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第10話

 何もない部屋だと思う。  もちろん、ベッドもテレビもオーディオもノートパソコンもあるけど。普段この空間に最低限の存在意義しか見出していない自分には、その最低限の生活行為を超えた場合の過ごし方がわからない。  部屋に一人っきりが、一番嫌い。  土曜午後の、ぬるいバラエティ番組の再放送を見ていたが、あまりの下さらなさに気分が悪くなって消した。ベッドの上で毛布にくるまって、ただ時間が経つのを待っている。  あの瞬間にはっきり感じたはずの激情。缶コーヒーを握った右手に作用した核心が、時計が進むにつれてぼんやり薄まっていく。まるで遠い記憶みたいなんだけど、意識すれば一瞬で蘇りそうな生々しさと隣り合わせだから、余計に気持ち悪くて。  突然、流行りのJ-POPが鳴り出す。  変えたばかりの着うた。足元で携帯電話がチカチカ光っているのに、部屋の中が薄暗くなっていたことに気づく。手を伸ばして取り上げ、ディスプレイを見る。表示されている文字に、それが安堵からなのか緊張からなのか、思わず両手で握り締める。永遠に鳴り続けるものではない、耳を澄ませていれば切れてしまうだけの音楽だ。水兎は携帯電話を開き、通話ボタンを押した。 「もしもし」 『水兎?お前どこにいる?』  頭の中に反響する、独特の、どこか命令口調の低い声。 「家だけど」  たったそれだけの会話が成立しただけなのに、奇跡のようにすら感じる。ややあってまた、信広の優しいような突き放すようなトーンが、水兎の耳をくすぐった。 『今から出て来いよ』 「どこに?」 『シンの店』 「行ってもいいけどー」 『じゃあ。待ってっから』  はっきりしない返答を強引にイエスに変換して、余韻を残さずあっさり電話を切る。水兎は通話後の素っ気ない画面をしばらく見つめ、ベッドから降りた。    まだ開店前の店に呼び出されたのだと気づいたのは、実際に店の前に立った時だ。  自動ドアを通ると、店にはカウンターの中と外に一人ずつ男がいるだけだった。 「外寒かったろ」  慎に笑われたのは頬の赤さで、ポケットの中で温まった両手を押し当てると、頬は驚くくらい冷たくなっていた。 「座れば?」  信広に促されて、一つ席を空けて座る。水兎にとって必要だったそのスペースは、彼が席を詰めたことによって消えてしまい、結局隣り合うことになる。ふー、先に煙草の煙を吐いてから、信広は口を開いた。 「連中に聞いた」  また吸って、吐いて。 「最近顔見せないと思ったら、こそこそ嗅ぎまわってたみたいじゃん」  水兎に対してだって口の軽い彼らが、さらにその水兎の行動を信広に漏らす可能性は、決して低くなかった。期待半分、恐怖半分だった出来事が今現実になっているのだが、考えていたほど甘くなかったと悟るしかない。  だって、と、言い訳を導くために声を発することすら、できないでいるのだから。 「…」 「だんまりかよ」  俯いて黙りこくるだけの水兎を、そんなふうに評する。  信広が言ったのは、皮肉だが、ケイトの指摘通りのことだった。 「何で直接俺に訊かねぇんだよ」 「だって…答えてもらえないかもしれないじゃん」 「答えるかもしれないだろ?つーか答えてやったよ、お前さえ俺に聞いてくれれば」  辛辣な切り返しに、やはり黙り込むしかない。目の端でこっそり窺っていると、信広はまだじゅうぶん長い煙草を灰皿に押し付けた。 「お前、ケイトに何かした?」 「何にもしてない。どんなやつか気になったから、会いに行っただけ」 「いつ?」 「こないだ…あと、今日」  浅いため息を吐かれる。失望のため息だろうかという不安が、水兎を饒舌にさせた。 「だってノブヒロさんが好きなんだもん!でも俺と付き合いたくないってゆうし、なのにシンさんとは寝てるし。前付き合ってた男と切れて、そっから冴えないってゆうなら…そっから恋愛めんどくさいって思うようになったとしたら、そんなのあいつのせいじゃん」 「…どっからそんな話が出たんだ」  頬杖をついた信広が苛立った様子で、銀髪に指を入れて引っ張る。彼の疑問に答えたのは慎だった。 「たぶん俺が悪い。名前までは言ってねえけど…憶測で余計なことまで話しすぎた」  あの時も慎はカウンターの中から、こうやって淡々と話したのだ。だけど、あの時水兎にとって現実的だったのは慎と信広の関係で、それ以外の部分は軽く聞き流してしまえる程度のことだったから。 「シンさんのせいじゃないよ、詳しくは言わないって、教えてくんなかったし…そのあと、俺がノブヒロさんの知り合いに聞き回ったの。