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第23話

「マルク、やっぱり、嫌だった? 急すぎる話だよね。すぐにはきっと無理かもしれないけど、俺は」 「……辞めるって言ったんだ」  クカの言葉に被せるようにマルクは口を開いた。  辞める。  それはどちらのことを指しているのだろうか。  そう推し量るクカの眼差しを受け、マルクはあの後と続ける。 「バーにさ言ったんだよ。ピートと寝てから、ずっと悩んでて」  ぽつり、ぽつりと零すようにマルクは言葉を落としていった。  クカが腰掛けるソファーの横にぼすんと腰を落とし、自身の長い足を抱くようにして座る。まるで自分を守るように。 「……ずっと自分の体なんてどうでもいいと思った。金になるから、どんな目に遭ったって平気だって思ってた。だって今までずっとそうしてきたから」  ガキの頃からずっとそうして来たんだ。  この部屋の静けさに吸い込まれそうな程に小さな声でマルクは言った。 「オレさ、バーで働く前から、もっとガキの時から、そうして来たんだよ」  形の良い爪が彼の膝に食い込んだ。  今、マルクが言葉と共に想起している過去は、きっと思い出したくもないものなのだろう。二つの目はこの部屋のどことも分からぬ虚空を見下ろしていた。爪が皮膚を破らんばかりに力が込められている。 「でも、ピートと寝てさ、キスしたらさ、頭滅茶苦茶になって、どうしたらいいか分からなくなった」 「……他の男に抱かれたくないって、思うようになってさ」  だから、マルクは言う。 「辞めるって。オーナーから引き留められたし、今も、戻って欲しいって言われるけど、どうしても前みたいに出来なくなった。どうしようかって思ったよ。だって、一番金稼げてたんだし」  でも、とマルクはクカを見つめた。  黒曜石の瞳は柔和に細められている。 「嬉しかった、ピートが来てくれて。初めてだったんだ。人を好きになるのって……オレは、ずっと、その、よく分からないままに、色んな男と寝てきたから、好きって、どんなものなのか、分からなかったんだ。でも」  彼は笑った。  今までに見たことの無い、軽やかで、安心しきった柔らかい笑み。 「行きたい、ピート、アンタの家に」  クカはとてつもなく、彼を抱きしめたいと思った。この手を伸ばして、息が詰まる位に強く、強く。穏やかな日差しが包み込むこの輝かしい一瞬を、胸の内に抱きしめてしまいたい。  だけども、それは叶わなかった。招かれざる客が、この部屋へと訪れたらしい。この空気を切り裂くように鳴り渡るのはノック音。乱暴で粗雑なその音は、マルクの心を激しく殴打した。  マルクの肩がびくりと震える。  彼の反応を見るに昨日の騒音に対する苦情ではないようだ。  怪訝に思い、マルクの代わりに玄関先へと向かおうとすれば、彼の手がクカの肩を強く引き掴んだ。振り返れば、重苦しい表情をしたマルクがそこにいる。 「――おい、マルク、いるんだろ? いい加減出てこいよ、俺の鍵まで取り上げやがって」  ドアの向こうから籠もった声が聞こえてくる。  その声にはクカにも聞き覚えがあった。  エディンだ。ゲイバーのバーテンダー。  ふとそこで、クカはキッチンの片隅に隠されるように置いてあったラキヤの存在を思い起こしていた。きっとそうだろうと、推測していた事柄がここではっきりとした。ああ、彼とマルクはそういう関係だったのだろうと。言葉の端々から臭わせてはいたけれど。 「オレが出るから」  マルクが凜とした声色ではっきりと告げる。 「ピートはそこにいてくれ」  だんだん、とひっきりなしに続くノック音の元へと急ぐと、マルクは深呼吸をした。そうして意を決したように頷くと、ドアチェーンはつけたままに鍵を開ける。 「……エディン、何の用だよ」  僅かに空いた隙間から顔を覗かせたマルクは、感情を抑えた声でそう訊ねた。