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第14話 傾城④(完結)
「午睡なさっていたのですね」
近侍の落ち着いた声に、老人はこちらの世界に帰ってきたことを知った。
文机に凭れて寝てしまったらしく、体を起こすと背中が痛い。
腰を拳で叩いていると、近侍が温かい茶の入った湯飲みを差しだしてきた。受け取ろうと伸ばした手が、皺深く枯れていることに一瞬驚き、老人は苦笑を漏らした。こちらの方が見慣れているはずなのに、あちらの世界から戻ってくると違和感を覚えずにはいられない。
審神者としてこの本丸に招かれて、もう百年以上が経った。
並外れた神気を持っていた男は、付喪神たちの持つ気と呼応して、長い間老いを知らずに過ごしてきた。このまま永遠に生き、神の仲間入りをするのではないかと思えるほどだった。
だがその奇跡も終わる日が近づいていた。外見は年齢に追い付き、肉体も見た目同様弱っていく。生まれ持った莫大な神気が尽きつつあり、それに伴って、長すぎた寿命にも最期の時が近づいているのだ。
――かつて審神者になったばかりの頃、老人は一振りの美しい付喪神に懸想した。
しかし、人の姿を持ちはしても、中身は所詮血の通わぬ刀の化身だ。どれほど側にいてくれと願っても、刀の化身はそれを振り切って戦場へと赴き、そして儚い鉄くずとなった。男が気も狂わんばかりに嘆くことを、知りもせぬまま。
あの時、男はどこか壊れてしまったのだろう。
独り戦場に赴いて砕けた欠片を拾い集め、男はそれを眠りの世界に持ち込んだ。隔絶された空間に己の意のままになる世界を作り出し、男は欠片を使ってそこに付喪神を顕現させる。何振りも、――何振りも。人の情を解さぬ刀に恨みをぶつけるように、男は彼らを隷属させ、辱め、獣のように扱った。あちらの世界では、男は絶対の支配者だった。
その夜ごとの遊戯も、もうすぐ終わる。
男は年老い、眠る時間が長くなっていた。そう遠くないうちに、眠ったまま目覚めを迎えず、彼岸へと旅立つ日がくるだろう。それと同時に、男が作り上げたあちらの世界も終焉の時を迎える。――心残りは、一振りの『小狐丸』だけだ。
幼い頃から手塩にかけて育ててきた、淫蕩で貪欲な刀。あの一振りだけは、他とは違う。神気を与えれば無条件で靡く他の『小狐丸』と違って、あの鮮やかな真紅の目には怒りと憎しみが凝っていた。
あともう少しで、あの『小狐丸』は『人』になる。男が長年待ち続けた、憎むことも愛することも知る、『人間の小狐丸』に生まれ変わるのだ。
男は蕾と名付けた一振りの、妖艶で瑞々しい美貌を脳裏に思い描いた。思えば、あれに溺れ、大量の神気を注ぎ込むようになってから、老いが始まったのかもしれないと思いながら。
『傾城は国を亡ぼす』との伝承も、元は『小狐丸』たちを無垢なまま手に入れるための、ただの方便だった。しかし千年の時を数えるうちに、言霊が力を持ったとしても不思議はない。会うたびに人間らしくなっていくのが嬉しくて、不完全な器に余るほどの神気を注ぎ続けてしまった。伝承の通り、あの閉じた世界はもうすぐ終わりを迎える。神気を使い果たした男の死をもって。
今少しの猶予さえあれば、あの『小狐丸』は『人間』になるはずだった。自らの意思を持ち、誰かを愛することも、憎むこともできる、完全な存在になるはずだ。――だが、あの『小狐丸』にも、時間はあまり残されていない。
あちらとこちらでは時の流れが異なった。こちらでの数日は、あちらでは何十日にもなってしまう。ほんの少し目を離すうちに、彼らはどんどん年をとり、男を置いて儚く消えてしまう。あの傾城も、もしかすると男の命が尽きるより先に、無に還ってしまうかもしれない。
その時を引き延ばすためにも、男は早くあちらに戻って神気を与えてやらねばならなかった。
「俺の息が止まっているのを見つけたら、この書類とこの書類を政府に送ってくれ。後任者は選定してあるし、引き継ぎも済んでいる。遺体は政府が引き取りに来るまで、風通しの良い涼しいところに保管を頼む」
老人は、自身の死後の処理について近侍に指示した。近侍は落ち着いた様子で、男が纏めた書類を受け取り、中身を確かめた。
「確かに承りました。……百年ばかりで交代とは、ぬしさまもお忙しゅうございまするな」
書類を確かめた近侍は、俗世の垢を知らぬ温容な笑みを浮かべた。その白く整った貌は、傾城と呼ばれたあの『小狐丸』と寸分の違いもなかった。
穏やかなばかりの付喪神に、老人は思わず苦笑いを漏らした。長い年月をともにしたこの近侍だが、ついに命あるものの死と寿命、それに人の持つ愛憎は理解し得なかったようだ。それも仕方がない。これは刀の付喪神なのだから。
その代わり、老人は真実欲したものをもうすぐ手に入れる。
「ああ、そうだな。そろそろ穏やかに過ごしたいものだ……」
老人は目を閉じた。瞼の裏に、男たちを喰らって歓喜の声を上げる美しい傾城の姿がぼんやりと映った。大岩のような男に貫かれ、狂ったように尻を振っている。老人の訪れが遠のいたせいで、神気に飢えているのだ。
――もう一眠りして、今度こそ腹に神気を呑ませてやらねば……。
老人の意識は、闇の中に静かに沈み込んでいった。
「おや……ぬしさまは、お休みになられましたか」
茶のおかわりを尋ねようとした近侍は、安らかな顔で机に凭れかかる老人に気づいた。
暫く返事を待ってみたが、目覚める気配はない。眠りは随分深いようだ。
「……よい夢を見てください。ぬしさま」
刀の付喪神は文机から湯飲みを下げると、老いて痩せた背に羽織を着せて、主の部屋を静かに後にした。
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