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第8話

 理論的に、未来は現在の行動によって変えることが可能だけど。 「なんで?ずっといるって言ったのに」 「んなこと言ってねーだろ」  ダウンの裾を掴んで引っ張る水兎に苦笑しながら、車回して、と、信広が隣の女にキーを渡す。 「俺、ノブヒロさんがいるってゆうから来たんだけど。最悪、死んじゃえ」 「へーへー」  気のない返事をする彼の脇腹を殴っても、ダウンの厚い生地に吸収されて、ぽす、と軽い音がするだけ。信広は眉一つ動かず、機嫌を取るように水兎の頭に手を伸ばす。一度は手で払ったのだが、それに構わない強引さで耳を引っ張られた。 「離せムカツク」 「なあ、お前のこれってさ、ニップルピアス?」 「…そうだけど。耳にもできるし」  さすが、というか。シンプルなU字型だが、耳たぶ用とは微妙に違うフォルムに見ただけで気づく。信広は少し卑猥な、それがすごく魅力的な笑いを唇にひらめかせた。 「乳首につけねぇの?」  今日、左の耳たぶにつけているのは、本来乳首用のピアスだ。デザイン的に耳にも使えるし、シンプルな派手さが気に入っている。 「つけたら触ってくれる?」 「やりづれーな、お前」  途端に興ざめしたように顔をしかめた信広に、予想より力強く頭を小突かれる。言い返せない水兎を置いて、彼は店を出て行ってしまった。  いつもこんな具合だ。嫌われるか許されるか、水兎にとってファウルすれすれの賭けだってことはお見通しなんだろう。自分の方が有利であることを知っていて、そのアドバンテージに罪悪感なんて感じていないってわけ。そのバランスが変わらない限り、いくらここで強引に引き止めようとしたって、完全に煙に巻かれてしまうだけなのだ。  ――初めて来た店に、置いてけぼりを食らった。正確には、店内には何人もの信広の仲間がいるんだけど。水兎とほとんど入れ違いに席を立った彼と、彼の連れの女を、入り口まで追いかけたのだ。U字ピアスを指でひっぱり、ため息をかみ殺す。再びテーブルに戻ると、気安く手招かれた。 「なんだ、帰ったかと思ったじゃん」 「帰んないけどー」 「こっち来なって、奢りだからさ」 「うん、ごちです」  彼らと一緒に飲むメリットといえば、信広について色々聞けるということに尽きる。ただ、今のところ成果はあまり上がっていない。  特定の恋人がいるのかという水兎の質問には、皆、口を揃えてノーと答える。じゃあなぜいないのかという疑問には、皆、口を揃えて「ノブヒロだから」。理由になっていない理由が、しかし、どんな答えより説得力を持ってるのも事実だった。 「ねー誰?ちょー可愛い」 「えーと」 「ミト」 「そうそうミト。最近ノブヒロのお気に入り」  ベンチ椅子の端に腰掛けた水兎に、既知…と言っても文字通りの顔見知りだが、彼を除いた全員の好奇の視線が集まる。 「へぇ。また、だいぶ毛色違うな」 「誰と比べて?」  向かいの男の言葉に、無意識といっていいレベルで反応したと思う。 「あー…ミトって最近?じゃあ知らねえのか、ケイトのこと」 「知らない。誰それー」  つまらそうな態度を取りながら質問を重ねる水兎に、彼らは最初こそ何となく言いにくそうだったが、やがて口々にその知らない人物について教えてくれた。 「前のノブヒロのお気に入り。何かっつうと、ケイト、だったよな」 「嘘かほんとかは知らねえけど、ノブヒロの本命だったってやつ。男だぜ?」 「嘘ってゆーかさ、シャレでしょノブヒロの。ケイト、かっこよかったし」 「でもにこりともしねーのな、あいつ、ちょー無愛想」 「そっこがいいんじゃん。最近全然顔出さなくなっちゃって、会いたいのになー」 「切れたってのはほんとなんじゃない?」  聞くだけではさっぱり想像できない人物像に、とりあえず、ふうんと頷いておく。 「てゆうかミトくん、ビールでいい?」 「あ、うん」  雑音の置くで鳴らされる呼び鈴をぼんやり聞きながら、水兎は三文字の固有名詞を繰り返し、頭の中で唱えた。    そのキーワードをこちらから提示すれば、拍子抜けするくらいあっさり情報が開示される。信広と付き合いの長い人達なら、漏れなくその男のことも知ってるって具合だ。  地元が同じで、中学と高校が一緒の、一年違いの先輩後輩。地元というのは、この前、祖父が倒れたとかで信広が徹夜でこちらと往復したという同県内の市だ。上京はせず、また大阪にも出ず、市内に出てきたのも一緒で一年違い…東京か大阪かという選択肢があるということ自体、県外の水兎にはある種カルチャーショックだったのだが。東口の、水兎がよくうろつくのはまっすぐ縦に伸びた通りだが、横に伸びているほうの通りにあるコンビニで深夜バイトをしているとか。コンビニの存在は知っていたが、入ったことはない。とにかくお気に入りで、見せびらかすみたいに連れまわしてたって。どうせそれにも飽きたんだろうって、無責任な噂話を楽しむスタンスの人達は、意地悪く笑って締め括る。けど以来ケイトのようなポジションの男はいない。それだけは、事実みたいだった。  水兎の知らない時空で、信広の連れだった男がいても不思議じゃない。