開いたドアの合間の景色は背の高い彼の体に隠れてしまっているが、より鮮明になった声がクカに見えない向こう側の様子を克明に想像させる。  おい、マルク。  呆れた様子のエディンの声が聞こえてくる。 「客どもが言ってるんだ、ショーが楽しくないってよ。やっぱりお前がいないと、楽しめねえ。客も、俺もそうだ。皆が嫌がるショーをあんなに楽しそうにやるのもお前みたいな淫乱にしか出来ないしな」  彼は余裕のある言葉を選んでいる様子だったが、その言葉尻には苛立ちが多分に込められていた。 「……エディン、言っただろ! オレは辞めるって、バーのアルバイトも、あんなショーも。オーナーだって了承してくれたんだ。ただの一店員に過ぎないお前にとやかくいう権利はないだろう」  そう吐き捨てるように言っては、マルクはドアを閉めようとしたがそれをエディンの手が遮った。 「俺を置いて逃げるのか? あれだけお前に尽くしてやったってのに。俺達は最高の相性だった。ずっとそうだったじゃねえか」 「……誰がお前なんか好きになるかよ。アンタがやったのは男を呼んで、オレを滅茶苦茶にすることだろ。ピアスもタトゥーもお前が入れたんだ」 「はあ? 悦んでただろ? 薬キメてヤるのも、新しいタトゥー入れるのも、嫌だったらとっくに逃げ出してただろうよ。でもお前はそうしなかった。天職なんだよ、お前にぴったりの肥だめだった」  ふん、と鼻を鳴らしてマルクはエディンの言葉を一蹴する。 「それは大学に行きたかったからだ。金が必要だった。それだけだ。お前には感謝してるよ。クソみたいな扱いされたのを差し引いても。でも辞めるんだ。そう決めたんだ。アンタが何を言おうが、引き留めようがこの意志は変わらない」 「……じゃあこれからどうするんだよ? 他に金が入るアテでも出来たか? 金持ちのゲイに股開いたか? それとも大学辞めるのか? あれだけ恥曝して手に入れた金で通った大学だってのに」  聞くに堪えない罵倒と共に詰め寄るエディン。彼は思いつく限りの下品な言葉を投げかけマルクに食い下がっている。彼は何が何でもマルクをあの店に引き戻すつもりのようだ。  これでは埒が明かない。  ドアの影でずっと会話を聞くだけだったが、たまらずクカはマルクを押しのけると、ドアチェーンを外した。おいピート、と困惑したマルクの声が聞こえたが、そのままクカはドアを開け放つ。 「悪いけれど、もう帰ってくれないか。マルクはもう辞めると言って、それを上長が承認したんだ。これ以上何か言い合うのも建設的じゃ無いし、何よりマルクが嫌がっているだろう」  きょとん、と深い彫りの底に佇む二つの目を丸くさせて、エディンは呆けた表情を浮かべていた。想像の範疇を超えた存在の出現をどう処理して良いのか分からない、と言った具合だった。 「……おいおい、マジかよ。ああ、いや、そうか、そういうことね」  二、三拍程の間を置いてエディンは、何か合点がいったらしい。ああ、と納得した様な声を上げてしばらく、その厳つい顔を破顔させた。込み上げてくる笑いを堪えながら、彼は口を開く。 「しかし、はは、笑えるなぁ、マルク。まさか、こうなってるなんて誰が想像つくよ?」  鋭い双眸がクカを射貫く。  彼は笑っていたが、その目はどこまでも冷たく鋭い。にたりとつり上がった口角に、感情が抜け落ちたようなその瞳。ぞくりと肝が冷える。 「こんな男とよく付き合おうってか? それとも刺激に病みつきになった? 笑えるな。アンタ、遊ばれてるよ。コイツはぶっ壊れてる。アンタの手に負えねえ。なあピートさんよ」  エディンの視線がクカからマルクへと向く。 「信じられるか? コイツは、シモの毛も生えてねえ頃から小児性愛者どもに股開いて腰振ってたんだよ。生まれついてのビッチなんだよ。