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第24話

 厳しい冬は少し成りを潜め始めた春先。  穏やかな日差しが差し込むクカ邸は、いつもと違って騒々しい。玄関ホールは開け放たれ、春の陽気が穏やかな風に乗って家の中へと吹き込んで来る。その柔らかな感触が心地良い。  クカの両腕が抱えるのは一つの段ボール。玄関先にも三つほどの段ボール箱が積まれていた。全てはマルクの持ち物だ。あの狭い部屋にあったマルクの持ち物は、たった数個の段ボール箱に収まる程度にしかなかったらしい。そのほとんどは大学の講義に関係する資料類で、マルクの持ち物らしい持ち物はノートPCと僅かな衣類程度だった。  クカはその全てをマルクの部屋にと開放した二階の一室に運んでいる最中だった。マルク本人はその部屋の模様替えを必死に行っている真っ最中で、少し前まで昨日運び込んだベッドと机の配置に頭を悩ませている。考えるのに夢中になっているマルクは、荷物を運んできたクカの存在に気づいていないようだった。 「マルク、一つ持ってきたよ。かなり重くて……中々骨が折れたけど」 「ああ、悪いピート。それは資料だな。こっちに置いてくれ」  段ボールと梱包材が散乱する部屋の隅に置けば、んん、と伸びをするマルクの声が背後から降りかかる。考えるのに飽きたらしい。 「少し休憩するか。とっくにお昼過ぎてるし、簡単な昼食作るよ」 「いいね。俺もマルクの手料理食べたいな」 「ん、あんまり、期待しないでくれよ? あんまり手の込んだのは作れないからさ」 「いいよ。その間、俺は段ボール全部運んでおくからさ」 「ありがと。それじゃあ、先に下行って準備するわ。サンドイッチとかでいい?」  ああ、と返せば、マルクは軽い足取りで混沌とした部屋から出て行った。リズミカルに階段を降りていく足音を聞き届けると、クカもマルクを追いかけるように部屋を出た。日差しが造り出す幾つもの影を踏み越えて、再び玄関ホールに舞い戻る。 「ん?」  積み上がった段ボール。その内の一つに乗せられているものが目に入った。先ほどまでは無かったであろうそれは、宛名も送り主の名も記載されていない、誰かが直接届けに来たであろう封筒だった。どこにでもあるような茶封筒。かなりの厚みがある。  クカはその中身が何であるか、何となく知っている。  その差出人も。  マルクがエディンと決別したあの日以降、クカの家に送られるようになったものだ。中身は写真。マルクのあられもない写真。複数の男に姦されている所や、規格外な性的玩具をアナルに挿入されて気を失っている姿、顔や体中に男の精液を浴びて悦びの笑みを浮かべるマルクの写真もあった。  写真だけで無く、DVDメディアが封入されている時もあった。それは彼とマルクのレイプ紛いのセックス風景を撮ったものもあったし、客と思しき男との情事の風景が納められていることもあった。生々しいマルクの喘ぎ声が、何度、メディアプレーヤー上に映し出されたというのだろう。それは酷い淫蕩な姿だった。性に溺れて狂ったようによがるマルクの姿。時には幼い頃のマルクの姿まであった。  名も無き送り主は恐らくエディンだろう。クカを失望させるために、と。そんな思惑で。彼はマルクに興味を失った風を装っていたが、どうやら違ったらしい。  しかし、こんなものがクカに影響を与えると思っているのだとしたら、実に愚かしい考えではないだろうか。クカは、こんなものでは、この程度では、決して揺るがない。  どんな痴態がこの封筒の中に収まっていようとも。彼の過去は気にならない。 「ピート、どうかした?」  じっと肉厚な封筒とにらみ合っていたクカにマルクが怪訝そうに声をかけた。マルクは何も知らない。この封筒に自分の消したい記憶が収まっているだなんて、微塵にも思っちゃいないのだ。 