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第3話

 後期の授業が開始すれば、生活の中心は大学の仲間との関係に戻る。授業には、出たり出なかったり。慎の働く店は駅前通りの立地だが、同じく駅前通りにはいくつもの居酒屋や飲食店があるので、呑みに行くからといってどの店になるかは、近辺の店の数割る一、の確率でしかないのだ。むしろ水兎にとって大学の仲間とはあまり行きたくない店なので、やはり一人で顔を出すことが多かった。行けば、誰かしら顔見知りの客や店員がいるし、万一ぽつんと一人で座るようなことになるなら、すぐに店を出て携帯電話を開く。クラスとかゼミとかの仲間の誰かが、別の誰かと、何かしらの理由で、どこかで呑んでいる。そこに顔を出せばいいだけだった。  信広には一度も会っていない。慎が言っていたように、気が向けば、って感じなんだろう。そして、同じように自分の行動パターンも気分次第なので、偶然なんてそう簡単には起きないものなのだ。    胸の上の重みで、目が覚める。  真っ白な寝具、頭上にぼんやり浮き上がるデジタル時計…自分の部屋ではない、そうだ、ホテル。男の腕を胸から退かし、もう一度、時計を見る。表示されている時刻に改めて意識を集中させると、一限にはもう、間に合わない。  はぁ、寝過ごしてしまった失望感と、どんよりした倦怠感に、深いため息が出る。少し寝たあと六時にはここを出て、一旦アパートに戻り、余裕で一限に出るつもりだったんだけど。つーか、起こしてやるって言ったの誰だよ。隣でのん気に寝息を立てている男の脚を、上掛けの中で蹴る。起きる気配もないし、起きられても迷惑。水兎はベッドを降りて、備え付けのシャワーを浴びることにした。  電話ボックスくらいの、狭いシャワールームだ。お湯を出す前に、アクセサリーを外さないと。両耳合わせて三個のピアスと、左手首のブレスレットは革ベルトが一本、シルバーチェーンが一本。それらを外し、シャワーを浴びると、皮膚のあちこちに鈍い刺激が走る。愛撫である最中は快感だけど、過去形になると、その痕跡もうざったいだけ。手短にシャワーを終えて、髪の水分を拭き取った程度で、さっさと服を着込んだ。  床に無造作に置かれた男の鞄から、財布を取り出す。部屋代はもちろん彼が出すのだが、他に、水兎に対しても支払い義務があるので。一枚抜き取り、考えて、あと千円もらった。ここから水兎のアパートまでは数駅離れているから、飯代込みの交通費ってことで。  ホテルを出て、駅まで歩く。狭いホームでまだしばらく来ない電車を待ちながら、散漫に考えるのは、今日一日の予定だ。取りあえず一限はもう無理なので、そうすると、次は午後イチの三限になる。携帯電話を開き、待ち受け画面を見て、一瞬驚く。ああ、今日から十月なんだ…。  アドレス帳をスクロールしていると、ふと、鯨井慎の名前で親指が止まる。そうだった、今週中にはもらいに行こうと思っていた物があったのだ。電車に乗ったついでに寄って行けたらベターだけど、この時間だともう寝ているだろうか?ダメモトで、通話ボタンをオンにした。  ――後期で選択した授業の一が、恐ろしくきつい。単位稼ぎに受けているだけなのだが、テストはあるし、レポート提出も厳しい。回数を重ねるごとに出席者は少しずつ減っていき、今では水兎を含めて、それでも単位が必要な人間だけが残っている状況だろう。ゼミの先輩を通して院生から聞いた話で、その経済学史の試験に使える参考書の存在を知った。数年前までは大学でも販売していたものらしいのだが、どんな事情かは知らないが絶版になり、今では一部分のコピーこそ存在するが現物がないのが実情だった。現在大学院にいる二年生の、一期上までは売られてたとか。もしやと思い、先週の頭くらいに慎に尋ねてみたのだ。同学部のOBは学生時代から住居を変えておらず、まだ、その参考書が捨てられずにいたという次第。  取りに来んなら、やるよ。と、オッケーをもらっておいて行くのを忘れていた。  一度目は留守電に転送されて、二度目にかけると、すぐに繋がる。 『…ん、ミト?』  声が遠く、くぐもっている。 「ごめんシンさん、寝てた?」 『うん…何?』 「こないだくれるって言った本、今から取りにいっちゃダメ?」 『今から…?お前、今どこ』  電波のせいなのか、喋り方なのか、頻繁に声が遠くなったり近くなったりする。水兎が駅名を答えると、もう一度声が遠のいて、戻って来た。 『いいよ。俺寝るけど…居候がいるから、そいつに渡すように言っとくよ』 「うん、ありがと。じゃ、今から行く」    途中の駅で降りて、慎のアパートに向かう。駅前だし、道順を聞いておいたので、迷わずたどり着くことができた。携帯電話のメモで部屋番号を再確認して、ブザーを押す。しばらく待たされた後、目の前に現れたのは、逞しい裸の胸だった。驚いて見上げると、慎の言うところの、居候の顔、が。 「わっ、なんでっ?」 「声でかいんだよお前は――シン、今寝たとこだから」  水兎の頭を小突き、それから奥のドアを指差す。信広は絶句する水兎を揶揄うように、薄っすら目を細めて笑った。 「で、俺は今起きたとこなんだけどね」 「訊いてねー…」 「訊かれてねーし。入れば」 「…うん」  招かれるのに従って部屋に入る。慎のイメージにはよく似合った、バーかカフェみたいな部屋だ。テーブルの前の白い椅子に座ると、 「ハズレ。そこ、俺の席」  すぐに咎められる。 