金欲しさに色んな男と寝ては小銭稼いでたのさ」 「あの時は――」 「仕方なかった? ああそうかもな、親にネグレトされて金欲しさにおっさんどものチンポケツに咥えてたもんな。自発的にだ。初めて会った時はコイツがハイスクールに進学したばかりの時だったかな。俺があのバーで働き初めてしばらく経った後のことでさ、ビックリしたよ。とんでもねえ淫乱がいるって聞いて」  エディンの言葉がマルクの心の瘡蓋をえぐり出す。クカが知らないマルクの過去。隣に立つマルクの横顔が青ざめているのが横目でもよく分かった。過去のことは思い出したくないのだろう。それもそうだ。自分にとって辛い記憶など、誰が思い出したいと言うのだろう。  クカはエディンの言葉を遮ると、語調を強めてこう言った。 「エディン、いい加減にしろ。これ以上、マルクを傷つけるような事を言うなら」 「おお怖い。こいつに騙されてる可哀想なおにーさん。全く心外だぜ、アンタはガキもこさえたストレートだってマルクから聞いたていたけどな。どっちもいける口だったか? それともゲイがカモフラージュの為に無理矢理女と寝ていたか? だったらビールたらふく飲んで、相当頑張ったんだろう」  まあ、と彼は饒舌に話し続けた。 「アンタがゲイだろうがバイだろうがどっちでもいい。どっちにしろコイツは誰の手にも負えねえよ。生まれついてのビッチだ。いまさら矯正することなんて出来やしねえだろう? どうしようにもないクズなんだ。日の下しか歩いて来なかったリーマンには荷が重すぎるだろうよ」 「……俺はマルクの過去が何であろうと、君と寝ていようと、受け入れるつもりだ。マルクが話したくないなら聞くつもりはないし、君みたいなサディストでもない。あえて傷つけるような言葉を選ぶ君こそ、マルクに相応しくないだろう」  マルクがどうして自分をあれほど卑下するのか、これでよく分かった。  こんな加虐嗜好の持ち主と長い間一緒にいれば、自尊心なんてものは簡単に砕けてしまうだろう。ただでさえ過酷な少年期を過ごしたマルクが、この男と過ごしてどれだけの苦痛を味わって来たと言うのだろう。彼はマルクを完全に掌握する為に、あえてそういった言葉遣いをしているのだ。 「アンタはいい人だな。根っからの善人だ。だからこそ、コイツみたいなクズには俺がお似合いだ。行く当てのないお前にこの部屋を借りてやったのは誰だ? 金になる仕事を紹介してやったのは誰だ? あの小児性愛者どもから助けてやったのは?」  助けてやった、なんて恩着せがましい言葉か。  助けるというならば、本当に助けたいと思うならば、然るべき手段があった筈だ。あんなショーに出る以外の道を提示することが出来た筈だ。だけどもそうしなかったのは、マルクという青年を自分の元に縛り付けたいだけ。  彼の口撃が続く中、マルクがおもむろに口を開いた。  エディン、と凜としたその声は、昼間の閑散とした廊下に静けさをもたらした。 「……さっきも言ったけど、過去のことは感謝してる。でもオレは、アンタとは違う。クズじゃ無い」  そうしてもう一度続けた。 「クズじゃ無いんだ」  その言葉に、何かを悟ったらしい。  今まで何度もそうやってマルクを引き留めてきたのだろう。彼の自尊心を砕いて、踏みにじって自身を喪失した彼を意のままに操ってきた。でも、今のマルクは違う。  エディンは鼻先に皺を寄せると、苦虫をかみ潰したような表情を浮かべて、はあと溜息。 「…………そうかい、分かった。分かったよ。失望したぜマルク。お前はもっと賢い人間だと思ってたけどな」  彼の二つの瞳はマルクからクカに移され、ピートさんよ、とぶっきらぼうに話しかけてきた。 「アンタ、気をつけた方がいいぜ」 「それは脅しかい?」 「忠告さ」  するりと踵を返し、流し目にそう続ける。 「痛い目見るのはアンタだぜ」

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