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第11話
ガラス戸に反射した自分と目が合う。夜の景色に透けているのに、黒く歪んでいるようでもある。カーテンを引いて遮断すると、ただ、真っ暗な部屋にいる、それしか残らない。部屋のライトの、白っぽい、人工的と言うより不自然な明るさ。水兎をナーバスにするものでしかなく、正体不明の迫り来る何かに押しつぶされるように、ベッドにうつ伏せた。
左手首のリストバンドを撫でる。
柔らかくなった革の触感とか、冷たいバックルの造形は、たとえ視力を失っても触れればわかるくらい、指先が憶えている。それが果たして幸せなのか不幸なのかは、リストバンドを外した手首が空気に晒されて寒々しくなった、その温度差が答えだと思う。
かさぶたも取れて、傷口は、傷跡へと退化しつつある。
もう、消えそう…まずいなぁ。消えちゃうのは、まずいんだ、またつけなきゃいけなくなるから。それが真理でさえあるように、傷口を再生することが必然的に感じる。何年も忘れたと思ってたけど、こんなに簡単にフラッシュバックに陥ってしまえるなんて。
爪を立てて、引く。
直線状に、鋭い熱が走る。
集まって、溢れる想像。水兎は下唇をせわしなく弄りながらベッドから降りた。テーブルの上のダイレクトメールを払い落とし、下敷きになっていたハサミを探し当てる。最低限機能すれば何であれ構わない。
「おいミト」
ドアが開けられた音より、唸るような低い声のほうが先に届いた気がする。
床を力強く踏みつける乱暴な足音、彼は乱暴に水兎の手首を掴み、そのまま乱暴に腕を引っぱり上げた。捻り上げて角度を変え、親指の腹で血管を探るように触れ、それでも納得しない様子で顔を覗き込んでくる。
「やってねえな?」
曖昧に顎を引いてみせると、ハサミを握っていた右手の指をこじ開けられる。水兎からハサミを奪い、左右に首を巡らせた信広は、ベッドの上にそれを発見したよう。以前は彼の物だったリストバンドを拾うと、水兎の手首に巻きつけた。
「つけとけ…風呂以外で外すな、マジで」
バックルを留められ、言い聞かせるように軽く揺さぶられる自分の手首を、ただぼんやり見つめることしかできない。肩に添えられた手がそんなに重たいはずないのに、まるで腰が抜けたようにベッドに座り込んでしまった。ギシ、隣が大きく一度沈む。
しばらく座り心地を探るように身じろいでいた信広が、ゴソゴソとダウンのポケットから煙草のケースを取り出す。一本咥えてライターを近づけながら、横目でこちらを見た。
「吸っていい?」
吸う気満々なくせに。
その唇から煙草を奪い、半分に折り曲げる。
「おい」
半笑いの抗議。
折った煙草を床に投げ捨てて、水兎は震える声を絞り出した。
「…ヨリ戻してきたの」
「あぁ?んなわけあるか」
「だったら何しに行ったんだよ、つーか、なんで来たの」
「どっちから答えりゃいいんだ…」
首を鳴らした信広は、今度は許可など求めずに煙草に火を点けた。一瞬息が詰まりそうなほどきつい香りが、鼻をさす。
「お前の代わりに頭下げに行ってやったんだけど?」
「なにそれ…」
「解れ、それくらい。それだけつまんねえことしたって意味、お前が。少しは反省したのかよ」
うんざりした口調で言われて、最低なことをしたこと、最低なことをしたと信広に思われていることが、改めて圧し掛かる。実際反省しているのかと訊かれれば、たぶんまだ、彼の顰蹙を買ったことへのショックのほうが強い。
「…ん」
妙な間と、曖昧に濁したトーンに、ある程度それを察したのだろう。信広は俯き、盛大に煙を吐いた。
「難しいわ…お前。来てみて正解だった。もしかして手ぇやってんじゃねーかと思ってさ」
なぜここに来たか、その答えなのだと解釈できる言葉。
その一音一音にしがみ付きたい気持ちが、水兎に信広の腕を握らせる。軽いダウンの生地を、ぎゅっと、引っ張る。
「…俺のこと気になる?」
「気に懸かる、が正しい。それだってじゅうぶん、柄じゃねえの…俺にしてみりゃ」
苦笑がちに言って腕を振るが、振り解くというほど大きな動作ではなかったので、水兎はそのまま両腕を絡めた。
「シンさんに…俺にしとけって言われた。ノブヒロさん知ってた?」
「ん。まぁな」
「ちょっとは妬ける?妬いてくれるなら俺、シンさんと付き合う」
「そうゆう意味ないことはすんな」
角度のついた彼の顎先を見上げると、その先からまた白い煙が吹き出す。
「ねー、嫌わないでよ」
「好きになって、じゃないの?」
「なってくれるの?」
「…お前の思うとおりにはしてやれねえよ、たぶん」
「どうゆう意味」
「俺は一人だけと付き合うとか、あんまり大事だと思わねーし…お前のこれに、責任負わされんのはやっぱ重たい」