つーか皆知ってた」  最後少し腐してみたら、思ったより不愉快そうな顔をするから、すぐに後悔させられることになる。機嫌を損ねたかったわけじゃないと心の中で訴えたって、彼の頬が歪んだ事実は変わらない。その表情もすぐ素っ気ないものに戻り、信広はまたため息を吐いて、頬杖の角度を変えた。 「で。会って、何話したんだよ」 「何も…今でも繋がってんじゃないかって俺が疑ったら、もう切れたって言われただけ」 「切れてんだよ、実際。何疑ったのか知らねーけど、一度も会ってないっつうの。なあ、お前ってさ…そうゆう場面で手ぇ出るやつだと思うんだけど。あいつに何したの?」  重ねて詰問される。今度は、何かしたのか、ではなく、何をしたのだ、と。より確信的な問いに、何もしていないと言った水兎の嘘なんてお見通しなんだと思い知らされる。太股の間で握った拳に力が入り、手のひらに爪が食い込む。 「――一人で空回ってることくらい俺だって気づいてたのに…解ったようなことゆうから。頭来て、コーヒーかけた」 「ミト」  びく。抑えた低音が、水兎の肩を揺らす。信広の手に顎を掴まれて、彼のほうへ顔を向けられる。水兎は彼の手首あたりを睨みながら、酌量の余地を探した。 「冷めてたからそんな熱くねーし…量だって多少、減ってたもん」  頬を支えていた大きな手のひらが離れたと思った次の瞬間に、パチン、と、ヒットする。 「お前最低」  痛かったかもしれないし、痛くなかったかもしれない。水兎はただ呆然とその感触の上に自分の手のひらを当てて、涙声を上げた。 「ごめんなさい…」 「ミトさ、悪いと思ってねぇだろ。俺に怒られてんのがショックなだけなんだろ?」  反射的に首を振ったが、否定のためではなくやはりただ、そう言われたことがショックだったのだと思う。椅子から立ち上がった信広が、ぽつりと呟く。 「ちょっと行ってくるわ…」  言い終えるや大股で席を離れる彼を、引き止めることができない。足音とキーの音が遠ざかるのを、水兎は意識の遠くで聞いていた。両天秤のそれぞれの皿に、鉄と羽根を乗せたらどちらが傾くか。そういうことだ。    鼻水をこすり上げ、目の中に溜まった涙を袖で吸い取る。  信広が見ていないのに、泣いてみせても仕方ない。そうでも思わなければ、自力で涙を引っ込めることなんてできないから。成功したと思った途端に片目から一滴流れてしまい、カウンターの中から差し出されたタオルに顔を埋めることになった。ぎゅっと押し付けて、離す。大きく深呼吸をしてからそのタオルを突き返すと、受け取った慎が角と角を合わせて畳むような動作をしながら、目を上げた。 「ミト…俺にしとけば?ベタだけど」 「何言ってんだよ、二人で寝てるくせに」  笑えない冗談に噛み付く水兎に、彼は涼しく笑うだけだ。 「言っただろうが、俺達は恋愛してるわけじゃねえんだよ」 「意味わかんねー…牽制するみたいなこと、散々言っといて」 「するだろ、そりゃ、ノブヒロに流れてかないようにさ。俺のタイプはほんと、男でも女でも、お前みたいにどぎつくて可愛い子なの。性格曲がってようが関係ないし…俺も曲がってるから」  論理的、かつ、直接的。慎一流の冗談ではないのだと理解するしかないが、理解したって笑えないことに変わりはない。戸惑う水兎に、慎はそ知らぬ顔で頷くだけだった。コト、金属製のホルダー付きのグラスが置かれる。湯気の立つ薄茶色の液体は、ホットウーロン茶だろうか。 「ま。考えといて」 「無理…」 「即答かよ」  ふっ、と、失笑が弾ける。  ホルダーの取っ手を掴もうかどうか迷ったが、水兎は手を引っ込めて、その手を見つめた。 「無理だよ」 「今聞いたよ」 「ねー…もし俺が断ったら、もうここに来るなって言う?」 「ミトってさ…案外、慣れてないっつうか、そうゆうの怖がるのな」  また笑われる。慎はきっと、知らずに生きて来れたんだ。親しかった友人から突然他人の顔をされた時の、絶望とか。人間関係がリセットされてしまう瞬間の、血の気が引く寒さとか。を。 「即答が真意とは認めねえから」 「…優しくしないでくんない」 「するよ。俺はね、お前が一番弱った時につけ込もうって決めてたの」  水兎の優しくされたい願望を知っていながら、ひとの気持ちを堂々と利用して悪びれない男。それにすがり付きたい強烈な欲求が、信広に失望されてどれほど辛いかという一番中心にある感情を思い出させ、増幅させる。 「最悪…」 「お前もな」  何について最悪と評されたのか。  知りたくないから、言わないで欲しい。水兎はダウンを掴んで、店を出た。  空はもう夜空だ。曇天の、星一つない空。

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