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前口上

 聴こえる。燃え盛る業火の音が。罪人の身を焦がす。             * 「あん音は、なんじゃ?」  陽が傾いた空の下、一緒に飼い犬の散歩をしていた妹の結子(ゆいこ)が、繋いだ手を前後に振りながら「ときどきの、夜中にいなげな音がきこえるんじゃ」と切り出した話の最後を、真ん丸い目で大和(やまと)を見上げ問いかけたその言葉で締め括った。  大和は結子と合った視線を、やや興奮気味に息を吐いて前方を歩く、ボロボロに縮れた毛並みが見窄らしい茶斑模様の犬の懸命に揺れる千切れた尻尾へ逸らす。そうして暫く沈黙し、ゆっくりと、静かに口を開いた。 「燃えとるんじゃ。罪人が」  虚空を仰ぎ見、言葉を継ぐ。 「決して見ようなんて思いんさんな。見ればわれも焼かれる」  子供に云い聞かせる、鬼だ天狗だなどの類い話ではない。実際に見た者が促す警告だ。  今も、赤々と燃える夕陽に焼きつくされた空がスクリーンとなり、大和の瞳に映し出されている。  業火に巻かれる罪人の残像が。  彼を焼く、業火の影が。             *  大和があれを見たのはいつの頃のことだったか。  祖父の代から続く資産家の父、國靖(くにやす)は金による薄っぺらな権力を振り翳す傲慢な男だった。  それでいて強欲で、怠惰な色欲に女を貪る暴食漢。己は幾度と浮気を繰り返していながら、執拗に執着する妻の雪江(ゆきえ)への嫉妬妄想で顔には常に憤怒の表情が浮かび上がっていた。  丸で七つの大罪を背負って生まれてきたかのような劣悪種。  当然ながら大和は國靖を畏怖嫌厭した。本来気の小さな國靖にとっても、遠くない将来に訪れる老いの下り坂と反対にこれから人生の盛りを迎える大和の存在は脅威であった。その為、幼い頃から恐怖を植えつけて逆らえないように暴力を振るうこともしばしばあった。國靖の奴隷として甘んずる雪江は、部屋の隅の三猿と化していた。  そうして小国の王としてふんぞり返っている國靖であったが、1人だけ、頭の上がらない相手が居る。彼の母、(みつ)だ。  蜜は國靖が8歳の頃に事故で他界した夫、宗壱郎(そういちろう)に代わり、この遮那(しゃな)家を取り仕切る最高権力者。云うなれば遮那という世界における正義の審判、剣と天秤を持つミカエルだ。  蜜が白と云えば黒も白。誰も逆らえない。その彼女が大和を可愛がっている。ミカエルの加護があるあいだは、顔を合わせても忌々しく舌打ちをするだけで、手は出せなかった。  その日、國靖は機嫌が悪かった。  いつもなら視界に入らない限り大和に暴力を振るうことはないのだが、わざわざ部屋に押しかけて殴り蹴り、蜜に見つかって頭を下げ、腹いせに雪江を引き摺り寝室へ向かった。  ああ、あの音じゃ。  蜜の胸に抱かれ、大和は聞いた。罪人を焼く、業火の音を。  小さな火の粉が弾け、次第に大きく燃えあがり、哮る。  それは確かに2人が居る寝室の方から聞こえた。  恐い物見たさ……否、憎い父と人形のような母が醜く焼かれる様を見たかったのかもしれない。  躰が操られたように自然と動く。自分を呼ぶ蜜の声も耳に入らず、普段近寄りもしないそこへ足が向いていた。  廊下のつきあたり、奥まったところにある血を吸ったように赤いドアの前に立ち、ノブへ静かに手を掛ける。ゆっくり回して開いたドアの隙間から覗き見る大和の目は、炎に巻かれる國靖と雪江を捉えた。  火の気はどこにもない。火など上がっていない。燃えているはずはない。なのになぜ。  なぜ赤々と、室内を覆う炎が2人を包み照らしている。  煽られ、揺らめき、歪んで盛る。その中で重なり「(あに)さま」と連呼しながら、嬲られる快感に愉悦する雪江の姿は醜くも美しく、國靖を焼く業火そのものであった。

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