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第1話 花一華の簪

薄暗い廊下に、不気味に響く足音。その足音に、小さな部屋に閉じ込められた子供たちは今に自らの扉の前で足を止めるのかと、怯え震える。 ただ1人、一華を除いては。 「あ」 「おーい、おいおい。またヤられたのか、お前」 地下の1番奥、一際暗い場所に、一華は普段入れられていた。 他の子には恐怖を知らせる御田の地下を歩く靴音も、一華からしてみれば日常の一環。…そもそも、一華自身に『恐怖』という感情が存在するかは謎だが。 「ったくアイツらも懲りねぇな…」 御田が一華の前にしゃがみこむ。一方の一華はというと、先ほどもまた組の下っ端に犯され、それの後処理をしている最中だった。御田は、一緒に連れてきていた黒服2人を下げると、一華の頬をスルリと撫でた。 だが、一華は決してそれにすり寄ることはしない。 「___っ!」 撫でられた逆の頬を殴られると、知っているから。 その行為に対して、一華は特に何も感じたりはしない。これもまた、一華にとっては日常なのだから。 「散々相手したかもしんねぇけど、途中で落ちんなよ?」 こめかみのあたりにもう一発。だが、これにも一華は表情を変えない。 常人にとっての異常、それが一華の日常であるから。 「高澤ぁーーっ。これ、よろしく」 半日後。施設の医務室に御田が引きずり込んだのは、全身生傷だらけの一華だった。 気持ち程度に生えていた足の爪は全て剥がされ、尻からは血がとめどなく流れている。 「…御田さん、これ…」 「あ? 文句あんのか、とっととやれや」 乱暴に一華を医務室の床に放り投げる。あぅ、と小さく喘ぐ一華はあまりにも弱々しかった。 「あ、やばそうな傷だけでいいから」 そう一言を残し、御田は医務室から姿を消した。 最近新しくこの施設の専属医としてやってきた高澤深織愛は、大きなため息をついた。御田の連れてきた一華の状態、今まで見た中でも今回は特に酷かった。深織愛がここへやってきて、まだ3カ月と経っていない。他の子供は月に1回、医務室に顔を見せればいい方、という位にそうそう医務室へはやってこない。 それがどうだ。一華は今月に入ってまだ日が浅いというのにも関わらず、もう4回目。それも切り傷や擦り傷といった軽いものでは到底ない。 全身に痣や打撲の跡、刃物で切りつけられパックリと開いた肌、手足の爪はすべて剥がされ、背中には熱した鉄を押し付けたような跡……こんな状態の一華の手当てを、幾度となくした。 今回も、何回もぶたれたような痣、細かい擦り傷に、深い切り傷。そして背中にはたばこをおしつけられた跡があった。 深織愛には理解できなかった。こんな細く小さい身体を嬲って、いったい何が楽しいというのか。一華も見ていると気味が悪くなってくる。これだけの酷い傷があるのに、今の彼の表情はまさに無。 これだけの外傷があれば普通、痛みでどうにかなるはずなのに。 「…全部やばそうだよ」 深織愛はそう一言つぶやくと、未だ床に転がっている一華に話しかけた。 「おい、ベッドまで来れるか?」 「……う、ん」 床から立ち上がろうと手をつくが、そのまま倒れこんでしまう。その拍子にあごを強く打ち付けてしまい、口から血がふき出た。……それにすら表情を崩さない。むしろ、今自分の身に何あが起こったのか理解できない、といったようだった。 そのあかしに、一華はしばらく動きを止めたかと思うと、首をかしげた。 「…っ。おい、ちょっと来い」 ベッド付近にいた深織愛が一華の傍までやってくる。 ひどくめんどくさそうに一華の事を横抱きで抱えあげた。だがこれには少し傷が痛んだのか、やっと顔をしかめた。 「う」 「痛いか? そりゃ痛ぇだろうよ。普通、こんだけボロボロにされちまったら動けねぇんだよ。お前、ある意味すげぇわ」 ベラベラとまくしたてると、やっと言葉らしい言葉を発した。 「? だって…しゃべった、ら……っうえ」 …のだが、すぐに言葉に詰まって血を吐いた。量はそれほど多くはないが、血を吐くということは胃をやられている可能性がある。 「っ! …おいおいマジか……御田の奴(アイツ)、やりすぎなんだよ…。くっそ、きったね」 『しゃべったら』。その先が聞けることはなかった。だが容易に想像は可能だ。 一華をベッドに預け、目に見える傷の応急処置の為の包帯や薬を取るため、その場を離れた。 普段、一華が自ら言葉を発することはそうそうない。勝手に喋ると殴られるからだ。だが、この時の一華は、なぜか自ら深織愛に話しかけた。 「ね、ぇ」 「なんだ」 「いたみどめ、っていう、おくすり…あ、る…?」 