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第2話
東口前の交差点を渡り、まっすぐのびる大通りをしばらく歩く。入り口の狭い雑居ビルの二階にある居酒屋が、最近の行き着けの店だ。まだ夕刻で、開店早々といった時間。がらすきの店内を突っ切り、奥のカウンター席に行く。中を覗き込むと、水兎に気づいた男が、軽く笑った。
「ミト」
「ども」
白いシャツから伸びる腕とか、一切無駄のないフォルム。このモデルかダンサーみたいなプロポーションの、背中まであるドレッドヘアを後ろでまとめた男が店長だ。最初はたまたま入っただけの店だが、何となく彼と話が合って、今では一人でも来るようになっていた。
「ねえシンさん、客いねーけど、だいじょぶなの?」
始めのうちは店長と呼んでいたものの、他の常連客に紛れ込むように呼び方を変えることに成功した。鯨井慎(くじらい しん)、というのが彼のフルネームで、入り口を振り返りながら尋ねる水兎に、慎はやはり口元だけで軽く笑った。
「世間様じゃもう、夏休みは終わってんだよ。こんな週の真ん中に、明るいうちから来るのは、相当暇なやつか大学生くらい」
「いいじゃん、金払ってんだから」
慎独特の、冗談ともつかない落ち着き払ったトーンに、唇を尖らせ反論する。確かに、九月に入ってもいつまでも始まらない授業に、大学の存在なんて忘れてしまいそうだ。しかし残念ながらそれも今日で終わり、明日から大学は再開するのだった。
「シンさんはー、俺らの歳、夏休みって何してた?」
「二年だろ?…何にもしてねえな」
「で、しょ?」
在籍期間は重なっていないが、慎は大学のOBでもある。難関の部類の国立大学。彼はともかくこんな自分でも、高学歴を名乗れるらしい…卒業できれば。作り付けの椅子を左右に揺らしていると、目の前に中ジョッキが置かれる。霜がまとわりつくくらい凍りついたジョッキが、水兎の好みだ。冷たいふちに唇をつけて、一口飲む。
「何つまむ?」
「んー…脂っこいのはパス。あ、豆腐がいい、おとーふ」
「女子か。どうしたの」
「腹の具合が悪い…なんか、昨日のゼリーがダメだったっぽくて」
「そこまでは聞いてない」
つい付け足した事情は、さらりと聞き流される。職業柄その手の話には慣れているのだろう、表情一つ変えない。現在自分の社会生活の中心になっているのは大学なので、水兎にとっても大学の仲間に知られる心配のないところでは、つい口が軽くなる。
「つーか、俺ほんと胃腸弱いの。嫌なこととかあるとすぐ腹痛くなるし…ねー聞いてくれる?」
「はいはい。何?」
「昨日ケータイなくしちゃって…クラブしか行ってないから、そこしかあり得ないんだけど。家からケータイにかけても誰も出ないし、店にかけてもフロントには届いてないって…見つけたら保管しとくとかって返事テキトーだし、だからまさか交番に届くとも思えねーし」
愚痴をこぼしながらも、また、胃のあたりが痛くなってくる。
ほとんど唯一のコミュニケーションツールが、携帯電話なのに。携帯電話と自分が断絶するってことが、どれだけ絶望的かを、その真っ只中で感じている。だって誰にも連絡できないし、誰からの連絡も受けられないし、連絡があったかどうかもわからない。アパートの電話なんてかけてくるのは親かセールス業者くらいだし、直接会いに行ける相手なんてそうそういないし、水兎は今、限りなく孤独なのだった。昨夜店を出てすぐに気づけば良かったものの、そう、あの隣席の男に苛々していたせいで、アパートに戻るまですっかり頭から抜け落ちていた。
「待っててもしょうがないから、さっき新しいのと契約してきた。まだアドレス帳真っ白なんだ、学校始まんねーと誰にも会えないから。あ、シンさん番号とメアド教えて」
買ったばかりの携帯電話を尻ポケットから出そうと、腰を浮かす。黙って聞いていた慎に、
「ミトミト」
名前を連呼されて、制止された。
「待て。最初に言ってやればよかった、ケータイってさ、これだろ?」
前掛けのポケットから取り出した携帯電話の、ストラップをつまんで水兎の前にぶら下げる。思わず、叫んでしまった。
「あっ!」
目の前で揺れている、黒い機体。両手でそれを受け取って、適当にボタンをいじると、見慣れた画面が次々と現れる。心配と安心がごっちゃになり、水兎は携帯電話を胸に当て、か細いため息を漏らした。はぁぁ。
「よかったぁ…」
「そんな大事?」
苦笑がちな慎の声。呆れてもいいよ。
「うん。ありがと…つか、なんでシンさんが?」
「拾ったやつが俺の知り合い。中身見て、着歴に俺の名前見つけたみたいでさ。悪いと思ったけど俺も中見せてもらって、番号確認したらミトだったんだよね。そのケータイから、イエデン(※)の番号にもかけてみたらしいぜ?」
「マジ?気づかなかった…」
「俺からもかけてやれって言われてたんだけどさ、忘れてた、悪かったな」
彼にとっての携帯電話の存在価値って、忘れてしまえる程度なんだろう。そういう人もいるってことは理解できるつもり。ううん、と首を振って、水兎はもう一度携帯電話を胸に当てた。
「でもまさかシンさんが持ってるなんて。やっぱさ、顔広いんだ」
