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第1話 すきじゃないから

 はじまりは、何の変哲もない穏やかな午後だった。  静かな生徒会室。そこに本来いるべき役員はいなかったが、今は逆に珍しい客がいる。それは、普段ならばこの部屋へは寄り付きもしないはずの、風紀の長で。  生徒会を毛嫌いしているはずの彼がここにいる理由。それは、ここにはいない生徒会役員たちにあった。  わざわざ書類を持ってきてもらわなければならない、そうでもしなければすべての仕事を回すには困難な状況。生徒会がそんな状況であるため、彼はここにいるのだ。そんな状況を作り出した役員たちに対して、いつもならば怒りしか浮かばないところだが、しかし今日ばかりはそうではなかった。 「久谷(くたに)、いい加減それやめたらどうだ」  仕事を終えた途端に出て行こうとしながらスマホを取り出した男に、この部屋の主である桐生(きりゅう)侑紀(ゆうき)は声を掛ける。すると、流れるようにするすると動いていた男の指が止まった。が何を指すかなど、この学園の人間であれば言わずと知れたことである。  大袈裟にため息を吐いてみせた生徒会長へと、風紀委員長――久谷弘毅(こうき)の気だるげな視線が向けられた。不満たらたらな、今更、おまけによりによってお前がなにを、と言葉にせずとも伝わってくる眼差しに零れる苦笑。自然に見えるよう、逸る心臓に気づかれないよう細心の注意を払いながら、桐生は呆れたように肩を竦めた。 「仮にも風紀委員長が、セフレいっぱいってのはさすがにマズイだろ」 「……一人に絞るのは色々面倒くせえっての、お前もわかってんだろ。それとも俺に禁欲しろとでも言う気か? お前が」  がしがしと頭をかきながら面倒くさそうに吐かれた言葉。予想通りの反応に、桐生は内心ほくそ笑む。  学園のツートップが同じ穴の狢だった。だからこそ黙認されてきていたことだ。それがなにをとち狂ったことか、片翼だけが優等生面をし始めてしまったら、もう片翼にとっては面倒なことこの上ないのである。  しかしそう思っているであろう久谷を裏切るように、桐生の口は綺麗な弧を描く。そうしてまるで狙いを定めるように、桐生は緩慢な動作で目を細めた。 「なあ久谷、俺としてみねえか?」 「……は?」 「処理はしたいがここで恋人はいらない。だけどセフレがこれ以上増えるのも体裁が悪い……だったら、俺としてみようぜ?」  豪華絢爛な席に座り、見るからに高級な机へ行儀悪く頬杖をついて。そうしてうっそりと、婀娜っぽく笑ってみせる。すると、面倒くさそうに見ているだけだった久谷の目が値踏みをする目へと変わるのがわかった。  煽るように、ぺろりと僅かに上唇を舐める。刹那、相対する瞳にちらりと灯る、欲情の色。 「……俺は受ける気はないぜ?」 「へえ。いいんじゃねえの」 「本気か?」 「俺にとっても都合がいいんだよ。お互い快楽主義で好きでもない。後腐れのない、いい条件だと思うがな」  ――なあ、どうする?  そう言ってゆるりと目を細め、微かに首を傾げてみせる。そうすれば、快楽主義者の風紀委員長が誘いに乗らないわけがないのだった。  風紀委員長という役職に就きながら、自ら風紀を乱している筆頭と揶揄される男、久谷弘毅。そして同じく下半身が緩いと噂の桐生侑紀は、この学園において久谷と対を成す、生徒会長であった。  桐生はその人生において、誰にも自分の体を触らせたことはなかった。この学園において散々性的対象として見られていたうえに、あまつさえ淫乱だ淫売だとありもしない噂を立てられてはいたが、実際のところは処女で童貞。性行為の経験など皆無。  未経験なだけで、もちろん健全な男子高校生としてそういった行為に興味がないわけではない。しかし経験がないということを恥じることはなかった。なぜなら彼には、久谷弘毅という想い人がいたから。  しかしかくいう久谷は、同性を性の対象には見られても、恋愛対象は完全にノーマルな人間だった。