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第1話

 よれよれの紙が手のひらに押しつけられる。  は…湿った息が耳や首筋にかかって、その性急さを証明するように、ジーンズのベルトを外される。まったく、札くらい財布に入れて持ち歩けよ…頭を過ぎるのは単に発露のきっかけを待っていただけの漠然とした苛立ち。指先でめくり上げた紙幣がピン札だろうとくちゃくちゃだろうと、価値に変わりないのが信用貨幣であり資本主義である、なんて。  欲しいピアスがあるんだよね、って、言っただけ。  DJミックスの大音量の音楽、フロアには踊りに夢中のやつらがひしめき合っていて、それらを少し遠巻きに酒を飲んでいる連中とか、さらに奥まった場所でそれ以外のことをしているやつとか。 「最初に言ったけど…」  ズドンッズドンッズドンッ、落ち着きないベースの重低音。今夜のDJは大嫌いなトランステクノばかりかける――最悪。その不愉快な音に消されないように、相手の耳に唇を近づける。 「ゴムなしはお断り」 「わかってる…持ってんだろ?」 「んっ…」  下着の中をまさぐられながら、ずり落ちたジーンズの尻ポケットからパッケージを取り出す。ドラッグストアで買った、高くも安くもない普通のコンドームは、避妊のために使うわけじゃない。いくら精子が注がれても、受精するようなメカニズムとは無縁だから。病気は怖いと思う、ただ、それだけ。自分のように、会って、やって、サヨナラ、なんてことしてる人間にとっては特に。責任、って言葉を相手に押し付けるのがナンセンスだってことくらい解ってる。  股の間に手が入れられて、指が、奥に挿し込まれる。 「…っぅ」 「やらけーな」  相手にとってはそうかもしれないけど、こっちにとっては、最初熱いくらいの痛みは必ずあるし、中指一本でも圧迫感になる。 「あぅっ…」 「カレシ?してもらってる?」 「…いねーよ」  いたら、こんなとこで指突っ込まれてないし…もうすぐ指じゃなくなるし。柔らかいのは、単純に使用頻度が高いからだ。特定のパートナーではなく、不特定多数、との行為による。 「作りゃいいのに…お前、こんだけ可愛いんだから」 「こんだけ可愛いから…今の状況が、成り立つんだろ?」  ふん、と鼻を鳴らして反論すると、相手もおかしそうに笑った。  つまり。  この顔に、このスタイルに、遺伝子に感謝するべきだろう。金を払ってでも、自分を抱きたい男がいる、そういう状況。金さえ払えばセックスに応じると思われても、構わない。恋人同士だったら無料なのかもしれないけど、やるために付き合うとかいうエコノミーな関係を正当化するためなら、そんなのごめんだ。そのほうがずっと空しい。  男がジーンズのファスナーを下ろす。下着を盛り上がらせるものを生地の上から撫でてやると、腰を押し付けてくる。中から引き出して、手のひらの中で刺激すると、どんどん硬くなる。こちらに突き出す角度まで持ち上がり、くっきり形を成したそれに、てっぺんからゴムを被せた。 「ん…」  軽く身震いした彼に、粗大ゴミみたいなソファーに押し倒される。両脚を開かれ、ぷつ…指が抜かれて、冷たいジェルが熱い場所に触れた。 「ひくひくしてる」 「…こっから焦らす人?えげつないこととか言わせたい?」 「お前次第…なんてな。あ、でも試しになんか言ってよ」  腹筋の振動が伝わってきたから、きっと、笑ってたんだと思う。言葉通り試すような気配に、彼の頭を引き寄せ、耳を引っ張る。左手首に重ねて嵌めた銀細工のブレスレットが、かちゃりとすべり落ちて。俺の×××××に、あんたの×××を××て―― 「ひぁんっ…!」  最上級に卑猥なせりふに我慢できなかったみたい、恐ろしく強引に、ねじ込まれていた。容赦のない挿入、だけど生き物みたいにうごめいて、それを飲み込む術を知っている自分。最奥にタッチして、退いていくペニスを感じる。中で動かし始める瞬間って、ほんの一瞬だけど、その熱量と質量が得体の知れない何かになる。 「!…ゃんっ」 「あ、今の、くる」  喘ぎ声が気に入ったみたい。注挿のペースはすぐに上がり、繋がった部分が音を立て始める。こすられ、揺さぶられるたびに、女だって演技でしか上げないような声が自然に上がるんだ。 「あっ、あっ、あっ、ひぁっ…やっ!」  