「いや何でも無いよ。君こそどうしたんだい? サンドイッチはもう出来たの?」  封筒をマルクの視線から隠すようにして、スラックスの尻ポケットにねじ込むと、クカはそっとマルクに冗句混じりの疑問符を投げかけた。 「いや、マスタードさ。どこにあるか分かる? アレがなきゃ、サンドイッチは作れないだろう?」 「あれ? キッチンに無かった?」  あの紺のエプロンを身につけたマルクは、困った様子で腕を組んでいる。  マスタード。  確かまだあった筈だったが。  と、悩んだところですぐにあることを思い出した。マルクの引っ越し作業を続ける間にも、クカはハウスキーパーのアルバイトを雇っていたのである。もちろん仕事はクカを甘やかしてはくれないし、マルク自身も忙しかった。つまり、今日という日までは、代理のハウスキーパーがこの家で家事代行の仕事をしていたのである。 「あ、ほら、ついこの間までホルヘに任せていただろ? もしかしたら、彼、別のところに仕舞ったんじゃないかな」 「アイツ……ホント抜けてるんだよな。大学でも忘れ物とかしょっちゅうで……」 「いいじゃないか。ほら、一緒に探しに行こう?」  次会ったら焼き入れてやる、と息巻くマルクの肩を抱き、クカはそんな言葉で諫めつつリビングへと誘った。  尻ポケットに入れた茶封筒はマスタードを探す合間に、隙を見て捨ててなかったことにしてしまおう。きっとサンドイッチを食べてしまえばすっかり忘れてしまうだろうから。 「美味しかったよ。食べ終わったら早く片付けの続きをしないと……」  すっかり空っぽになった食器類を重ねながら、クカはじっと壁に掛けられた時計を見つめた。時刻はもう三時近く。まだまだ太陽は天高く昇っているが、いまにじわじわとその高度を下げていくのだろう。 「今晩は試合だからね」  何とかして手に入れたフットボールの観戦チケット。試合は今季の優勝争いを決するかという大一番。手に入れるのには随分と苦労したもので、同僚バトシュトゥバーと共にあの壮絶なチケット争奪戦を乗り越えたのだ。剽軽なドイツ人は「やっと一緒に行きたい相手が見つかったんだな!」と大喜びしていた。相手が男性だとは知らないでの発言だろうが、心優しい彼のことだ真実を知っても応援してくれるだろうと思う。たぶん。  しかし、そんな苦労とは裏腹に、マルクは素っ頓狂な声を上げて驚いている。 「え? ああ、そうだったっけ?」 「そうだよ。もしかして忘れてたのかい?」 「……引っ越し作業が忙しくってさ、でも今思い出した。じゃあ荷解きもっと早く終わらせないと……」  と言っては、急いた様子でスポンジを泡立てるマルクの首筋に、クカはそっと鼻先を埋めた。そのまま紺のエプロンを身につけたマルクの痩身を抱きしめる。 「ん」  食器を洗うマルクの顎を自身に向けてクカは強引に口付けた。啄むように何度も何度もキスをして、何だよ、と言いたげな視線を向けるマルクにそっと笑いかける。 「……急に、びっくりするだろ」 「片付けてる君を見たら、少し」  するりとエプロンの下に手を差し入れて、薄手のニットの上からマルクの体を弄る。耳朶に唇を寄せて、甘く耳介を食めば、両手を泡で汚した青年の口元から小さく声が漏れ出した。 「……シたくなった」  悩ましいマルクの体の輪郭を手でなぞり、ぽつりと薄いニット地を押し上げる乳首に触れれば、今度はもっと高く熱っぽい声が薄い唇から飛び出した。 「っ、何か、イメージと違う」 「そう?」 「もっと、セックスには淡白だと、思って、たから……」  はぁぁ、と体の熱を吐き出すような吐息。性的に興奮しだしたマルクの二つの目は、いつもの黒曜石の輝きとは違う、あの男娼のマルクの色を宿し始めていた。 「俺もそう思ってたよ。ずっとね」  マルクの乳首を抓り上げ、冷たく堅いピアスごと引っ張った。  