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第4話
口約束に期待するほど馬鹿じゃない。
けど、三歩歩けばそれを忘れてしまうほど、都合の良い脳みそでもなくて。
「帰んの?」
自動ドアのセンサーにひっかかるかどうかという位置で、顔見知りの店員に呼び止められる。
「だって混んでんだもん」
「店にとってはありがたいんだけどね」
彼がそう言って振り返る店内は、金曜ということもあって混雑している。店長の慎でさえ厨房と席を行ったり来たりといった状態で、水兎を構う余裕はなさそうだ。これ以上客が来てもたぶん、満席を理由に帰ってもらうことになるんじゃないか。帰ると言う水兎を引き止める理由は、誰にもないだろう。彼は自動ドアに手を触れて開き、それを背中で押さえると、水兎を外に出してくれる。
「また来てって。店長から伝言」
「うん」
軽く手を振って、狭い階段を駆け下りた。
―――ノブヒロさん、来てなかったな。ざっと店内を見回しただけだが、あの派手な男を見逃したとは考えられない。会ったら声かけな。つまり、その言霊に縛られているんだと思う。会う、という状況を作り出すために、彼の姿を探してしまう矛盾。この店だけでなく、他の呑み屋とか、クラブとかでも。大人っぽい集団がいると、つい意識と視線が流れてしまう自分がいる。
駅に向かって歩きながら、携帯電話を取り出す。
アドレス帳から幾人かの名前を品定めしていると、計ったようなタイミングで着信がある。
「…もしもし」
『ミト?久しぶり、今何してる?』
「…なんにもー」
『予定もないの?』
「うん」
『飯食った?』
「まだ」
『じゃ、旨い店連れてってやる。俺仕事終わったとこだから、迎えに行くよ。どこ?』
「駅、東口」
水兎から言葉を引き出すのは相手の役目だ。広告会社のwebデザイナーで、まぁ、たまに、会ってる人。ゴム財布に入ってたっけ?なかったら買わないと…散漫に今夜を予測しながら、携帯電話を持ち替える。
『すぐ出るから、ロータリーにいて』
「待ってる」
軽い笑い声を残して、電話は切れた。
寂しいと思ってることに、気づいてもらえたような錯覚。もちろんそんな訳ないんだけど…名前と、セックスの時の癖くらいしか知らない人なのに、そっちのほうが優しく感じる。なぜか、なんて答えは必要なくて。ただ、これが現実で、だから大事だった。
翌日、開店直後を狙って慎の店に行く。
六時前ではまだ客もまばらで、店長も定位置、カウンターの中にいる。慎がこちらを見て片頬で笑い、一旦屈み込んでからビアサーバーに手を伸ばすのを、水兎は制した。
「あ、ビールやだ」
コックを引く前にストップをかけることができたよう。慎は空のジョッキを元に戻し、首筋にかかるドレッドヘアのひと房を背中へ払う。
「ん?何飲みたいの?」
「コーラがいい。ねーシンさん」
「何?」
「ノブヒロさんってー…ここ、よく来るの?」
どんな顔をされたのかは知りたくなかったので、慎と目を合わせないように椅子に座る。カシッ、栓を抜く音、しばらくしてコーラの瓶が置かれる。そっと目線だけ上げて窺うと、表情の読みづらいポーカーフェイスがあった。
「珍しいな、ミトがコーラなんて」
「…ってゆうか、甘いのがいい気分なの」
「疲れてんのか」
「それちょっと安直」
「悪いね」
ふ、と笑った慎が、水兎がコーラの瓶に口をつけるまで待って、また口を開く。
「あいつさ」
「――あ、うん」
「ノブヒロ。月曜は必ずってくらい来るんだ」
思いも寄らなかった言葉が、素っ気なく放り出される。
「お前が、必ずってくらい来ない日」
思わず、絶句してしまう。何に驚いているのか、自分でも咄嗟に数え上げることができない。まずは、信広がやはりここに来ていること。その曜日、つまり月曜だが、週の初めの曜日に水兎はほとんど夜遊びしないって事実。そして、その二つの事象がどういう結果を生んでいるか、というより何も生んでいないこと。その上慎が、それに気づいていたこと。変わらず素っ気ない顔つきのままの彼は、何かのついでのようにこう付け加えた。
「黙ってたのわざとだけどね」
「…性格悪ぃ」
「相当」
水兎が苦々しくなじったところで、痛くも痒くもないのだろう。しれっと肯定すると、背中を向けてしまう。
「なんで教えてくんなかったんだよ」
「訊かれなかったから」
「最悪。訊いてるようなもん、ってゆうか訊いてたんだけど」
「直接頼まれたら動いてやったけど。お節介はしねえの、俺は」
慎はあっさり、傍観者のスタンスを言明する。カウンターの中、時にはもっと近くから、色んな人間模様…たとえそれが模様にならなくても、色んなものを見てる人だ。水兎もまた、泳がされてた一人ってわけ。
「むかつく!」
「どうも。ほら食いな、甘いの」
大きな冷蔵庫から何かを出していたのは見えていたのだが、小さな器に、小さくバニラアイスが盛られていた。目の前でチョコレートのリキュールをかけると、こちらに押しやる。メニューにあるアイスよりボリュームは少なめ、それに、バニラアイスにゴディバチョコのリキュールの取り合わせは、カクテルとしてしか出していないはずだ。