セックスは好き。興奮した男の、乱暴さとか。男性器の持つ本来的な凶暴性とか、それを受け入れてる自分の、あり得なさとか。 「や、や、やぁんっ、やっ」 「可愛い」 「ひぁっ、あっ、あんっ、あっ…やっ…ぃやっ」 「んっ…爪立てるほどいいの?」 「…そこっ、いぃっ…ふぁんっ、あんっ、あぅんっ」  特別早くも遅くもない時間だろう。男の激しさがピークに達する。 「あっ、あ、いく、いくっ…」  切ない声で、いく、と何度か言ったあと、彼は果てた。  はぁっ、はぁっ、荒い息遣いの間から、ごくありきたりな感想と、彼が抱いた男の名前が漏れる。 「すげーいい、ミト…」    便所、と一言残して男が去る。後姿を見送って、ひりひりと痛む後ろを庇いながら、水兎(みと)はソファーから起き上がった。ゴムのジェルと生理的な粘液で中はぬるぬるしているが、次の排泄で排泄物と一緒に出てしまうものだから、しばらくは気持ち悪いまま過ごすしかない。ファスナーを上げて、ベルトの金具を留めて、背中でよじれたパーカーを直す。九月の中旬、昼も夜もまだ暑く、店内はがんがんに冷房が効いているはずだけど。ソファーの座席は汗でつるつるしているし、Tシャツの下の肌はじっとりと汗ばんでいる。ぱたぱたと襟元から空気を送ると、途端に寒気がするようだった。  そう。終われば、冷める。  ポケットの紙幣を確認し、席を立つ。相手が戻ってくるのを待つ必要はどこにもない。だって。 「用済んだし?帰るって?」  突然、知らない人物から声をかけられる。まるで水兎の心を読んだような声だ。混乱する気持ちが、立ち去りたい身体を竦ませた。 「…何?」  警戒しながらも振り返る。一人の男が、隣のボックス席からこちらに顔を向けて笑っていた。堂々とした体つきの、逞しい腕をソファーの背に乗せ、長い脚はだらりと大股で床に投げ出した、偉そうな態度の男だ。店内の暗さとライトの角度もあって、その表情ははっきりしないが、にやりと笑われたのがわかる。 「声でかいんだよ」  店内の騒音にも紛れなかった情事の声が、隣の席の男には聞こえていたというわけだ。男は気だるそうに腕を伸ばして、親指の先で水兎を指す。 「声っつうか、声もだけど。揺れてたからね」 「…そりゃどうも、しつれいしました」  いきなり指差されて、それも、親指で。声を聞かれていたこと、壁を揺らすほどの行為だったこと、それらをわざわざ教えられて。だいたいこんな店に来て、踊らずにいるくらいだから、ヘテロかホモかは知らないがこの男だって似たようなものだろう。頭に来て、表面的な謝罪の後すぐ、悪態が口をついた。 「聞いてるほうも悪趣味だけど。もしかして興奮してた?」 「するか」  即答の否定。素っ気ないけど、面白がってるふう。  目が慣れてきたらしく、男の指先から薄っすら白い煙が見える。今さら間近で煙草を吸われたところで、嗅覚なんて麻痺してしまっているから、匂いなんてわからないけど。男は煙草を吸うだけで、それ以上何を言うわけでもない。 「だったら声かけてくるんじゃねーよ」  何らかの興味を持って自分に話しかけてきたわけではないとすれば、この男に用はない。始めから用なんてないんだけど、未来形でも、ないってこと。苛ついた水兎の言葉に、男の鈍い眼光がきらめく。 「あぁ…お前、ウリ?」  単なる酔っ払いか。 「だったらどうする?相手してあげよっか?今ならいきなり突っ込まれても平気だけど?」 「はは、怖ぇな、いくらぼったくるんだよ」 「貧乏人かよ、使えねー…」  うんざりして吐き捨てると、相手もまた、やはり気だるそに背もたれに上体を反らした。 「ま、どうでもいいけど。タイプじゃねえもん、お前」 「…最悪」  引き止められた挙句、こき下ろされて、それ以外に何て言ったらいい?今度こそこの場を離れようとする水兎を、 「あ、でも」  なんだってしつこく呼び止める。水兎は苛々と、黒い影の男を睨みつけた。 「何だよ、まだ何か用」 「いく時の声はエロかった。お前、声だけのがいいわ」 「最悪!マジで、死ね」  抑えがきかない性格なんだ。感情のままテーブルを蹴ると、ガッ、鈍い音が鳴る。茶化すような口笛を背中で聞きながら、水兎は入り口への階段を駆け上がった。

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