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第5話

 試しに買ってみたゴムがよかったのかも。超薄の、リアルなやつ。  つけてる感じしないって喜んでたし、そんなふうに言われると、中ではっきり形を感じてる気がして、自分も興奮した。二ラウンドして、最後、すごいねって言われて。シャワーから出ると、男はベッドで煙草を吸っていた。彼から少し離れた位置に腰掛け、ピアスをつける片手間にぼんやりそれを眺める。  …あ、セブンスター。しかも、一番きついやつ。 「吸う?」 「ううん…いらない」  煙草苦手なんだ。俯く水兎に笑って、男が長財布を開く。指先で何枚か数え上げる動作を不思議に思って見ていると、三万、渡された。 「あんた…ふつうのサラリーマンでしょ?俺、全然、大したことしてないのに」  ゴムの上からフェラチオはしたけど…あとはただ突っ込まれてただけ。これからハードなことを要求されるんだろうか。水兎がそう言うと、相手は柔らかく目瞬き、首を横に振った。 「出会うだけなら、まあ、色んな手段があるよね。でもこんな可愛い子とエッチできる機会なんて、俺の人生じゃ、今後あるかわからないし」  ふっ、煙を吐く。 「ってゆうか、下心があるんだけど。どう?これからも時々会わない?」  顔だって結構良いほう。この人、こんなことしなくてもモテそうなのに。でもこういう場合重要なのって、客観ではなく主観だ。水兎が自分をどう思っているかじゃなくて、彼自身の主観。水兎が、彼にとってのタイプの男だっていう事実が、だ。 「俺、ヤリ友とかいらない」 「いいよ、ビジネスで」  あっさり頷く男に水兎は、あんたばっか損じゃん、という言葉を飲み込んだ。  利害の一途した提案をされているのだから、損とか得とか、どちらか一方に傾くことはないはずなのだ。なのに、ごく原始的な感情レベルで、受け入れがたいと思ってしまう。原因は水兎の中だけに存在するもので、この優しそうな男にはどこにも悪いところがないんだけど。 「…やめとく」  三枚のうち二枚を返して、ベッドを降りる。男の苦笑を気配だけ感じながら、水兎は部屋を出た。    ビジネスホテルは、駅前通りを一本外した通りにある。深夜、人通りはゼロ。夜は肌寒く感じるようになってきて、二時三時になると、かなり寒い。パーカーのジッパーを途中まで上げて、ポケットから携帯電話を取り出す。着信は、なし。そのまま履歴をさかのぼり、佐藤信広の名前でほんの一瞬迷ったが、携帯電話を畳んだ。  携帯番号やメールアドレスなんて、初対面の相手にだって聞ける。初めて仲間に混ぜてもらった夜に、信広の番号も教えてもらった。機種が一緒なので、メアドは必要ない。社交的な男にとって、呼ばれれば行く、という腰の軽い水兎はお手軽なんだろう。時々呼び出されて、飲み屋とか、クラブとか、連れて行かれる。たまに女連れで、それに苛つくこともあるけど。彼に対する行動も感情も全部、結局、一つの原理に基づいていた。  不意に背後から、車のヘッドライトに照らされる。  車道に注意を払っていなかったせいで、全然気づかなかった。一瞬で通り過ぎるだろうと思ったのだが、なぜか車はスピードを落とし、水兎の後ろをつけるようにして追い越そうとしない。用心しながら振り向くと、夜に溶け込む真っ黒な車体がのろのろと動いている。歩道側、車にとって左側のドアウィンドーが下りて、 「やっぱミトだ」  顔を出したのは信広だった。静かな道路に、エンジン音だけが低く響いているのを遅れて聴覚が捉える。 「乗っけてってやろうか?」 「うん!」  断る理由なんてないので、大きく頷いて、水兎は車道に出た。車興味ないから、外車だってことしかわかんないけど。右側のドアに回り込んで、助手席に乗り込む。 「どこ行きゃいい?」 「俺ん家」 「どこだよお前ん家」  簡単に場所を告げると、車はすぐに速度を上げた。大学から徒歩圏内で、市街地に出やすい場所にある、よって家賃ばかり高いワンルームアパート。寝に帰るだけ、時にはそれすら外で済ます自分にとっては、十分な住環境だった。 「ノブヒロさん何してたの?」 「んー?女とあってた」 「やってた?」 「会ってた、つったの。やってたけどさ」  機嫌よく喉の奥で笑った彼が、ふと、ステアリングから片手を離す。驚いて固まる水兎の髪を触り、持ち上げると、また笑った。 「お前もそんなとこ?」  生乾きの髪を指摘されて、反射的、というより生理的に反駁が口をつく。 「いいじゃん、俺のことは」 「いいけど。髪の毛くらい乾かしてから出たら。つうかミト、ピアス曲がってんぞ」 「鏡見ないでつけたから…ねーノブヒロさん前見てよ」  後ろの留め具を確認したいのか、顔を近づけて覗き込んでくるので、水兎は思い切り彼の肩を押し返した。運転に自信あるやつって、片手間に信じられないことするから怖い。  ――昼間と違って、夜中の道路は赤信号が短い。