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9 下着の代わり
個室を出て、カウンターのすみで飲みながら、吉川からもう少し詳しい話を聞いた。
吉川は女装姿なら誰とでも普通に話せるのだが、男の姿だと普通に話せるのは家族とごく少数の友人くらいで、その他の人間相手だと大なり小なりコミュニケーションに支障が生じるらしい。
「お前、それじゃあ何かと困るだろう。
直す努力とかはしてるのか?」
「それが……話し方講座に行ってみたり本読んでみたりはするんですが、あまり役に立たなくて……。
もしかしたらカウンセリングとか受けた方がいいのかもしれませんが、そこまでは踏ん切りがつかないっていうか……」
「まあ確かに、カウンセリングはちょっと敷居高いよな。
んー……そうだな。
よかったら俺、練習台になってやろうか?
あ、けど友達とは話せるんなら、俺とも普通に話せるか?」
「あ、いえ、今は普通に話せてますけど、男の姿だと多分緊張して話せないと思います」
「緊張ってお前、何回もあんなことしておいて、今更緊張するような仲じゃないだろ」
吉川の言い分に呆れつつそう言うと、吉川は情けない顔になった。
「回数の問題じゃないですよ。
何回寝てても、この姿じゃなければハルさんと話すのは緊張すると思います」
「そういうものかな。
まあ確かに、回数こなせば大丈夫なんだったら、もう同じ部署の人間とも話せるようになってるか。
じゃあ、やっぱり俺相手に練習してみるか?」
「はい、ご迷惑でなければ、お願いしたいです」
「おう、いいぜ。
これからは週末だけじゃなくて、平日に飲みに行ったりしようぜ。
話す練習だけでヤラないんだったら、俺の部屋でもいいしな」
「はい、お願いします!」
──────────────
そうやって元気よく答えた吉川からは練習の必要性など全く感じられなかったのだが、実際に男の姿の吉川と向かい合うと、やつの言った通り、なかなか会話は弾まなかった。
最初の何回かは居酒屋や定食屋で会っていたのだが、吉川の声が小さくて騒がしい場所では聞き取りにくいため、早々に俺の部屋に切り替えることになった。
俺も吉川もほとんど料理をしないので、スーパーで弁当や酒やつまみを買って、二人で俺の部屋に帰る。
会話の練習と言っても、別にこれといって特別なことをするわけではない。
その日会社であったことを話したり、テレビを見ながらあれこれコメントしあったりと、友達とするようなごく普通の雑談をするだけだ。
しかしそれだけのことでも吉川は本当に緊張するようで、あいかわらず声は小さいし語尾は弱々しく消えていってしまうことが多い。
それでも吉川との会話は、意外なことに楽しかった。
もともと吉川は頭の回転は速いらしく、俺の言ったことにすぐに的確な答えを返してくるし、考え方や価値観も比較的俺と近くて、話していて苛立つようなこともない。
どうやら俺との会話を楽しんでいるのは吉川の方も同じらしく、自分が話すときはまだ緊張しているものの、俺が話している時はリラックスしているように穏やかな微笑みを浮かべていることが多かった。
そうやって平日にも会うようになって、すぐに目に見えるような効果があらわれたわけではなかったが、それでも少しは練習の効果はあったらしい。
俺とも最初の頃に比べれば大きな声で話せるようになってきたし、吉川によれば会社でも前よりはまともに会話できるようになってきたそうだ。
どうやら俺もちょっとは役に立てたのかなと思うと、なんとなく嬉しい。
まあ、そうは言っても俺は普通に吉川との会話を楽しんでいただけで、特に何もしてはいないのだが。
その日も買って来た弁当を食いながら話していたのだが、食事を終えた頃、吉川に渡す物があったことを思い出した。
「そうだ。吉川、これやるよ」
そう言ってカラーボックスの上に置いておいた紙袋を渡すと、吉川はなんだろうとでもいうような不思議そうな顔になった。
「開けてみろよ」
そううながしてやると、吉川は「はい」と答えて紙袋を開け、中から細長いプラスチックのケースを2つ取り出した。
「これ……ネックレスですか?」
「そう、ペアのな」
吉川が開けたケースの中には、同じデザインで色違いのハートのネックレスが入っている。
それぞれ単独でちゃんとした形になっているそれは、二つを組み合わせてハートが重なり合ったデザインの一つのネックレスとして使うことも出来るらしい。
「女物の下着着けて会社行くのは無理でも、それくらいなら着けて行けるだろう?
もし万が一誰かに見られても、それだったら『彼女にせがまれて仕方なく』とか言い訳できるし。
まあ下着ほどはっきりと女装ってわけでもないから、そんなに効果はないかもしれないけど、着けてればちょっとは自信持てるんじゃないか?」
俺としては別に女物の下着を着けてても万に一つも見られる可能性はないんだから、別にいいんじゃないかと思うのだが、吉川の性格ではそんなふうに開き直れるとは思えないので、代わりに何か身につけていても不自然でない女性物はないかと考えていて、ペアのアクセサリーを思いついた。
実際にアクセサリーショップを見に行ってみると、男女がペアで使うものの多くは、男性が着けても女性が着けても違和感のない、さりげないデザインのものが多かったのだが、俺はあえていかにも女の子が好みそうな可愛らしいデザインのものを選んだ。
使い道を考えたらユニセックスなデザインのものは意味がないし、それに吉川は女装する時、服はきちんとしたスーツなどを選ぶことが多いが、下着はかわいらしいものや清楚系のものが多かったので、服の中に着けるならこういういかにもなハート型とかの方が好きそうだと思ったからだ。
「……確かに、これだったら毎日着けていけるし……かわいいから女装している気分でがんばれそうです。
ありがとうございます。
……あ、お金払いますね。いくらでしたか?」
「金はいいよ。
そんなに高いものじゃないし、お前、がんばってるからご褒美ってことで」
俺がそう言うと、吉川は照れたように、しかし嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、遠慮なく……。
ありがとうございます」
そう答えると吉川はシルバーカラーのネックレスの方を自分のカバンにしまうと、残ったゴールドカラーの方を俺に差し出して来た。
「一つあればいいので、こちらはお返しします」
「え、返されても困るよ、使い道ないし。
お前、予備に持っておけば?」
「……いえ、二つもいただくのは申し訳ないですから」
「うーん、そうか?
じゃあ、いちおう預かっとく」
俺が持っていても全く意味はないのだが、まあ邪魔になるほどの大きさでもないからいいかと、吉川からネックレスを受け取って引き出しにしまった。
「あ、お前、それ今つけなくていいの?
着けた方が話しやすいんじゃないか?」
「えっと……それはそうなんですけど、でも練習ですから、できれば着けずにやりたいです」
「ああ、そうか。それもそうだな。
じゃあ、コーヒーでもいれてくるか」
「あ、俺が」
「ああ、それじゃ頼む」
何度もうちに来ている吉川は、インスタントコーヒーやカップがある場所をわかっているので任せることにして、俺はテレビの前に座った。
「昨日やってた映画録画したけど、お前見た?」
「いえ、見てません。……見たいです」
「じゃあ、今日はそれにするか。
見ながらちゃんと話もするからな」
「はい」
吉川が受け答えする声は、まだ決して聞き取りやすいと言える大きさではないが、それでもこうして少し離れた距離でも会話が成り立っているのだから、それなりには声が出るようになったと言える。
最初の頃に比べたらだいぶ進歩したよな、などと考えながら、俺はチャンネルをビデオモードに切り替えた。
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