腹の底から、捻りだすような声。薬剤の揃う棚を漁っていた美織愛だっtが、思わず振り返る。振り返った深織愛の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で薄く笑みを浮かべる一華。悲しそうな、辛そうな感情がその表情からは感じられるが、だがしかしあくまで無。歪んではいなかった。 「ね、早…く。ちょー、だい…」 「…痛み止めは傷を治すモンじゃない。それにその傷じゃあ、ここにあるのだと弱すぎてすぐに痛み出すぞ」 ここにいる子供は、みな幼い頃からここにいる。学校なんて所は、きっと聞いたこともない…なんて子供もいるだろう。この一華だって、その1人のはずだ。果たして、なぜ「痛み止め」なんて言葉を知っているのか。 「…、?」 言葉の意味が理解できなかったのか、首をかしげた。そのあまりに幼い仕草に、深織愛は気持ちばかりの罪悪感を覚えた。まだ自分にもこんな感情が残っていたのか、という事実に驚きつつ手を動かす。 ここへきて、3ヶ月。既に両の手では足りない数、一華の傷を診た。だが一華自ら痛み止めをねだったのは今回が初めての経験だった。 深織愛が初めてここへきて、初めて一華を手当てした時。もしかしてコイツには「感情」というものが欠如しているのでは? という疑念を抱いた。 その時も、今回ほどではないが相当にひどい傷だった。常人であれば、のたうち回るほど。…否、気絶しているかもしれない。 だがどうだ、当の一華はピクリともせず、傷に触れても消毒しても声を上げるどころか表情すら変えなかった。…目の焦点も心なしか合っていないような気がして、意識がトんでいるのかと思ったが、その時は治療が終わると自ら治療台から降りたので、そういう訳ではないらしい。 「ね、ぇ…」 なぜ急に。だが少し安心した部分もあった。「感情」は欠落していなかった、という事に関しては。 この傷のひどさだ。今すぐに痛み止めを投与して傷の手当手をした方がいい。もし化膿でもして、それが原因で死ぬなんて事があればコイツの死因は深織愛になる。それで面倒くさいことになるのだけは勘弁だ。 「ねぇ」 一華の声が響く。深織愛が痛み止め投与に踏み切れないのには、2つ理由があった。 1つは御田にきつく「痛み止めと、それ類の薬はどれだけ痛がっても与えるな」と言われている事。いや、こちらはわりとどうでもいいのだが。 どちらかというともう1つの理由の方が。それは、一華の痛み止めへの「依存」への懸念。これは推測でしかないが、恐らく誰かからか「痛み止め」の存在を聞いたのだろう。だがこの様子じゃ今まで一度も痛み止めは投与された事がないはずだ。 一華のこの感じ。1度痛み止めを投与して依存でもされたらたまったもんじゃない。こちらの方が重要…かもしれない。 「…っふ」 その時、不思議と笑みがこぼれた。 親の金で、バカ高い学費を払って通っていた医大を卒業間近で中退した。いつもは行かないバーで出会った男に、今の仕事を勧められた。 医者になり損なった自分が、医者として裏社会で働く。なんたる皮肉。だが今まっとうな「医者」としての考えを持った自分が、いた。 …そうだ、コイツなんて別に。ただ所長の、御田のお気に入りってだけで。何を一体血迷っていたっていうんだ。 ただ御田の、言う通りにすればいい。 「…っ、」 「うるせぇな、お前にやる薬なんてこれっぽっちもねぇっつの。やばい所だけ縫ってやるから大人しくしてろ薄汚ねぇガキが」 「あ、」 医務室の、開く音で気が付いて、我に返った。 治療台には、一華がぐったりとした様子で横たわっていた。 「あ、終わった? さんきゅ、んじゃ連れてくねー」 呆然とした。…どうして。今、自分が何をしていたのか、深織愛には理解できなかった。 欲に、流された。あの子供に嗜虐心を煽られて、欲のままにそれを開放した。このガキを、殴った……。 深織愛の中で形のない何かが確かに芽吹いた。 「…」 「あ? んだ、はっきり言えや」 「待て、と言ったんだ」 「…あぁ?」 確かに、深織愛の中で嗜虐心はわいた。同時に、何かはわからない「何か」もわいた。それが何か、正体は深織愛にもわからない。 「まだ縫合したばかりで動かすと危険だ。また破ける」 気が付くと、口に出ていた。 「…はぁ? 何お前、雇われた俺に口答えすんの? また破けるだぁ…? そン時はまたお前が縫うんだよバーカ!」 また痛がる姿も見れるしな、と言って御田は医務室から出ていった。後味の悪い思いをしながら、深織愛は書きかけの書類に手をつけた。

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