性欲を発散するためのセフレは学園内に大量にいる。しかし少しでも自分に恋心があるとわかった人間とは決して寝ない。それが、頑ななまでの久谷のポリシー。  そう、だから、そもそも叶わない恋なのだ。  それならば、情を交わすことができないならば、せめて熱だけでも交わしたい――そう思い始めるのは、自然の流れで。  セフレだってなんだって構わなかった。なんだって、久谷に触れることができるのならば。そうすれば、この行き場をなくして燻っている恋心を少しでも昇華できる気がしたから。  しかし今の二人の関係を考えると、それには少しばかりきっかけが必要だった。そして今日、久谷が絶好の台詞を吐いてくれた。  それが、きっかけ。  煽るがままに、まんまと釣れてくれた久谷を自室へと招き入れるのは簡単だった。初めて桐生の部屋へ入った久谷は、こんなときだけ風紀委員長らしく興味深げに周りを観察していたが、桐生がおもむろに制服を脱ぎ始めるとニヤリと笑ってベッドへと腰掛けた。お手並み拝見、とでもいうようにこちらを見ているだけの久谷を鼻で笑ってやってから、用意していたローションを手にぶちまける。  ぎこちなくないか? 不馴れに見えないか? 手は震えてないか? 青褪めてはいないか?  恐怖と不安に押し潰されそうになりながら、それでも顔だけには余裕を貼りつける。ここまで来たからには止まれない。止められない。  ――大丈夫。このときのために何度も予行演習はしたし、覚悟だってとうに決めてある。この俺があれだけ準備して、にも関わらず出来ないなんて、そんなことありえないだろう? 「……ん、はあっ……」  四つん這いになり、自分の後ろの穴にゆっくりと指を挿し入れる。その感覚に、くぐもった吐息が零れた。  慣れない異物感が苦手で最初はいつも肌がどうしても粟立つが、ここさえ通過すればローションの力を借りてなんとかなることはわかっていた。もたもたして自分が怯む前にとすぐにもう一本追加して、中を解すように拡げるようにばらばらと動かす。すると先ほどよりも強くなった体内を無理やり抉じ開けられる感覚に、体を支えている腕ががくがくと笑った。 「はっ、ぅ……ん……!」  ぐっと目を瞑り思いきって中を撹拌すれば、粘膜を擦り上げられる感覚に思わずびくりと背がしなる。苦しいほどに強烈な異物感。独りでに零れる生理的な涙。まだ快感など少しも感じられない。けれど久谷が見ているというだけで、苦痛とは裏腹に体温が上がるように感じるから不思議だ。 (お前がそうだと言うんなら――……)  これが快感なのだと、思える気がした。  支点にしていた腕がついに耐えられなくなり、がくりと折れる。体のコントロールが利かない情けない姿。しかしそれでもきっと、上半身が潰れて勝手に震えている体や、次々にシーツへと吸い込まれていく涙と声は、淫らなものとして映っている、はず。 「んんっ、ふぅ……っ」  下世話な噂は知りつつもわざわざ否定しなかった。広まるようにと余裕な顔して笑ってやった。男同士のヤり方だって調べたのだ。淫乱なイメージを保つために。慣れているイメージを崩さないために。一人で慣らす練習だってした。使用済みのローションがなにを想起させるかなど、予想済み。  なぜなら、久谷がセフレに選ぶタイプは有名で。桐生はそうならなければならないのだから。  そう――自分から腰を振って、善がるような男に。 「っは、ぁ……く、んッ」 「……さすが桐生会長、エッロいねえ」 「っに、見てやがる! くた、に……もう……っ」  やれることならなんだってした。  本気が負担だというのなら、想いなど綺麗に隠しきってみせよう。性欲処理のためだけの行為だというのなら、淫売を演じきってみせよう。  軽い男に見えるように。慣れているように見えるように。なにより気持ちいいと思ってもらえるように。ただそれだけを、考える。  だけどこれ以上の行為を、桐生はまだ知らなかった。一人でできる段階には限界がある。