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第22話

 全てを忘れたセックスは、いつまで続いたろう。  朝日が狭い室内に広がった時、まだクカはマルクの中にいた。寒く凍える一月の朝が何とも思わないほどに火照った体。声は嗄れ、酷く疲れた肉体はこのまま朝日の中で微睡んでしまおうと画策する。  言葉を忘れたのは何時頃だったろう。  獣に成り下がったのはいつからだったか。  狭い室内に充満する情事の臭い。酷く雄臭く、きっと誰かがこの部屋に足を踏み入れれば、すぐに顔を背けることだろう。マルクの部屋は荒廃し、至る所にセックスの残滓が残されていた。  クカは夢と現実の境目に立っているような気分だった。  くたりと横になり、ただ反応するだけのマルクからペニスを引きずり出せば、もう締まることさえ忘れたアナルから何回目かの精液が零れ出す。白濁した混合液。二人分の体液が入り交じっている。 「……シャワー、借りるね」  返事はない。疲れた顔でぼんやりとどこかを見つめているマルクの耳にクカの声は届いていないのだ。  きっと仕事は出来ないだろう。腰にわだかまる鈍い痛み。デスクワーク主体のクカの職場は、きっとこの腰に鋭い牙を向けるに違いない。それに、何より、こうしてクカがマルクの部屋で佇むこの時間。とっくに始業時間を過ぎている。いつの間にか電源を落としていたスマートフォンには、上司からの着信が恐ろしい程に入ってきているはずだ。  休みの連絡を入れるなら、今しか無いだろう。また熱が出たと嘘を吐こうか。ああ面倒だ。何もかも投げ出して、忘れ去って、今日という日をマルクと一緒に過ごしていたい。だけども、何も連絡もなしに休めば、あの忙しさの極みにある上司と、旧知の同僚はお冠になるに違いない。あの飄々としたドイツ人が怒ることは滅多になかったけれども。 (ともあれ、連絡はシャワーを浴びてからだ)  クカはリビングに降り立つと、心なしか軽やかになった足取りでシャワールームへと向かった。不思議な充足感がクカを包んでいた。この三年間、感じたことのない満たされた気分。胸に空いた穴がすっかり塞がった、そんな気分。  シャワーの蛇口をひねり、熱いシャワーを頭から被る。一晩中セックスに明け暮れたこの体は、この部屋に漂う臭いが染みついている。熱いシャワーで全てを洗い落として、後で、寒いだろうけど窓を開けようと思う。  マルクが目を覚ましたら。  何を話そう。何を語ろう。  考えるだけで、胸が躍る。  あのマルクと同い年の少女とデートをしたあの日とは違う。もっと何か特別な喜びが、クカの心を跳ねさせていた。今までクカを雁字搦めにしてきたあらゆるものが、この熱いシャワーと一緒に排水溝へと消えていくようだった。  そうだチケットを取ろう。今週末の試合。クカが長年愛して応援してきたあのクラブチームのホームゲーム。相手は下位チームだったか。白熱した戦いを見ることは出来ないかも知れないが、きっと楽しめる。  シャワーを浴びて、倦怠感を睡魔を熱で追い出すと、クカは床に散乱していた服を拾い上げて身につけていった。それからインスタントのコーヒーを少し拝借して、昨日使ったカップに注いでいった。カップは軽く水洗いして使うことにした。 「……ラキヤ」  ふと目に留まった一つの酒瓶。ラキヤ。東欧の蒸留酒だ。度数の高いその酒は、瓶の半ば程まで暈を減らしている。マルクはこんな強い度数の酒を好むのだろうか、そんなことを考えながらクカは二人分のコーヒーを両手にマルクが眠るベッドへと急いだ。テーブルにカップを置いて、全裸のまま力なく伏せるマルクの髪をそっと撫でた。 「マルク、コーヒー飲むかい? 淹れちゃった後に聞くのはどうかと思うけど、淹れちゃったからさ」 「んー……コーヒー?」 「ああ」  閉じていた瞼を何とか上げて、マルクは眠たそうな目をクカに向けた。そんな彼に、まだ寝てたかった、と訊ねれば、ふるふると力なく頭を左右させてマルクは体を起こした。 「ピート、元気だな……オレ、腰がしんどくって……はぁ、風呂入って後処理しないと……後、掃除」  ベッドの上に座り直したマルクに、クカはコーヒーの入ったカップを手渡した。揺れる茶褐色の湖面を下がる瞼の下から覗き込み、ゆるりとそれを嚥下する。 「苦っ」 「だろうね。