慎はこの店の店長ではあるが、経営者は別にいる。身分だけ言えば雇われ店長というやつなのだが、こういう仕草にはすごくらしさがある男だった。
「アイスで機嫌直んねーよ?俺」
「食わねえの?」
「食う。食うけど」
器を下げられないうちに、スプーンを突き立てる。一口舐めると、見た目の通り、チョコレートソースのかかったバニラアイスだ。美味しいか不味いかで言ったら、もちろん。
「…もうちょっと寒くなったら、もっと美味しいのにな、アイス」
冬に食べるアイスのほうが好きだ。十月になっても秋というより夏に近い気候が続いていて、長袖の服を着ることもできない。
小さく笑うだけで、慎は特に返事をしなかった。
毎週日曜が定休なので、世の中のカレンダー通りに、この店の一週間も始まる。
これで担がれてたら、慎のこと嫌いになろう。そう思いながら、月曜、少し遅い時間に、いつもの狭い階段を上る。曜日関係なく、この時間だとそれなりに混んでいるようで、席は適度に埋まっていた。カウンターの中の慎がちらりと視線を上げて、すぐまた手元に落とす。
探す努力は強いられなかった。
「ノブヒロさん」
奥のテーブル席に彼の姿を見つけ、呼びかける。
会話を中断させられた信広が顔を上げ、振り返った。
「お、ミトじゃん。こっち来な」
約束を憶えていたというより、脊髄反射って感じだ。知り合いを見かければそう言って呼び込む性格なんだろう。信広、女、男、反対側の椅子に女二人、の計五人。テーブルに近寄ると、メンバーから好奇の声が上がる。
「誰?」
「ミト。俺の後輩」
百年前からそれを知ってたみたいに、揺るぎなく断言する。
「ちょー可愛いー、ミトくん?」
きゃらきゃらと笑われながら、手招きに従って近寄る。
「ねー奢り?」
「奢られる気しかねえだろお前」
「うん」
反対側の空いた席に座ろうとする水兎の手が、信広に引っ張られた。
「隣。来ねえの?」
「座るとこねーもん。あ、これ食っていい?」
いいよー、と、また別の女。水兎は立ったまま、拘束されていない左手でイカ下足フライをつまんだ。信広は腕に寄りかかっている隣の女に顔を近づけ、
「お前あっち行けば?」
席替えを強要する。
「えー?いいけどやだー」
「どっちだよ。お前が向こう行けば、三:三だから。ミトこっち」
ああ、そーゆーことか。
信広の一声で、男女がそれぞれのサイドに座ることになった。もうずいぶん飲んでいるらしい。焼酎を飲んでるのは男だけだろうか、ボトル、何本目か知らないけど、信広がグラスに注いだところで空になる。
「何か頼めば」
「それちょうだい」
「うっすいよ?ほとんど水」
「ちょうだい」
「ん?まあ、やるけど」
苦笑しながらも、グラスを水兎に手渡す。氷も溶けてしまっていて、手のひらでもぬるさを感じる。口をつけると、彼が言うほどは薄くなかった。
「あ、ノブヒロ次何飲む?」
「いいよ、自分で頼むから…」
アシスタントを拒み、テーブルの煙草ケースを取り上げる。拒まれたほうもリアクションは特になし。全部が信広のペースで進んでいた。一度咥えた煙草を唇から離し、信広が水兎の肩を抱く。正確にはそこを通り過ぎて、新しい灰皿を取ろうとしているんだけど。信広のピアスが、水兎の耳にかする。少し屈んで、その無理やりな動作を早く終わらせようとすると、ふっと鼻で笑われた。
「お前、ほんっと細いね」
「つーか早く取ってくんない?」
「ん」
意外とあっさり灰皿を掴み、元の姿勢に戻る。香水と煙草と酒と汗がごっちゃになったフレグランスが遠のいて、しばらくすると、新しい煙草の煙が盛大に広がった。横目と、横目が合ってしまう。
「吸う?」
「吸わない」
「あ、そ…」
「ねー、ミトくんいくつ?」
「ハタチ」
「えー?成人式ってもうやった?来年?」
「来年だけどー」
「若いよどうしよう」
「エキス吸わせてもらえば?つーか成人式といえば、暴れて来いよ来年。あ、ミトってここ地元?」
水兎をテーマに盛り上がり始めた中、こっそり信広の手元を盗み見る。いじっているのは煙草のケース。銘柄は、セブンスター。
――水兎が顔を出した時点で、座はかなり時間が経っているようだったけど。結構だらだら飲む人達らしく、それから小一時間ほどしてようやく、お愛想になる。奢りも奢り、財布を出したのは信広だけ。カウンターで彼が慎と二言三言の会話を終えるのを待って、連れ立って店を出た。
前を歩く五人から、数歩離れて水兎が歩く。
どっしりしてるけど、ばねというか、脚力を同時に感じさせる歩き方なんだと、後姿をぼんやり観察する。その逞しい背中が振り返り、信広に視線を絡め取られた。
「俺らと来る?」
「うん」
二日酔いと睡眠不足は必至。でも翌朝の辛さなんて、関係ない。水兎は足を速めた。
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