文字でなら散々読んだけれど、しかし実際にはどうすればいいかなどわからない、から。  好きにしてくれて構わない。だから久谷、頼むから、なあ、どうにかしてくれ――そう、シーツへと擦り付けていた涙濡れの顔を上げた時だった。 「くそっ、煽りすぎだ……っ」 「っ! え? っちょ、や、おま……っ!」 「……ん? どうし……?」 「ぁ、ぁ……っやめろって、いって……!」  口から情けない声が迸った。滲む視界には、いつの間にか迫っていた想い人の姿。頬を伝う涙を舐められると、途端に大袈裟なまでに体が震えた。乱暴な勢いで仰向けに引き倒されて、耳に臍に落とされる口づけに、切ない痺れが脳髄を溶かしにかかる。もうわけがわからなくなりそうで、本当に溶けてしまいそうで、シーツに縫い止められた拳を白くなるまで握りしめた。  嫌だ、やめてくれ。いらない。いらないんだ。  久谷が気持ちよくなれば、本当にそれでよかった。なぜなら桐生は淫乱だから。そんなことしなくても、勝手に一人で感じるのだから。以前、誰かがそう言っていた。ずっとそういう目で見られてきた。その噂を久谷が知らないわけがなくて。  だから前戯だとか、そういうものはいらない。ただ、久谷は突っ込めば、本当にそれでいい、のに。 「もういいって、んっ!」 「……なんだ、触られ慣れてねぇのか?」 「っくそ! っふ、や、変だ……ぁ……!」 「……あんな一人でエロくなんのに、触られるの苦手ってなんだそれ……」  体を撫でる大きな手に、囁かれる声に、かかる吐息に、落とされる口づけに。久谷から与えられるすべてに、体が勝手に反応してしまう。桐生はそれに、戸惑いの声を上げることしかできない。 (なんだよこれ、こんなの、こんなの知らない……!)  自分を触っているのが久谷だと思うだけで、頭がおかしくなりそうだった。自分でやったときはこんな風ではなかった。それなのに、どうして。自分ばかり気持ちよくなってどうするのだ。  これはきっと快感ではない、けれどこんなにも追い詰められる。与えられる未知の感覚とリンクしない身体に対する焦りで、桐生の頭の中はパニックだった。  だって、こんなセックスで、あの久谷が満足するわけがないのだ。久谷が喜んでくれるわけがない。そう思うと、今にも生理的な涙は感情的なそれに代わりそうで。計画は完璧だったはずなのに。準備だって抜かりないはずだったのに。 (どうしてお前は、そうやって俺の仮面を剥がそうとするんだ――……)  しかし、どうしたって抗えないのだ。触れられるたびに、久谷に触れられる喜びを、久谷が好きなのだということを、どうしようもなく思い知らされる。否応にも想いの深さを実感させられる。苦しすぎた。気持ちを昇華させるつもりだったのに、さらに深まってゆくばかりで。  ああ、だけどきっと、久谷はこんな人間をセフレには選ばない。無駄な心配だったか――そう、思ったとき。 「……あーヤバイ、嵌まりそうだわ」 「っ、く、たに……?」 「なんだそのギャップ、煽るの上手すぎんだろ……」  ふいに抱き竦められた体。はっと見上げたそこには、ギラギラと雄の顔でこちらを見つめる久谷がいて。その表情に、ぞくりと背中を電流が駆けた。 「いいぜ、専属契約、しようじゃねぇの……っ」 「……っ、くたに、」 「だがその代わり、契約中はそのエロい顔、誰にも見せるんじゃねえぞ……!」  ニヤリと笑い、俺の面子を潰してくれるなよ、としかけられた噛みつくようなキス。あっという間に呼吸を奪われて、縋るようにその身体にしがみつく。それに細められた目は、桐生を愉快そうに眺めるだけで。  好きだと口にすることはできない。それでもこうして体を重ね、キスをすることならできる。それでよかった。それ以上など、なにも望まないから。  朦朧としてゆく意識の片隅で、そう思う。  ファーストキスは、甘くて苦い味がした。 第1話 すきじゃないから(そばにいさせて) 完

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