「いいじゃん、どこだって…」  居候らしからぬ言い草に文句をつけたものの、信広の傲慢な視線に、仕方なく反対側の椅子に移った。 「一緒に住んでたんだ」 「いや、ここんとこ入り浸ってるけど、俺にも一応家はある。つうかさ、シンの家に一旦来ると、帰るのめんどくさくなるんだわ」  手に持ったままだったタンクトップを着込む彼の動作を、ぼんやり眺める。さっきまで一緒にいた男が特別貧相な体格だったとは思わないが、なんて言うか、今、肉体美を見ている。髪色がプラチナに近い銀髪なせいもあって、どこか日本人離れしていた。 「なに」 「俺が下手に鍛えてたら、嫉妬してたかなって」  水兎は自分の肉体に満足している。華奢なほうだが、好きな服の系統には痩せているくらいが合うし。需要と供給のメカニズム、とでも言おうか…正味の話、同じ土俵で優劣を競うなら、マッチョ嗜好に適う努力をするより、フェミニン系とかユニセックスを追求したほうが得な容姿なのだ。 「ほっせーもんな、お前」  そんな事情など知るわけもないに信広がにやりと小馬鹿にした笑みを浮かべ、やすやすと片手で水兎の腕を掴む。不意打ちであり強引な仕草に、チャラ、ブレスレットが鳴った。 「触んな」  素早く腕を引っ込めて睨みつけると、彼は宥めるように両手をホールドアップして見せる。ふと、何かに気づいたように、片眉を上げて。 「ミトー」  自分の首筋を撫でながら、口の端をゆがめる。 「しばらくポロシャツにしとけ。見せたいなら何も言わねえけど」  彼の仕草と言葉が結びつくまでに一瞬の間があり、水兎は慌てて、Tシャツの襟元をかき寄せた。 「見えてた…?」 「思いっきり。お前、何してんの」 「俺はされるほうだけどー」 「そうゆう意味じゃねえ」  くく、喉の奥を震わせながら、信広は煙草を咥えた。  ライターから大きな炎が上がって、煙草の先がぼうっと赤く光る。白っぽい煙が盛大に広がり、煙草の匂いが鼻先をくすぐった。髪の毛でなんとか隠せると思ったのだが、少しでも毛先が動いてしまうと、どうやらアウトのよう。水兎は襟元を握った手を緩めて、首筋にキスマークをつけた男を呪った。 「つーか。見えるとこにはやんないって約束だったのに…」 「一回始まっちまったら反故だろ、そんな約束」  見てきたように言う。実際その通りだったんだけど。 「うん…挙句ゴムなしがいいとかごねられた。あ、俺ゴムだけは絶対つけさすんだけど。もー最悪」  信広とは初対面があの場面だったので、言い訳したくたって余地がない。それならとあけすけに言って、水兎はテーブルに突っ伏した。 「お前さあ、それでブサイクだったらほんと駄目な人間だよね」  信広の答えもまたストレートで、思わず上げた顔に、ふぅーっ、煙が吹きかけられる。 「俺と同じ」  そして、言うだけ言って水兎のことなどお構いなしに、背中を向けて壁際の棚を探し始めた。収納とディスプレイが半々といった棚だ。本を出したり入れたりする雑な手つきを、やはりぼんやり眺めながら、水兎は口を開いた。 「俺のこと…タイプじゃないて言ったくせに」 「うん?全然タイプじゃねえな」 「じゃ、なんで、こないだからさ。コナかけてくんの?」 「かけてねえよ、バーカ。お前、自意識過剰」  誘いにも乗らないタンクトップの背中が、意地の悪い微笑に震えてる。むき出しになってる肩甲骨の、筋肉のつき方とか、すごい、セクシー。 「これか。はいよ」  振り向いた信広が、一冊の本を差し出す。 「あ、そうだ…」  もっとぼろぼろかと思っていたが、それほど使い込まれていない。ただ時間だけが経ってしまったって感じの、開いた跡さえ見つけにくいほどの状態の良さだった。 「さんきゅ。って、シンさんに言っといて」  顎を引くようにして軽く頷いた信広が、表紙を指先で叩く。 「しかし懐かしいっつうか、ほとんど記憶にねえな、経済学史」  そうだった、寝てる人だけじゃなく起きてる人もOBだった。 「ノブヒロさんも経済?」 「経営のほうだけど。一応?社長の息子だし?」 「マジ?なんて会社?」 「名前で言ってもわかんねえよ、たぶん。グループで手広くやってっから」  最初、何か確信があったわけではなくただ誹謗するつもりで、彼を貧乏人呼ばわりしたけど。それとは真逆の雰囲気は感じていた。 「今働いてんの?」 「時々バイトして、あとは株いじってるだけ」  そうこの、ご大層な身分、セレブレティーっぽさを。 「すっげー、駄目な人間じゃん」 「そう言ってんだろ、だから」  無神経に笑う水兎に怒るでもなく、傲然と首肯する。  盗み聞き犯でケータイ持ち去り犯で、行きつけの居酒屋の店長の友人は、王様みたいな男だった。 「ノブヒロさんって…」 「ん?」 「シンさんの店、よく来るの?」 「ま、よく行くほうじゃねえの?なんで?」  改めて本人に訊いてみたところで、同じ答えじゃ、何のあてにもならないんだけど。成果の得られなかった質問に質問で返されて、水兎は無難な答えを述べた。 「じゃあ。今度会ったら奢ってよ」 「いいぜ。シンの店じゃなくても、会ったら声かけな」  ごく軽いイエス。  口約束以上である必要はないのだ。水兎は鞄に本をしまって、椅子から立ち上がった。 「帰んの?」 「午後イチで学校あるし、その前に寝たいし」 「そりゃ、忙しいわ」  頬杖をついた信広に、何回目だろう、にやりと小馬鹿にされながら、慎の部屋を出た。

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