でも当たり前だけど、どれだけ時間を巻き戻せたとしても、水兎には信広と知り合った時点までしかさかのぼることができない。せいぜい二ヶ月半前、夏休みがもう終わるって日までしか。  急にリアルになった、水兎の知らない信広の過去。現状でとっかえひっかえされてる女なんかより、ずっと、神経をチクチク刺す不快感を伴う。慎がちらりと漏らした、前にも一人いて、そいつと切れてからイマイチだって…話の流れから、性別は男だろう。慎の言い方も何か奥歯に物が挟まった印象だったし、もしかしてその男のことなんだろうか。慎に改めて尋ねることはできない。そこから信広へはたぶん、筒抜けになるから。  とか、考え出したら。  見たこともない男の存在を、とても、そのままにしておけなくなって。  カラオケに流れていく仲間に、後から合流すると言って別れる。十二月に入り、十一月中旬から点灯していた駅前のど派手なイルミネーションも存在意義が明確になってきた。ツリー、トナカイ、雪だるま、その他クリスマス色の強いモチーフ達…もっとも消灯時間を過ぎていて、電気の通っていないただの照明装置なんだけど。溶けた雪が土と混じるあの感じみたいで、あまり直視したくない。華やかさの消えた駅前を横切り、一人で歩く。携帯のデジタル時計は、零時少し過ぎを表示している。寒さで痛む鼻を啜って、水兎は目的のコンビニの前で立ち止まった。左手首のリストバンドを、ぎゅっと握り締める。  ピンポーン…センサーが鳴る。レジには一人店員がいて、何か書いているようだ。台にくっつきそうなくらい顔を近づけて、ボールペンを動かしている。髪の毛の先はテーブルについていて、目、近いっての。水兎がレジの前に立ったタイミングで、その店員が顔を上げた――あ。 「あのさ」 「あ、はい」  落ち着き払った表情には営業スマイルのかけらもなく、返事は無愛想。特別驚いたふうもなく、客の用件を待つ態度だ。ちらりと左右を見て他の店員が来ないか警戒した自分は、もうそれを確信していたと思う。 「ケイトって誰」  疑問形ではなく、ただ、確かめるための問い。男は背筋を伸ばして、そうすると水兎より背が高かったのだが、その位置から見下ろしてきた。 「俺だけど」  やっぱり。睨みつけた水兎の視線を、ふっとかわして目を伏せる。その伏せた睫毛とか、媚びない口元が、まるきりこの事態に興味なさそうだから。小さな屈辱が怒りへと変化する感情に任せて、水兎は中傷の言葉を吐いた。 「大したことないじゃん」 「は?」 「ノブヒロさんのお気に入りだったってゆうから、どんだけきれいかと思ったけど。全然、大したことないのな」 「はぁ」  そりゃ確かに顔は悪くないけど、驚くほどでもない。容姿に関して、水兎には彼に引け目を感じる必要なんてどこにもないから。だけど相手は無反応、爆弾のつもりで投げつけた名前にもかったるそうな反応しかない。水兎はさらに苛立って、男を睨んだ。 「他になんか言えねーの?」 「ノブヒロって…佐藤?」  挑発に乗らないどころか、どこの誰のお話ですか、って口調。 「他にいんのかよ」 「俺にはいないけど」  俺にもいねーよ。嫌な言い方。一度挑発をかわしておいて、あっさりやり返すのか。いちいちの反応がどうでもよさそうで、まともな会話にさえならない。ようやくひとつのことに思い当たったって顔、ケイトはやはり興味なさそうに、初めて水兎と目を合わせた。 「…お前、誰?」  完全に馬鹿にされている。頬が熱くなったかもしれない。 「あんたには関係ない」  この、一度は選ばれていた男になんて言いたくない。何人もいる、信広に選ばれたい人間の一人だなんて。 「ムチャクチャ言うじゃん」 「関係ないだろっ」 「何しに来たのか知らないけど。俺、先輩とはもう切れてるから」  どうせ、のこのここんなところまで来たのは自分だ。わざわざその惨めさを暴くような言い方をされたショックで、呼吸が苦しくなる。その上、その電池もう切れてる、くらいなトーン。この男にとっては使えない電池程度の問題なのかもしれないが、とても受け入れられなかった。  あれだけご執心だったケイトと別れたんだから、もう男はいらないんじゃねーの?誰かが笑って言った純度100%の下卑た冗談に、これだけ傷ついている自分がいる。もし信広のトラウマになっているとか、未練の対象になってるなら、それだけで罪だ。目の前の男が、水兎からチャンスを奪っていることに他ならない。 「信じるかよ、それで」 「信じないも何も、昨日今日の話じゃない、一年以上前。解ったら帰んな」  細い顎で、くい、と自動ドアを指す。  それが、今までで一番大きな動作だから我慢できない。 「最悪っ」  蹴りつけたレジ台が、痛そうな音を立てたけど。水兎はそのまま、コンビニを出た。   「最悪…」  もう一度呟いて、ダウンのフードを上げる。深夜の寒さにだって、腹が立つ。  何しに来たんだろう。もともと、明確な目的なんてなかった。ただ、かつて信広の左腕の中にいた男に会えば、何かが啓けると思ったんだ…気のせいだったけど。

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