マルクはこれが好きだった。痛い位の刺激が好きなのだと。あの仕事を辞めた後も、こうしてピアスをつけたままにしているのがその証拠だった。ふしだらなその体。彼のどこか健全で、病んだその心には似合わない、男を性に狂わせるその肉体。 「でも、マルクを見てると我慢が利かなくなる」  マルク。  マルクが、彼の全てがクカを狂わせる。 「全部、君のせいだ」  たぶん、きっとマルクはクカにとっての新しいアルコールで、新しい仕事なのだ。呑まれて溺れて、それで良かった。今度は殴られても元には戻らないだろう。  試合までにきっと片付かないな、性に支配された頭の片隅でぼんやりと思う。  食卓の上にマルクを押しつけて、その背中に囁きかける。 「愛してる」 「オレも、愛してる」  エディンがどんな写真を送ろうとも、どんな動画を送ろうとも、クカは動じない。全てはマルクだ。淫靡で、狂った、彼の姿を全てクカは受け入れているのだから。  スタジアムは熱気に包まれていた。白いゴールネットが夜間照明の強い輝きの下に複雑怪奇な影を落としている。十一人と十一人。二つのクラブが頂点を決めるボールを奪い合う。ゴールネットを揺らすのは誰か。歓声、暴言、選手を讃える歌を歌い、観客達は狂ったように声を張り上げ続けていた。  皆が固唾を呑んで見守る試合。だけどもクカの二つの目は、童心に帰ったマルクの横顔を捉えていた。ボールなんてどうでもいい。試合結果なんてどうでもいい。  マルク、君がいるだけでよかった。  マルクの手を握る。マルクが手を握り返す。  これをもう放すまいと思った。  そんな折り、観衆の歓声が一際大きく上がった刹那、彼女の言葉がふと脳裏に過ぎる。  白い病室。白いカーテンが揺れている。古い病室の壁は、あまり、清潔には見えなかった。  彼女は泣いていた。  別れましょう、とその言葉。  貴男を裏切り続けたくないの、そんな言葉。  知らない男が申し訳なさそうに病室に踏み入って来たその瞬間。クカが積み上げて、造り上げた理想の家庭が空虚で空しいものに崩れ去ってしまったあの瞬間。  マルクはきっと違う。  彼女とは違うから、だから。  あの時続いた言葉が、クカの心に穿った巨大な穴をきっと彼は埋めてくれる筈。きっとそう。きっと。たぶん、恐らく、裏切ったりはしないだろう。  ほら、もっと見せて。  もっと愛して。  もっと溺れさせて。  酒みたいに酩酊させて。仕事みたいに没頭させて。脳が痺れるくらいの快感を、彼はクカに教えて与えてくれた。  いっそ、他の何もかもが目に入らないように、君だけを見続けて、君だけを感じていたい。あの空虚な家の一部屋に君を閉じ込めてしまいたい――  そこまで考えて、クカはかぶりを振った。  やっとあの場所から抜け出した彼を、今度は自分の家に閉じ込めようだなんて。まるでエディンと同じ考えじゃないだろうか。鋭いナイフみたいな言葉でマルクを脅した彼とはやり口はまるで違うけれど、だけども、根底にある考えは一緒なのではないか。  側頭部に手をやって、盛り上がった傷痕に触れる。薄らとかいた汗と乾いた髪の感触が、クカを現実へと引き戻す。 「……前半戦凄かったな。やっぱり試合はテレビ越しじゃなくて、生で見るのが一番だな、ピート」  マルクが身につける厚手のパーカー。伸びる長い首の根元には、連なる赤い痕が幾つも落とされていた。先ほどまで繋がっていたことの証を、クカはそっと撫でやった。黒曜石の瞳がふと細められる。 「くすぐったいよ、そう撫でられるとさ。どうかしたか?」  怪訝そうに見上げるマルクに、何でもないよ、と小さく返し、クカはそっとマルクに口付けた。  この充足感と幸福感を噛みしめるように、長い長いキスを。

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