縁組を結んでもらい、嘘半分の正当な理由をつけ改名手続きを取った。今の名前は、桐生誠一だ。  誠一という名は公造がつけたもので、初恋相手の名前らしい。確かに呼び間違いではないが、見ている相手は違うのだろう。  1番変えたかった顔は、ダメの2文字を速攻で返された。理由は「僕が好きだから」だそうだ。 「お休み、公造」  スタンドライトを消すと、暗い闇に包まれた。

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