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 ただ流れていただけの時間に色がついた。たった一人で思考とジレンマに埋もれているだけの毎日は会話によって喜びに変わった。  夜になるとひょっこり姿を見せる彼は名乗らなかったし、私の名前を尋ねることもなかった。だから私も聞いていない。自分の痕跡を残すことを恐れているのだろうか。それとも私を思いやってのことかと考え、自惚れが過ぎると己を窘めた。  彼が話すことを聞き、彼になら楽に話せる自分を持て余しながら互いのことを語る。故郷のこと、家族のこと、好きなこと、忘れたくないもの。私はなるだけ希望や未来につながる言葉をださないように気を付けた。もし戦争が終わったら、そんなことを彼の前で言うわけにはいかない。私はこの夜の穏やかな時間を失いたくなかった。明日の夜もまた彼に来てほしかった。だから慎重に言葉を選び彼に自分のことを話す。明らかに育った環境が違う私達だが、その相違すら面白く感じた。  彼は勉学が好きなようで、学業が途切れてしまっていることを悲しんでいた。私は運動とは無縁の暮らしをしてきたから時間を潰すのはもっぱら読書。本なら沢山持っている。此処に持参できたのは僅かの量だが、それを見せると嬉しそうに手にとった。 「借りても?」 「ああ、どうぞ」  読む時間はあるのかい?返すのはいつでもいいよ。そう言いそうになって言葉を飲み込む。時間のことは言葉にしたくなかった。飲み込んでしまえば色々なことを先送りにできるような気がして。  言葉を交わすことなく本を読む彼を見つめるだけの夜もあった。行を追いながらキラキラ光る瞳を見詰め、急くように頁を繰る指先を眺めた。  既に読んだ本だから、どの場面にさしかかっているのは容易に想像できる。彼が何を思い、何を考え、何を感じとっているのか。それを自分のものとし、一緒に読んでいる気分を味わった。そこまで誰かと時間を共有したことのない私には驚きの連続であったが、彼との時間はすべて興味深く、気持ちのいいものだ。 そして時間が来ると彼は立ち上がる。 「ではまた」 「ああ、おやすみ」  本を片手に彼は出ていく。私は何事もないような顔をして見送り手を振る。にっこり笑う彼の顔を明日は見られないかもしれない。穏やかな夜はもう二度とこないかもしれない。そう騒めく胸を心で握りつぶし笑顔を作る。  どんな思いで兵舎に帰るのだろう。彼が話してくれた兵舎の屋根は三角。中には高くなった土間のような寝台がしつらえてあり、枕と反対の壁に行李が置ける棚がある。布団を並べて敷き、その布団一枚分が自分の場所。仕切りはないから寝息もいびきも聞こえ放題。そして眠れずに何度も繰り返す寝返りの音も……。  そんな場所に帰したくない!と叫びそうになる。しかし叫んだところで何かが変わるか?諦めたような表情を浮かべる彼を目にするだけだろう。だから私は必死に笑みを浮かべる。明日もおいで、そう彼に見えるように。また明日の夜がくるように……願って。

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