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第21話 すき、 -1

「幸せに、なってください」  仁科の言葉を背中に受けて、走り出した足。彼に、仁科にそうまで言われたら、もう、逃げるわけにはいかなかった。しっかりと、桐生は久谷に向き合わなければならないのだ。  だからもう、迷わないと決めた。もうこれ以上、自分の想いに気づかないふりをして、偽るのを、本当の自分を隠すのをやめようと。  それは、そう決心した今でも、やはり怖くて。  ここまでずっと逃げて、隠れて、偽ってきた。そうして自分を必死に守ってきた。こうして痛みを怖がる自分を、傷つくことに臆病な自分を根本から変えることなんて、そう簡単にできることではない。そう簡単には変われない、けれど。 (それでも恐怖と戦うことなら――変わろうと挑むことなら、今の俺だってできるから)  ドアノブを掴んだ手に一瞬ぎゅっと力を入れて、バンと扉を押し開ける。ぱっと開ける視界。すると目に飛び込んできた向こうから走ってくる人物に、桐生は目を見開いた。 「久谷……っ」 「委員長!?」  名前を呟くと同時に、仁科が桐生の介抱を終えるのを待ってそこにいたのであろう風紀委員がすっとんきょうな声をあげた。しかし当の本人は、そんな責任ある自分の役職名には全く反応せずに、脇目も振らず一直線にこちらに向かってくる。一刻も早く会いたいと願う自分の妄想かもしれないと疑いたくなるほど、真っ直ぐに。  驚いて扉を開けたまま固まってしまっていた桐生は、その走ってきた勢いのままに、久谷にガバリと抱き竦められた。 「桐生……!」 「ちょ、おい久谷!?」  ぎゅううっと力任せに抱き締めてくる腕。耳元で名前を呼ぶ切実な声。全身に感じる体温、荒い息。  そのすべてが理解できなくて、わけもわからず桐生は目を白黒させることしかできなかった。この状況に頭の理解が追いつかず、なされるがままに呆然としていると、今度は突然後ろから襟を引っ張られてあっという間に久谷から引き剥がされる。 「うわっ、」 「……なにを、やっているんですか。さすがに腹が立ちます」 「に、しな」  急に引っ張られてバランスを崩した桐生を支えたのは、後から部屋から出てきた仁科で。苛立ったような声音が、耳元から目の前の相手に向かって発せられる。威嚇するような、腹立たしそうな声。  しかし仁科はそれ以上なにかするわけでもなく、あっさりと桐生の襟を離した。そうして部屋の中に桐生を置き去りにして、さっさと部屋の外へと出てしまう。追い越し際に「頑張って」と、桐生にだけ聞こえるように囁いて。 「こんな所で立ち話じゃなんでしょうから、中に入ったらどうです?」 「ちょ、仁科」 「ああそうだ、あなたにはこの事件に関するお話があるので、風紀委員室まで案内してくださいね」 「おい?」  有無を言わせない物言いに、仁科から指名された風紀委員はオロオロしながら長に目で確認をとる。指示を求められた久谷はこくりと頷き、「悪い、頼んだ」とだけ言葉を発した。それから仁科に言われた通り、こちらに来ようと歩き出した久谷に、仁科がすれ違い様に再びなにかを囁く。 「――」 「……ああ、わかってる」  仁科の言葉は聞こえなかった。それに短く答える久谷の表情もわからない。そのままくるりとこちらに背を向けて風紀委員と歩き出した仁科。思わず呼び止めようとした彼の姿は、久谷が閉めた扉に遮断されて見えなくなった。  いったい、なんなんだ。どういうことだ。  思わぬ流れ、そしてタイミングで二人きりになってしまったこの状況に、なんと切り出せばいいのかわからず、桐生は思わず沈黙する。真正面からぶつかると決めたものの、まずなにを告げるべきなのか、まだなにも考えていなかった。本音でぶつかることしか考えていなかったのだ。どうにか必死に頭を回転させようとする桐生だったが、しかし先にその沈黙を破ったのは彼ではなく久谷の方で。 「……もう、動けるのか?」 「え? あー……ああ、もう平気だ」 「そうか、よかった」  心配そうに聞かれて、桐生はようやく自分がついさっきまで何をされていたのかを思い出した。そういえばすっかり忘れていたけれど、そもそもの発端はソレからだったか。正直その後の、久谷に見られたことへのショックや仁科との会話の方が桐生にとっては遥かに大きくて、そこまで気を回す余裕がなくなっていたけれど。  そう、そうなのだ。あの時、はっきりと久谷を拒絶したはずだった。あれだけ明確に拒絶を示したというのに、なぜ久谷は、ここに戻ってきた? 「お前……なんでここに、」 「――あいつに、聞いたんだ」 「え?」  真剣な瞳に見つめられる。真剣で、それでいてどこか緊張を帯びるそれ。その緊迫感に、桐生まで小さく息を呑む。  あいつって、いったい誰のことだ。誰に、なにを聞いたって?  久谷には隠し事だとか、誤魔化しだとかが多すぎて、いったいどれのことを言われているのか見当もつかなかった。心当たりが多すぎて、なにを知られたのかわからない。しかしどれであっても、偽る必要があるくらいには、汚い自分を知られるということで。  好きじゃないと嘘をついていたこと? ルールを破って独占しようとしたこと? 後腐れないだなんて言ったこと? そもそも自分が、こんな情けない人間なんだってこと?  自分がいかに久谷に偽りの自分しか見せてこなかったかを、ここにきて改めて実感する。本当の自分を見せたことなど、果たして一度でもあっただろうか。いつだって取り繕い、隠し装った、偽りの自分しか見せてこなかった。  そんな、偽りだらけの自分の真実を知られるのは、どうしようもなく恐ろしくて。だけど、すべてを打ち明けると決めたのだ。すべてを見せると決めたのだ。なにを知られたとしても、それは今の自分にはとっては第一歩、だから。 「久谷、俺は……っ」 「――セフレがいないっていうのは、本当か?」 「え……」  遮られた言葉。投げ掛けられた問いに、戸惑いながらも微かに頷く。すると桐生の肯定に、久谷はなぜか、酷く苦しげに拳を握った。  正直に言って、拍子抜けだった。セフレがいないことがバレただなんて、桐生にとっては些細なことだ。今まで犯してきた罪は、迷惑をかけた大きさは、そんなものでは収まらないから。踏みにじってきた想いは、計り知れないものだから。  ただ一つだけわかったのは、久谷にこの事を話した人物のこと。真実を知っていて、かつ久谷に話すような人間は、雨宮しかいない。  しかしそんな桐生の思いとは裏腹に、やはり久谷は酷く苦しげで思い詰めた顔をしていて。そうして堪えるように一瞬だけ唇を噛み締めると、意を決したように口を開いた。 「……これは、お前にセフレがいないって知って、俺なりにそれを考えた上での行動だから」 「久谷?」 「だから、嫌だったら、思い切り突き飛ばして殴ってくれて構わない」 「なにを言って――……」

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