立てた右手の中指を左手首に押し当てて、すっ、と切るジェスチャーをしてみせる。頭と、身体も一気に冷めていく。水兎は両腕の力を抜いて、信広から離れた。彼に対して既に、前科もある。おまけに未遂一件。当然の反応だろう、彼は慈善活動家でも精神科医でもない。
「最悪…うざい、俺」
「うぜーと思ってるし、めんどくせーとも思ってる」
追い討ちのように肯定されて、強がる理由もなくなり、涙が零れる。すぐに頭を小突かれ、苦々しく言われた。
「――泣くなバカ。思ってるけど、嫌いじゃねえよ」
「どれくらい嫌いじゃない?」
「だからそれがめんどくせーの」
すがったつもりが、却って遠ざけてしまう。
「もー俺最悪じゃん」
顔を伏せると、太股の上にボタボタと水滴が垂れる。
「…だからあ」
信広は水兎の頭を、ゆさゆさと大きく揺すった。
「そうでもないっつってんだろ?どうでもいいやつのために、ここまで走り回らねえよ、俺は。意味わかる?それで納得できねーの?」
空気を内包した柔らかい生地を背中や肩に感じる。都合よく受け止めればまた、それほどでもないとあっさり言われるだけだろう。ただ、彼の腕が背中に回されていて、それが突き放すための動作でないことだけは確かだから。信広を見上げると、一瞬息を呑むくらい間近に彼の顔があった。きっと今、食い入るように彼の目を見てる。
「…じゃあキスして」
「ミトそれ、言葉どおりの意味?」
「うん」
信広が、伸びをするときのライオンみたいに、うっとり目を細めて笑う。
「灰皿ないの?」
「それ…中でいい」
腕を伸ばして、飲みかけのペットボトルに短くなった煙草を捨てて。大きな手が水兎の頭を支える。分厚い唇が、ゆっくりと重ねられた。
下唇を舐めてから、間に舌先を挿し込んでくる。ちゅう、と強く吸うから誘い出されるように舌を出すと、軽く噛まれて、また吸われる。
「ん…」
眉間に力が入る。
前歯と前歯がカチ、と当たり、信広にふふっと鼻で笑われた。水兎の歯の付け根をねっとりと舐めると、舌に舌を絡める。こすれ合う度に口の中が泡立ち、飲み下すと、こくりと喉が鳴る。口の端から唾液が零れそうになって、思わず身体をよじる。信広が顔の角度を変えてそれを舐め取ると、高い鼻先が頬を刺激した。彼の胸元を握っていた手が剥がされて、首の後ろに誘導される。抱きつけ、との命令に従って両腕で彼の首を抱くと、深く繋がっていた舌が離れた。
「は」
上がった息が、鼻と口から抜ける。
キスはまた唇どうしを重ねる行為に戻る、けど、たっぷり濡れた唇は性器に近い。ちゅ、と音を立てながら何度も啄ばまれて、そう、脱力しそうになる身体を彼の首に掴まることで支えることができた。最後、口の中の唾液を全部吸い取られるくらい強く吸われて、終わり。
身体を離し、唇を手の甲で拭ってみせると、信広は容赦なくにやりと笑った。
「下手くそ」
「…あんましたことないもん」
「はぁ?だってお前」
乱された息の間から反論できることなんて、ないけど。あまりに素っ頓狂な顔で驚かれたので、急にそのことが恥ずかしくなる。
「好きじゃないやつとキスなんかできないし!だいたい皆、俺とキスすることになんか興味ねーし」
言い訳したって、さらに唖然とされるだけだった。
たっぷり沈黙した後、指先でピアスを弄って、髪の毛をよじって。
「へぇ…うん、お前のそうゆうとこ嫌いじゃねえよ」
なぜか、気に入ったみたいだ。
唇にまとわりつく唾液が冷えて、急に生々しくなる。袖口でごしごしとこすり落としていると、それだけの隙にまた煙草を吸い始めた信広が、ちらりとこちらに目を向ける。
「とりあえずさ、ミト」
「…何」
「シンはやめとけ。まともに付き合うには向かねーよ」
二人して同じ理由で相手をこき下ろす、似たもの同士。疎外感はやはり感じる。
「あんたこそ、シンさんと切れろよ。それくらいしてくれてもいいと思う」
「なんだよ、それくらいって」
「他の女とも全部切れろって言ってるわけじゃねーって意味。つーか、そっちは俺が、逐一壊してくから」
「そりゃそりゃ…怖ぇな」
本気にしてない、薄ら笑い。
食い下がろうとしたが、ふと向けられた手のひら一つに黙らされる。
「俺に喋らせろ、まだ残ってんだよ。お前な、ウリやめろ。他のバイトできねーなら、欲しいもんくらい俺が買ってやるから」
酷い言い草だ。
「最悪…」
そう呟いて睨みつけたが、やっぱりライオンの笑みでかわされる。
目の前で、煙草の先がくるりと円を描くのに魅入られながら、水兎はまるで催眠術にかかったような気分で頷いた。深く、イエス、と。
<終わり>
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