「俺?そうでもねーよ。拾ったやつのほうが、顔広いの」
コト、冷奴ではなく、揚げ出し豆腐が出される。ふわりと香る出汁の匂いと、小鉢の温度は、店長の心遣いそのものだ。終始さりげないままの慎が、ふい、と顔を上げる。彼のその動作と、自動ドアが開いたのはほぼ同時。先に口を開いたのは慎だった。
「何、こんなに早く」
「なんか、目が覚めてさ」
「まともなせりふじゃねーな」
親しい客みたい。機嫌よくほころんでいる慎の口元に興味を惹かれて、椅子ごと振り返る。たぶん革…サンダルの足元、ゆるいカーゴパンツに、Tシャツ、どれもハイブランドだろう。かなりの長身はその上鍛えた体つきで、ちらりと顔を見上げると、男は慎ではなくこちらを見下ろして笑っていた。その視線を水兎の手元に落とし、にやり、とまた笑う。
「お。ちゃんとケータイ持ってんじゃん」
「ミト、こいつが拾ったんだよ、お前のケータイ」
男のせりふを引き取るように慎がフォローしたことで、二重に呆然としてしまう。薄暗いクラブで顔立ちまではわからなかったし、静かな場所で聞けばまた声だって違って聞こえる、けど。この、どこか横柄な印象のトーンにだけは確信を持てる。
「…あんたが拾ったの?」
「ふっつーに、ソファーの上に落ちてた。もうなくすなよ」
状況説明ができるのは、昨夜、あの場所に居たからでしかなく。男が席を一つ空けて横に座るのと反対に、水兎は椅子から立ち上がった。
「つーか、フロントに届けりゃいいだけじゃん!おかげで散々探したんだけど」
「あぁ…その手もあったな」
頬杖をついて、水兎を見もせず気のない返事。
「マジかよ最悪…」
「ま、見つかったんだから、笑い話だろ?」
「笑えない、全っ然!」
自分の口から、自分でも制御できない甲高い声が上がる。色の抜けた銀髪頭を上げて、さすがに面食らっているよう、男はきつい二重の目蓋を上下させている。でも、沸点に達しやすい体質を持て余しているのは、誰よりも水兎自身だ。椅子に座りなおし、握り締めた携帯電話を、十字架に祈るように額に押し付けた。
「あーあ。どうするよ、ノブヒロ」
カウンターの中から、慎の、抑揚の少ない声。
「おい…シン、なんだっけこいつ」
「ミト」
「ミト?泣いてんの?」
「泣いてねーよ、どっか行けっ」
荒げた声はでも、泣く寸前で震えてたと思う。
「なあ、悪かったって」
重量を感じさせる手のひらが頭に乗せられるが、水兎はそれを振り払った。
「気ぃ強え…」
外野の二人が、苦笑し合う気配が伝わってくる。手渡しでジョッキを受け取り、それに口をつける男を視界の端で窺っていると、
「豆腐冷めるよ?」
揶揄うような目線が送られて。むきになって、割り箸を割った。小さく割って一口食べると、酒肴らしい、濃い目の出汁の中でふやけた揚げ出し豆腐が美味しい。
「ミトって、どんな字?」
一つ席を空けた距離感を、縮めようという気はもうないらしい。
「…」
無視したわけではなく、ただ答えたくなくて黙っていると、男は不満の声を上げる。
「なーあ」
「水と、兎」
「ウサギ?」
自分でつけたわけじゃない、水兎だってこの名前の被害者なのに。どうせ、寂しいと死んじゃうの、とか言うんだろ。慣れた揶揄を覚悟して、もう一口豆腐を食べる。けれど彼の感想は、想像していたようなものではなかった。
「似合ってんじゃん、今、ウサギの目」
無理やり引っ込めた涙のせいで、きっと充血しているんだろう。言われてから目をこするのは、いかにも気にしているようで嫌だ。水兎は返事をしないことで、彼の冗談を黙殺した。
「ウサギってこんな字だっけ」
長い指が、グラスの水滴でテーブルにいびつな文字を書く。
「…点がない」
咥えていた割り箸の反対側を使って、そこに足りない点を打ってやると、「兎」の字になった。
「苗字は?」
「エイクラ…」
「苗字もわかんねーわ」
「栄光の栄に、倉庫のほうの倉」
栄倉、と、割り箸えんぴつでテーブルに書く。
「こいつ、俺らの後輩」
何となく落ち着いてきた空気を勘良く察して、慎が口を挟む。
「マジ?賢いじゃんお前」
後輩ってことは、あんたの出身大学なんですけど。事実関係を知った上で、臆面もなく破顔するのだから。それからやおら立ち上がると、便所、と奥に消えていく。なんてゴーイング・マイ・ウェイ。水兎にそう思わせるのだから、相当の、だ。
「シンさん」
「ん?」
「あのひと、何てゆうの」
トイレに続く入り口を指差して、慎に尋ねる。
「ああ。ノブヒロ?」
「なにノブヒロ?」
「本人に訊きゃいい」
「うん…」
あっさり笑われ、いなされてしまう。何となくたしなめられた気分で俯くと、またあっさりと、答えをくれるのだった。
「佐藤信広。信じるに広い、で」
「ふぅん」
平凡な名前。
「よく来るの?」
「気が向いたら、って感じだけどね…お前と一緒。まあ、よく来るほうじゃねえの」
「そっか」
意味のない相槌を打って、水兎はビールを煽った。
「興味湧いた?」
「べつに…」
むっとして慎を睨むと、やはり、いなすように笑われた。
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