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 カサリと頁がめくられる度に音がする。彼は膝を立て机のかわりにして本を読んでいた。やはりどうしても最後まで読んでしまいたいと言って。そうしなさいと私は答え、いつものように本を読む彼を眺めていた。8月の夜はまだ暑く、蛙の鳴き声は止むことなく続いている。  じっくり味わいながら握り飯を半分ずつ食べた。根菜類とは違う甘みは懐かしくもあり腹立たしかった。日本人であることを誇りに思うために戦闘機や機関銃が必要なのか?この小さな米粒ひとつのほうがずっと力がある。当たり前に口にできた時代を捨て置いて我々は何をした?何を得た?海外に喧嘩を売ったあげくしっぺ返しをくらっているではないか。そして若者の未来を奪っている。もっと違う形で笑顔を浮かべながら食卓を囲みたかった。薄い煎茶と半分の握り飯。あまりにささやかな最後の晩餐。  パタリと本を閉じる音で物思いから抜け出した私に彼は微笑んだ。 「我儘ついでにもう一つお願いがあります」 「なんだい?」  彼は本を床に置き正座をして私を見詰める。その真剣な視線は私に突き刺さるようだった。一緒に握り飯を食べるのが我儘だというなら、もう一つはどんな申し出だろう。一晩中話をしませんか?ちょっと散歩でもしませんか?私にはその程度しか思いつかない。 「両親に手紙を書きました。荷物とともに実家に戻ることになるでしょう」 「……そう」 「最後に会いたい人には会っておけと。なんなら女を……と上官に言われましたが断りました。最後なら、あなたがいいと。あなたしか思い浮かびませんでした」  女ではなく私を選んだということか?それは話し相手としてなのか、それ以上のことを望んでなのか私にはわからず困惑するしかなかった。予想以上のことで質問したくても何も思い浮かばない。 「無理なことを言っている自覚はあります。ただ眠っているあなたを見るだけでいい。夜明けとともに帰りますから、それまでここにいさせてはくれませんか」  自分の運命を達観しているような冷静さを持っていた彼。しかし今はむき出しの感情に翻弄されてか頬は上気し歪めた表情が人間くさく男らしかった。握った拳はぶるぶると震えている。 「いいよ。泊っていきなさい」  見開かれた瞳。まさか承諾されるとは思っていなかったのだろう。 「いえ……あの、すいません!やはり帰ります」 「ダメだ」  私は正座のまま腕で体を支え彼に近づく。彼はのけぞり私との距離を保とうとした。お構いなしに固く握られた拳に手のひらを重ねる。 「君の好きにすればいい」 「……いえ、だめです。あなたは同情してくれて、だからそんな……」 「馬鹿だね。同情や惜しむ気持ちがあったとしても出来る事と出来ない事がある。もしこれが他の男の申し出なら走れない足を引きずってでも逃げ出すだろう。でも君なら不思議と嫌ではない。どうしてだろうね」  彼の顔は真っ赤に染まって瞬きすることなく私を見詰めている。年相応の幼さが垣間見え、胸がほっこり温かくなった。重ねた手のひらに体重をかけて伸びあがる。重ねた唇は柔らかくて温かい、そして少し震えていた。 「女としかしたことはないが、君の唇は柔らかくて気持ちがいい」  力任せに強く抱きしめられ息が止まる。腕は逃がさないとばかりに私の身体に巻き付いた。その拙さと真っすぐさに私の心と身体はほどけフワリと力が抜ける。私の理性が間違っていないと告げていた。哀れみでも同情でもない。私は彼と心を共有したい。それに身体が必要だというなら差し出すまでのこと。 「布団を敷くから雨戸を閉めてくれないか」  擦れた「はい」という返事が耳元で聞こえた。

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