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第7話

 霧がかった部屋。  白くぼやけているのは自分の頭と目のせいだったらしい。しばらくぼうっと天井を眺めていると、だんだん、その霧も晴れていく。  ベッドの上だ。  静かな稼動音はエアコンだろう、壁掛けのそれに目線を移すと、送風口が開いていて、稼働ランプも点灯している。ゴミ箱に、タオルが突っ込まれているのも見える。その所々に付着した赤黒い染みが左手首のことを思い出させ、上掛けを持ち上げて手首を覗き込むと、痛いくらいきつくハンカチが巻かれていた。  ゆっくり起き上がる。ベッドの足元のほうに腰掛けている、カーキ色の人影と目が合った。 「…ほんとに来た」  ぽつりと呟く水兎に、信広がだるそうな仕草で首を鳴らす。 「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ…こっちは昨日から寝てないってのに」  彼が身じろぐのに合わせて、ビニール地のダウンがごそごそと衣擦れの音を立てる。 「さっきこっちに帰ってきたとこ。車ん中でお前から電話があって、そのまま来たんだけど?」  信広は反対側にも首を曲げて鳴らし、腕組みをした。少し上体をこちらに寄せて、水兎を見下ろす。ネコ科肉食動物のように鋭い目つきに、ちらりと手首を示された。 「だせぇ。いつからやってんの、それ、リスカ」 「…最初は中学。酷かったのは高校ん時だけど…でも大学入ってからはやってなかった」  消えそうだけど消えない、もうこれ以上は治癒しない線が無数にある。どれも、十代の半ば頃に傷つけた跡だ。大学進学を機に一人暮らしを始め、環境も変わり、代替行為としてセックスを覚えたから。もう二年近く、たとえば髭を剃るために剃刀を持ったとしても、それを手首に当てるなんてことはしてなかった。  今朝、切った時のことはちゃんと思い出せる。思い出せるのに、他人事みたい。ごそ、信広は腕を組み替えて、何度か頷きながら小さくため息をついた。 「どの程度の出血で死ぬとか、俺にはわかんないけどな。確かにべっとり濡れてたけど、俺が着いた頃には乾き始めてたぜ、それで死んだら笑うっての。何がしたいんだよ」 「ノブヒロさんのせいだよ…俺のこと、邪魔者扱いするから」 「いつ?いつ、俺がした?」 「昨日…電話、無視した」 「ああ…ありゃ、急にじいさん倒れてさ。寒いと年寄りは倒れんだよな。挙句気弱になって、やれ遺言だ相続だで親戚集め出すから、実家が大騒ぎだったの。俺にも呼び出しかかって、ちょうど出るとこだったんだよ」  作り話なら、ここまでうんざりした顔はできないだろう。だけど資産家のお家騒動なんて、水兎には関係ない。 「シンさん家から?シンさんに電話出さして、俺のこと拒否して?」 「してないっつうの」  まともに話の通じない水兎に苛ついたのだろう、口調が強まる。だって、何がしたいんだって訊いたけど、何かを伝えるためにするんじゃないんだ。ただ、傷ついたり、落ち込んだりした時、右手を操る誰かが水兎の中にはまだいる。電話を切られたこと、慎が代わりに出たこと、どちらもショックだった。かすかな頭痛と、かすかな吐き気を感じる。神経が弱っているせいか、軽い貧血のせいか。 「中学ん時…ってゆうか、だいたいどんな集団でもさ、仲の良いグループって自然にできるじゃん?」  突然飛躍した話に、くいっ、面食らったように信広が片眉を跳ね上げる。 「なんか、知らないうちに、ある日いきなりそっから外されて。それまでむしろ俺が中心くらいだったのに、いきなり。理由なんてわかんねーし、そのうちクラスからも外されて、保健室しか行くとこなくなった。高校ん時は…好きな男から気持ち悪がられたり、逆に興味本位のやつらに変なことされたりして、一時期噂んなって、そんでナーバスになってるなって自分で思う頃にはもう、やってんだもん、手首。なんか、だめだ、って思った時には遅いの。ノブヒロさんの態度だって同じことなの、俺には。地雷の場所なんて俺にもわかんないの」 「おま…脅されたって、好きになれねぇよ」  戸惑ってるみたいだけど、同時に、にべもない返答。水兎は毛布を引き上げて、顔を埋めた。 「最悪…シンさんとは寝てるくせに」  また身じろいだのだろう、衣擦れの音に続いて、ベッドの端が少し沈む。俯いた水兎の顎を、信広が強引に上向かせる。うっそり細めているのに、射竦められたと感じるくらい強い眼差し。 「…シンから聞いたの?」 「めんどくさくならねーうちに、言っとくって…」 「あいつらしいわ…寝てるっつっても、だってシンとは恋愛じゃねえもん」  慎も同じようなことを言っていた。友達同士の割り切ったセックスとか、何人もいる女の中から好きな時に好きな女と会うとか、そういうことしてる人。 「恋愛嫌い?」 「めんどくせーな、今は。つうか、お前とは」  わざわざ重ねて言われて、傷口が、動揺の心拍数に合わせて痛む。 「――俺、死ぬよ?」 「死なねーだろ、まず」  ふっ。鼻先で笑われる。 「キスしてくれたら死なない」 「そんでまた、俺は車のドアをへこまされるわけか」  瞬発力のある切り返しで水兎を黙らせて、信広は立ち上がった。ダウンのポケットに手を突っ込んで、キーリングを取り出す。踵を返しかけた姿勢で、何かに気づいた顔でもう一度こちらを見る。 「お前…ODは?」 「やってない…」 「ならいいけど。病院行くなら送ってやるぜ?」 「いい。意味ねーし」  ハンカチの結び目を、ぎゅ、引っ張りながら首を振る。