点滅になっている信号も多いし、おまけに制限速度を無視したスピードで走ってるから、思ったより速くアパートに着いた。エントランスの前に車を滑り込ませて、エンジンは切らず、ハザードを点ける。水兎はボタンから離れていく指先を追いかけながら、口を開いた。 「ノブヒロさんって、男いけるよね?」 「…いけるってほどでもないけどな」  特別視してないってことだけは、わかっていた。ただ、それと、セクシャリティが別だって可能性は…その可能性のほうが、高いから。純粋な疑問形ではなく、敢えて付加疑問文にしたのは、ただの願望だ。予想よりずっと肯定的な返答に、水兎はすがるように顔を上げた。 「じゃあ付き合お?」 「何が、じゃあ、なんだよ…」  大仰に眉を下げて、信広が苦笑する。 「俺、ノブヒロさんのこと好き」 「ふうん?」 「マジで。ね、俺のこと好きになってよ。嫌ならエッチとかなくていいから。そうゆうのと別でいい、付き合お?」  食い下がる水兎から目を逸らし、彼は煙草を一本咥えると、シガーライターを引き抜いた。真っ赤に光る部分に顔を近づけ、ソケットに戻すと同時に大きく煙を吐く。 「俺は別じゃねえな」 「え?」 「付き合うって、エッチするって意味…俺はね」 「うん、じゃあ、する。しよ?」  勢い込んで言うと、頭を小突かれた。 「何考えてっかわかんねーわ、お前。ほら、降りな」  そのまま顎先で外を示すのは、この話題をはぐらかしたいからでしかないだろう。シートの端を掴んで、水兎は運転席に訴えかけた。 「キスしてくれたら降りる」 「ん」  軽く頷き、煙草を外したと思った瞬間には、合わさってた。二秒くらいだったけど、離れ際、ぺろりと唇を舐められて。 「降りて?」  条件を満たした男が、余裕の顔で首を傾げる。  水兎は勢いよく車から降りて、ドアを蹴りやった。バンッ。 「さいっあく!」  そのドアにさらに非難を叩き付けて、車を見送らずに階段を駆け上った。    すっかりパターン化してしまった行動だけど。翌日、五限目を終えたその足で、慎の店に行く。誰もいない店内に一歩踏み入れるとすぐ、店長の揶揄ともつかない声が飛んできた。 「ミトー、お前ちゃんと学校行ってんの」 「自分の時はどうだったんだよ」  憎まれ口を返して、彼の前に座る。さらに言い返されないうちに、水兎はカウンターの中に身を乗り出した。 「シンさん聞いて」 「何?」 「俺、ノブヒロさんに好きって言っちゃった」 「へぇ」  すっきり切れ上がった目を、少し見開いたかもしれない。けれど慎の相槌は素っ気なさすぎて、水兎から補足説明を聞き出すには不十分だ。仕方なく、また自分から口を開く。 「俺ね、自分から言ったってことは、本気ってことなんだ」 「俺が言うことでもないけどさ…あいつ、本気で付き合うには向かないぜ?」  その上自分の友達を心もち非難し、慎重論を提唱するから。水兎は繰り返し縦に首を振った。 「知ってる。でもいいの」 「そっか…じゃ、めんどくさくならねーうちに、言っとこうかな」 「何を?」  皿を拭く手を止めて、慎が顔を上げる。 「俺、ノブヒロと寝てる」  初めて聞いた外国語のようなフレーズ。理解するまでにどれくらいかかっただろう。ようやく言えたのは、およそ核心から遠いせりふだった。 「…シンさんってノーマルだと思ってた」 「基本ノーマル…ま、張り合おうなんて思わないでくれ」 「どうゆう意味?」  言い方が癇に障り、睨みつけると、宥めるように笑われる。 「何だかんだでノブヒロ大事なんだよ、俺は」 「…エッチしちゃうくらい?」 「そ。ノブヒロから切れようって言い出さない限り、続けてやるつもり。ただ別に、俺達はお互い一途ってわけじゃない」 「意味わかんねー」  頭悪いほうじゃないんだけど。処理能力が追いつかず、苛立って髪をかき回す。慎はといえば、淡々と、話し続けるだけだった。 「詳しくは言わないけど、あいつ前にも一人、いてさ。そいつと切れてからイマイチだったからな…女ともいよいよ長く続かねえし、迷ってるみたいだし。あいつに目の前でぐずぐずされんのも鬱陶しいから、取りあえず、俺が寝てやってる」  いわゆる、ヤリ友なんだろうか。  だとしたら、水兎が一番嫌悪を抱く関係だ。 「…俺そうゆう、エッチするために付き合うのって嫌い」  慎から逃げるように顔を逸らして、吐き捨てる。彼の答えはやはり淡々としていた。 「お前はそうでも、ノブヒロはどっちかっつうと、割り切ったのが好きみたいだぜ…俺もわりと付き合い長いから、色々見てっけど」  そうだろうとは思う。昨夜の態度だって、言い草だって。俯いたまま顔を上げられないでいると、頭の上に手のひらが置かれた。ほんとは水兎の事情に気づいているんだと思う、いつもならボディーコンタクトを取るようなことはしない、彼が。 「ミト。俺は敵じゃない…味方もしねえけどな」  どうせなら、仕草と同じくらい、優しい言葉が欲しかった。

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