濃い目に入れたから」 「ああ、おかげで目が覚めてきた」  ちびりちびりとコーヒーを飲んでいき、カップの底が見え始めたところで、マルクはおもむろに立ち上がった。すらりと長い足が朝日に照らされて輝いている。その足の行き着く先、ほどよく筋肉のついた太ももにだらりと垂れる情事の残滓。伝う感触が気持ち悪かったのか、マルクは濃い眉を顰めては、足を伝い落ちるそれを手で拭い取った。 「ピート、一体何発出したんだよ……次から次に出てくるし……すげえ量」  指に付着した精液を呆れた様子で見下ろしながら、呆れた様子でマルクは言う。  何回出したか、夜の記憶は曖昧だ。ただ夢中にマルクの体を貪った。靄がかった記憶を鮮明に思い起こして行けば、疲労困憊しているはずの体に気力が湧いてくるのがよく分かる。その視線に気づいたらしいマルクが、若干げんなりした視線をクカに向けた。 「……流石にもうやらねえからな」 「え? あ、そんなつもりは……」  無いよ、という声は酷く弱々しかった。  自分という人間は、こうも性豪だったか。まるで十代の少年のようだった。数年前は特に性的なものにあまり興味を持たない人間だったというのに、マルクを見るとそんな過去こそが妄想か何かの類いだったのではないか、そんな疑念まで浮かんでくる始末。 「そんな事より、入っておいでよ。あんまりその格好でいられると目のやり場に困るから」  全裸で立ったままのマルクにそう促して、シャワールームに彼の背の高い影がすっかり消えたのを確認すると、クカはやっとスマートフォンの電源を入れた。画面に浮かび上がるメーカーロゴが消えたところで、鬼のように表示される着信履歴。電話アプリのアイコンの上に浮かぶ赤い数字は、今まで見たことのない数字を表示していた。  胃が縮み上がる感覚を必死に堪え、クカは上司へと電話をかけ直した。ノイズ混じりの上司の声は、それはもう聞くに堪えない怒りと罵詈雑言が入り交じっている。もちろん怒りの声は覚悟してはいたが、流石に鼓膜が破れてしまいそうだった。数センチ耳を離して、クカはひたすらに謝罪の言葉を弱々しく口にしていた。とても電話をかけられる状態になかったと言う言葉に説得力を持たせるために、今にも消え入ってしまいそうなか細い声で休む旨を伝えていた。  一頻り怒鳴り切り、上司はすっきりしたらしい。今日は休ませてやるが明日は必ず出るように、と吐き捨てるように告げ、彼はクカの返答を待たずに通話を切ってしまった。  はあと一息。  彼の声はクカの胃に悪影響だ。下手をしたらストレスで破れかねない。  上司とのやりとりを終えたところで、シャワールームからマルクが帰ってきた。下着とインナーだけを纏った彼は、濡れた黒髪をタオルでがしがしと強く拭きながら酷い声だった、と口を開く。 「シャワー浴びてても聞こえてきた。相手は、まあ、何となく想像つくけど」 「君の想像通り、上司さ。嫌な奴でね。いつも誰かしらを怒鳴ってないと気が済まないんだ。午後からでもいいから来いって言っていたけど、休むことにしたよ。熱が出て酷いって嘘吐いてね」 「いいのか? 行かなくて。いつも忙しそうにしてるのに」 「たまにはいいさ。この間、熱出した時に休んでから、あんなに固執してた仕事も休んだっていいんじゃないかって思ってね」 「それに……今日はマルクと一緒にいたいから」  そう言って笑いかければ、マルクはそっと顔を背けた。照れているらしかった。高い鼻を指先で居心地悪そうに掻いては、そう、と一つ。  そんな彼の名を呼んだ。 「マルク」  黒い二つの目がクカを見やる。  ゆるりとクカは続けた。 「昨日の提案、受けてくれる?」 「アンタの家に行くって話?」  マルクの問いに頷けば、彼は伏し目がちに「……ホントにいいのか?」 「ああ、俺は本気だよ」  マルクを養う為に、少し、無理をしなくてはいけないだろう。だけども、そんな苦労を恐れるようなら、彼にそんな事を打診する筈が無い。この部屋に訪れることも無かったはずだ。 「俺の家は広すぎて寂しいから。マルクがいてくれたら、きっと、楽しいと思う。空いてる部屋は幾つもあるし、この本棚の本とかも全部移せばいい。マルクの大切なもの全部持って行こう? そうだな、キッチンにあった秘蔵のラキヤもキッチンラックに飾って」  早口にクカは続けていた。  マルクは答えない。何か、考えるように押し黙ったままだ。

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