外科的には何の面白みもない切り傷で、もらえるのは換えの絆創膏と、せいぜい痛み止めと抗うつ剤と、医者によっては胃薬を、どれも多くて三日分。どのみち足りない。あとは心療内科への紹介状を書かれるだけなのだ。最初から頷くと思って訊いたわけではなかったのだろう、口の形だけで、あそ、と言うと、彼は部屋を出て行った。  階段を踏む足音。じっと耳を澄ませていると、たぶん、だけど、やがて車の走り去る音が聞こえた。  握り締めていたハンカチの端から、手を離す。いくつか持っているハンカチの中から敢えて、黒地に赤と白のスカル柄って。笑えない、わざとだろうか。この手首のハンカチが彼の施したものだと改めて気づくと、その他のことにも徐々に考えが及ぶようになってくる。裸のまま気絶していた水兎をベッドまで運んで、服を着せたのも彼しかいないということにだ。  裸…見られたんだ。  今さらどこの男にどこを見られても、恥ずかしがりようのない身体だけど。そんな訳ない、というか、そんな場合じゃなかっただろうことくらいわかるけど。少しくらい、見て楽しんでもらえてたらいいなと思う。  空想が、一点に、熱を集める。  血行良くなったら、また、血が出てくるかも。左手を庇いながら、再びベッドにもぐり込む。スウェットの上から臍よりずっと下を撫でると、硬く持ち上がる予感…が、現実になって。ウェストのゴムから手を入れて、水兎は素肌の自分を触った。 「ぁ…」 ※OD…オーバードーズ。薬の大量摂取。自傷行為のひとつ。    手をくじいたとか火傷したとか言っておけば、大学の仲間は巻かれた包帯をそれ以上追及しない。十一月も下旬で一日中長袖の上着を着ているから、そもそも包帯に気づかれないことも多かった。最初の二、三日は疼くような痛みもあって、飲みに行く気にもならなかったし。一人で夜を過ごすことが多くなり、引きこもり癖がつくと、外出するのが億劫でたまらなくなるのだった。  副作用的に、提出期限までかなりの余裕をもって、経済学史のレポートが仕上がってしまう。ふと消音のまま点けていたテレビを見ると、午後七時のバラエティー番組が始まったところだった。ちょうど一週間経って、今日は月曜日。少し迷ったが、ダウンを掴み、部屋を出た。  東口から出て、まっすぐ伸びる駅前通りにある雑居ビルの、二階。階段を上りきる前に、自動ドアが開く。ビールケースを抱えて出て来たのは慎で、水兎に気づくといつものように小さく笑った。 「来たな」 「悪いかよ」 「悪かねぇよ。腹でも壊してたの?」 「…そんなとこ」  答えながら左手首を握ってしまったから、嘘だとわかってしまったかもしれない。前から自傷痕には気づいていただろうし、今回の顛末を信広から聞いていないとも限らないのに。素っ気ない動作で水兎を店内に促すだけ…そう思ったのだが、彼は店の奥を指差し、こう言った。 「ノブヒロ、カウンターにいるから」 「…らしくないじゃん、シンさん」 「うん?」 「俺何にも訊いてねーのに」 「ま、サービスだな」  ポーカーフェイスのまま頷くと、慎は一人でさっさと行ってしまう。演技か本心か疑わせる、それが演技なんだろう。食えないという点では、信広よりずっと難しい。自分には、彼に言われた通りカウンター席にまっすぐ向かうことしかできないとはいえ。  がら空きのカウンター席の、真ん中あたりに堂々と座っている背中。白いTシャツに向かって、水兎は話しかけた。 「隣。座っていい?」  ゆっくりと信広が振り向き、軽く口の端を上げる。 「いいよ」  許可を得て水兎が隣に座ると、しかしそれがスイッチだったみたいに信広は立ち上がり、席を離れてしまった。一瞬唖然とし、次に、理解する。ああ…お前がどこに座るのも自由だけど、俺は移動する、って、意味か。  こんな厄介な人間、普通、敬遠されるもの。憂鬱の重量に負けて、どれくらい俯いていただろうか。 「ミト」  いなくなったはずの人物から声をかけられ、驚いて顔を上げる。 「…何?」 「なにベソかいてんの」  再び隣に座りながら信広に指差されて、水兎は慌てて頬を拭った。 「バッカじゃねえのお前。煙草買い行ってただけだぜ?」  喉の奥で笑いながら、それを証明するように、セブンスターのケースのフィルムを剥き始める。 「あ、そうだ」  シールに爪を立てるのを途中で止めて、彼はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。 「ミト、手ぇ出しな」 「何?」 「これ、会ったらやろうと思ってたんだわ…お古だけど」  手のひらに乗せられたのは、皮製のリストバンドだった。バックル型の留め具が珍しいデザインで、お古という言葉通り、いい具合に手に馴染む。 「いいの…?てか、なんで?」  まじまじとリストバンドを見つめる水兎の横で、信広が笑う。 「その、だせぇ傷が。もうちょっと目立たなくなるまでしてたら」 「あ…うん」  ライターの音に続いて、煙草の刺激臭。 「あー、うぜーから泣くな…」  声の感じ、本気で辟易してる。そう理解していたって、急に引っ込むものじゃないんだ。革製品に水分は大敵だってことも知ってるけど、それを握り締めたまま、しばらく泣き止むことはできなかった。  好きになれないって言っておきながら、好きにさせるようなことばかりする男。プレイボーイの本性だとしても、諦められるわけ、ない。

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